2008年 如月

張貼日期:Mar 05, 2011 5:54:12 AM

かつて、次のように書いたことがある(『脱・標準語の時代』小学館文庫)。

個としての一人の人間が標準を指向しつつ意識的に発話することばの総体が「標準語」である。したがって、そこには当然のこととして、個人差、地域差が存在しよう。ここで定義している「標準語」は、地域差の有無は問題にしていないのである。(中略)従来のように、地域差の無いことを前提にして、「標準語」は日本全体で一つ、といったような考え方は、話しことばに関しては時代錯誤なのではないか。その意味で私は、「標準語」というものを国家レベルで考える立場には与しない。

その後も「個」ということについて考え続けている。最近、辺見庸さんの文章を読んで、共感を覚えるところがあった。

人間の繋がり合いというのはとても大事です。だからこそ私たちは常に個という極小の単位に立ち返る必要がある。「私」という単独者の絶望と痛みを、大げさにいうならば、世界観の出発点とする。絶望と痛みは共有できず交換も不可能である。そのことを認めあうほかない。そこではじめて、他者の痛みへの想像力や存在自体への敬意が育つのではないかと私は考えています。

(『たんば色の覚書 私たちの日常』毎日新聞社)

ちなみに、この本のなかで、辺見さんは、「国家の暴力」、そして「抵抗暴力」に次ぐ「第三の暴力」と呼ぶべきものがあると述べ、それぞれを次のように定義している。

国家とはある領域において暴力を独占する共同体である。国家は国家がふるう以外の暴力を一切認めない。これに対する集団的叛乱が「抵抗暴力」である。そして「第三の暴力」とは、集団を前提としない、あくまで諸個人の自律性に基づいた抵抗であり、これは日常の些細な場面でも起こりうる。

2008.2.24