2011年 茶梅

張貼日期:Nov 28, 2011 10:20:4 AM

高岡駅前といえば思い出す情景がある。それがいつごろなのかは判然としないが、まだ幼い時分であった。

何かの買物で高岡に出かけての帰り際、駅前の食堂に母とふたりで入ったのであった。店の中は比較的混んでいた。どうにかテーブルに座れたのだが、どれだけたっても店員が注文を取りにこない。隣のテーブルの客には愛想がいいのだが、こちらが声をかけても返事だけでなかなかやってこない。

しばらくして、母が膨れっ面になって立ち上がり、「こんな店、もう出よ!」と叫んで、わたしの手を引っ張って出入口の方に向かったのである。そのときの周りの客の目つきや店員のあっけにとられたような表情が脳裏に浮かぶ。

その時のわたしのとった行動がふるっていた。母に無理やり手を引っ張られながら、後ろを振り返りつつ、店員に追従笑いをして、申し訳なさそうに頭を下げたのである。

そのような自分の行動を思い起こすにつれ、今になってもまだそのような卑屈な態度が直ってはいないな、と忸怩たる思いにかられる。

わたし自身が往々にして採る、相手の意に合わせる行動を、わたしの優しさだと思う人も多いようである。わたしとしては、相手に合わせるとしても、心にもないへつらい行動をしているわけでは決してないのだが、「でも、そんなの本当の優しさじゃない、小心なだけ」と指弾されれば、その通りと認めざるを得ないのも事実である。

文章では、「相手に合わせる形で行動することが本当に相手への配慮なのか、本当の優しさなのか。これは、優しさということについて、遅まきながら考えるにいたったわたし自身へのつぶやきでもある」(『方言は気持ちを伝える』岩波ジュニア新書)などと、恰好をつけて記しているが、それもやはり外づら。外づらと内づらが分裂する性向はいくつになっても直りそうにない。

三つ子の魂百まで、なのである。

2011.12.1