2019年 緑雨

張貼日期:Feb 28, 2019 5:59:40 AM

一葉の病状の深刻さを森鴎外に伝えたという斎藤緑雨については、彼の箴言を、かつて高等学校の「国語」教科書(三省堂)の編修に携わった折、現代文として採用したこともあって、私にとって忘れられない人物の一人である。

その箴言の一端を掲げる。

総理大臣たらん人と、われとの異なる点を言はんか。肖像の新聞紙の付録となりて、いたづらに世にもてあそばれざるのみ。

拍手喝采は人を愚かにするの道なり。つとめて拍手せよ。つとめて喝采せよ。かれおのづから倒れん。

緑雨は、一葉の亡くなる年(明治29年)の1月に初めて一葉に手紙を送り、その後、一葉の家を訪れ、時の文壇をめぐって互いに批評しあう仲となった。

一葉の死後、遺族の生活の面倒をみる一方、一葉の残した日記を手元に留めていたが、亡くなる直前に、友人の馬場孤蝶に託したのであった。

その日記の明治29年5月29日の記述には、緑雨についての一葉なりのコメントが見える。

この男、かたきに取てもいとおもしろし。みかたにつきなば、猶さらにをかしかるべく、…親しみは千年の馴染にも似たり。当時の批評壇をのヽしり、新学士のもの知らずを笑ひ、江戸趣味の滅亡をうらみ、其身の面白からぬ事をいひ、かたる事四時間にもわたりぬ(『一葉恋愛日記』角川文庫による)

なお、緑雨も一葉と同じ結核を患って、明治37年に36歳で没しているのであるが、その折の自作の死亡広告は有名である(以下の記述は「サライ. JP」に基づく)。

緑雨は、危篤に陥った4月11日、訪ねてきた馬場孤蝶に、「いよいよお別れだ。少し頼みたいことがある…」と言って、日付を抜いた形で口述筆記をさせ、「自分が死んだら、これを新聞の広告に出してほしい」と依頼した由である。そしてその2日後の4月13日の朝に息を引き取った。その死を受け、孤蝶は依頼された通りに計らい、14日朝の新聞に下記のような本人自作の死亡広告が掲載されたのであった。

僕本月本日を以て目出度死去仕致候間此段広告仕候也 四月十三日 緑雨

(2019.3.1)