2015年 厳寒

張貼日期:Jan 31, 2015 2:22:13 PM

私の小・中学校時代の学級メンバーは、1945(昭和20)年の4月から1946(昭和21)年の3月までの間に生まれた者たちである。いわゆる団塊の世代ではない。終戦時をはさんでいるがゆえに前後のどの学年よりも少人数の学級であった。小学校から中学校まで、多少の出入りはあったが、全校で1学級、24人が基本的なメンバーであった。

内訳は、男子が17人、女子が7人で、性別構成はまったくのアンバランスであった。戦乱時には古今東西、何故か男児が多く生まれる由であるが、まさにそれに対応する状況であった。戦乱時には兵士の補充のために神が男児を多く授けるのだ、という説があるが、そうではなく、そのプロセスには栄養素がかかわっているのではないか、と米原万里さんは言う(『米原万里の「愛の法則」』による)。

メンバーの一人に親友のAがいる。

彼の父親は昭和19年、中国大陸に出征したまま帰らなかった。だから彼は父親の顔を知らずに育った。「父はシベリアというところで死んだらしい」と彼から聞いたのが何時のことだったか判然とはしないのだが、そのときの彼のさびしそうな顔がいまも脳裏に浮かぶ。彼の父はいわゆるシベリア抑留者だったのだ。終戦の間近、旧ソ連は突然日本に参戦し、終戦後、旧満州、樺太、千島から約57万5千人もの日本兵をシベリアへ強制的に送った。そして、厳寒地での重労働のすえに、多く人々が無念の死を遂げたのである。

あるとき、彼の家にどこの誰かも分からない人が訪ねてきて、仏壇に手を合わせて帰っていったという。おそらくその人は彼の父の最後を見届けた人だったのではないかと私は思った。彼の父の最後のことばを伝えるべきメッセンジャーではなかったのかと。しかし、そのとき彼の母は深く追究しなかった由である。

大人になってから、彼は会うごとに、父の亡くなった場所を特定したい、そこに行ってそこの空気を吸ってみたい、と言い続けている。

1991(平成3)年に、日ソ間で「捕虜収容所に収容されていた者に関する日本国政府とソヴィエト社会主義共和国連邦政府との間の協定」というものが締結され、約3万7千人分の抑留中死亡者の名簿が日本に引き渡された。その後もその協定を継承したロシア政府から数次にわたって死亡者名簿が提供されて、現在までに約4万1千人分の名簿が閲覧できるようになっている。厚生労働省からのその公開があるごとに、彼はその名簿を繰るのだが、いまだ、その中に父の名を見つけ出せないでいる。

2015. 2. 1