2007年 霜月

張貼日期:Mar 05, 2011 5:52:15 AM

通学時に、自転車をこぐこと自体が「しんどい」と感じられたのは中学3年生の晩秋の頃であった。咳が続いていたので風邪のせいかと思ったのだが、あまりにも怠いので病院に行くことにした。医師は、私を見るなり、「顔が腫れとるぞ」と言った。検査の結果、尿が濁っている、蛋白も下りているとのことで、即入院となった。「急性腎炎」という病名が与えられた。

その年は父がサナトリウムで療養中だったので、一人で稲刈りに精励したことが祟ったようである。溶連菌感染による扁桃腺炎からの転移であった。

塩分と蛋白質が禁止、ということで、毎食、パンと林檎と(何故か)干し葡萄だけの献立になった。今から考えると、質素すぎる、栄養的に問題な食事なのであるが、当時の田舎ではそんなものだった。入院生活は1ヶ月半にも及んだ。すっかりやせ細ってしまった。

私が、「嫌いなものは何?」とたずねられて、「干し葡萄」と答える、そもそもの発端はここにある。

入院して2週間ほど経った頃からだったと思うが、ある青年が私の病室(和室)を訪ねてくるようになった。そのきっかけが何であったかのは思い出せないのだが、その青年はほぼ毎日、夕刻になるとひとり訪ねてきて、文学の話をして帰っていくのであった。

なんでも、故郷を遠く離れ、わが山村での用水建設のために出稼ぎにきている、とのことであった。ことばから東北地方の生まれだと推測した。

私はほとんど彼の話を聞くだけの立場であった。そして、聞きながら眠ってしまっていたようである。目が覚めると彼の姿はもう無い、といった日々が続いた。なんだか恍惚の感があった。

まわりの人たちは彼のことを少し気味悪がっていたふしがある。夜遅く、勤め帰りに立ち寄ってくれる母は、彼が何をしゃべったかを毎晩のように尋問したのである。

そして、ある日を境に彼の訪れは突然に途絶えた。

誰かが咎めたのかもしれないと思った。しかし、私はそのことを誰にも聞こうとはしなかった。

2007.11.6