2013年 秋麗

張貼日期:Sep 30, 2013 11:51:2 AM

信州大学で開催された第32回社会言語科学会に出かけてきた。この学会に参加するのは何年ぶりであろうか。久しぶりに参加して、この会が大規模に展開していることを垣間見て、ある感懐を抱いたのであった。

この学会の萌芽は、後にこの会の初代会長を務めることになった徳川宗賢さんのメモにある、と私は思っている。

大阪大学の日本学棟で隣室の徳川さんから1枚のメモが手渡されたのは、1990年5月10日のことである。メモの最後には、「(ダニエル)ロングから話をきき、5月9日すしやで話をしているうちにフト乗気になる。1990年5月10日 TOK案」とあった。

内容は、人間相互のコミュニケーション、乃至は言語の機能をキーと見定める学際的な学会組織を作りたい、というものであった。そして、「名称:社会言語学者協会【ナンデモヨイ】、大綱:全国の社会言語学者(英語学者を含む)の老若を含む研究会【ローカル性排除、海外の人もドーゾ】、事務所:阪大と国語研におく」などといった構想が記されていた。

そのような会を立ち上げたいので、良きに計らって、とのことであった。

当時、私は雑務に追われていて、しばらくそのまま動くことができなかった。ただ、多忙だけでなく、(告白すれば、)この会が超学際的な組織に拡張したとき、既成の学問領域との調整をうまくこなしていけるのかどうかといった危惧の念が一端にあって躊躇していたことも否めないところである。

その後、徳川さんは、1993年4月に東京に移ったが、この構想は1994年に社会言語学研究会として具体化し、後の社会言語科学会の創設(1998年)へとつながったのである。その社会言語学研究会の発足直前の頃であったかと思うが、「メンバーは首都圏だけで固めてもらう、関西は会場を提供するだけでいいから」と言われたことがある。

嗚呼、心ならずも、私の尻の重さが彼の負荷になっていたのかと、そのとき申し訳ない思いをしたことを覚えている。もちろん、そのような彼の言及は、私の心底を見抜いてのことであって、その奥底では信頼してもらえていたのだとも、不遜ながらに思ったことであった。

大阪(阪大)での徳川と真田の仲は、歴史における徳川と真田とは違ったのである。

2013.10.1