2021年〈ゆらぎ〉を感知する

張貼日期:Jan 31, 2021 1:8:39 AM

書斎の窓から外の景色を眺めていて、ふと、かつての教え子であった宮治弘明君のことが浮かんできた。彼は2001年2月23日、38歳の若さで逝った。もう20年にもなるのかと思うと感慨を覚えるのである。

彼の最初の雑誌論文は1985年12月に発表された「滋賀県甲賀郡水口町八田方言における待遇表現の実態」(『語文』46)である。そこで彼は調査方法として、私の「リーグ戦式面接調査法」を採用してくれたのであった。その論文の中で、彼が、「調査の際には、被調査者がなかなか明確な答えを示してくれないということも実はあった。その場合には、新たな場面を設定したり、(調査者自身が当地の生え抜きなので)予想される語形を与えてみたりして被調査者の内省をうながすようにした。」と述べていることに留意したことを思い出す。それはかつて私が悩みながらも措置をしたやり方と同じだったからである。私は、その措置についての懐疑の思いをずっと引きずってきた。

宮治君は、「体系的な枠組みを見出すためには、自然会話に現れる言語運用の『ゆれ』を考察の対象に入れない方がよい…」とする。しかし、そこでの「体系的な枠組み」とは何なのか、それはあるいは「調査者の主観枠」ではないのか、と思うところがあるのである。

ともかく、彼は彼らしい頑固さで、「ゆれ」を認めないというボールをこちらに投げながら去っていった。

その後、私は、ダイナミックな記述のためには、話者の背後にある小さな〈ゆらぎ〉を感知し、それぞれの言語行動とそこでの葛藤を、そして、一人ひとりにおける内観の向上プロセスを、フレキシブルに描写すべきではないか、と考えるにいたったのである。

彼のボールをあずかったまま、それを直接に投げ返すことのできないことが残念でならない。

2021.2.1