張貼日期:Dec 01, 2013 2:10:25 AM
2013.12.1
浅沼は午後3時頃演壇に立ち「議会主義の擁護」を訴える演説を始めた。浅沼が演説を始めた後右翼団体の野次が激しくなり、(中略)午後3時5分頃、山口が壇上に駆け昇り、持っていた刃渡り33センチメートルの銃剣で浅沼の胸を2度突き刺した。浅沼はよろめきながら数歩歩いたのち倒れ、駆けつけた側近に抱きかかえられてただちに病院に直行した。(中略)一撃目の左側胸部に受けた深さ30センチメートル以上の刺し傷によって大動脈が切断されていた。内出血による出血多量によりほぼ即死状態で、近くの日比谷病院に収容された午後3時40分にはすでに死亡していた。側近によれば、運ばれる途中踊り場で絶命したという。この殺害行為の発生により、演説会はそのまま打ち切られた。
あれは、中学3年生の、秋のある日の夕刻のことだった。
学校のグラウンドで野球に興じていた折しも、校内の拡声器から突然に大音響で臨時ニュースが流れた。日本社会党委員長、浅沼稲次郎が日比谷公会堂での演説中に暗殺されたという一報であった。
そのニュースに接した瞬間での感覚が今も鮮明によみがえる。それは、生まれてからずっと平和であった、この日本がまた戦前のような暗い時代に戻るのか、という一抹の不安、怯えであった。何故そんな生意気な感覚が生じたのかは不明なのだが、日々の平和教育が影響していたのかもしれない、と思う。
そういえば、浅沼がその前年の訪中時に発言したとされる「アメリカ帝国主義は日中共同の敵」という表現を当時吟味したことが記憶のなかにある。
浅沼を襲ったのが、私とはそんなに年の違わない17歳の若者であったということがさらに衝撃を強くした。その若者の名は山口二矢。山口は、事件の3週間後、練馬少年鑑別所の単独室で自ら果てた。
この事件は、1960年10月12日の出来事なのであるが、その概要について、Wikipediaには、次のようにある。