2004年 秋

張貼日期:Mar 05, 2011 4:49:40 AM

昨年の夏、北の大地サハリン(旧樺太)に出かけた。

サハリンの北緯50度以南の地は、日露戦争以降、日本の統治領であった。そこへソ連軍が突然に侵攻したのは1945年8月のことである。そして1951年、サンフランシスコ平和条約で日本は樺太の領有権を完全に放棄した。その間、日本人はほとんどが引き揚げたが、一緒に生活していた約3万余人の朝鮮半島出身者は留め置かれることになった。その人々、特に戦前生まれの2世の人々がいまだに日本語を使っている。その状況を見ておきたいと思ったのである。

1944年、日本政府(閣議)の決定によって、樺太の炭鉱労働者の多くが九州の炭鉱に配置換えさせられた。このたびの調査に応じてくれたYさんのお父さんもその中の一人であった。

「父と離されて60年。その間の苦労、あなたたちに分かりますか。」

と語ったときのYさんの表情が脳裏に焼き付いている。「日本人の一人として、この問題をどう考えるか。」と問いかけたサハリン韓人老人会の幹部のことばとともに。

ホルムスク(旧真岡)では、町はずれの旧熊笹峠にのぼった。(真岡といえば、ソ連軍の急襲のなかで、「皆さん、これが最後です。さようなら。さようなら。」と稚内に打電したあと集団自決した真岡郵便局の9人の女性電話交換手のことが思い出される。)旧熊笹峠は日ソ両軍の激戦地。いまも「戦勝記念碑」が立っている。そしてその記念の大砲は日本の方を向いているのであった。

銃口の先には、青く澄み切った晩夏の空が広がっていた。

2004.9.1