2005年 8月

張貼日期:Mar 05, 2011 5:34:13 AM

石田外茂一「五箇山民俗覚書」には、1945年8月の突然のソ連軍侵攻時における我がふるさとでの状況が、次のように生々しく描かれている(寺崎満雄氏の翻刻による)。

女の声がわめいている。飛び出てみると、マイダの婆さんが、ロシアが日本に戦争しかけたと金切り声を上げて、エガワのふちの石につまずきながら、うろたえまくって家へ走って行くのだった。六助でラジオを聞いて来たか、松次郎さんが新聞を見て話したかしたのだったろう。これが異様な印象を私に残している。それはとにかくとしてソ連参戦は村人にも非常な衝撃を与えた。日本がロシアに仲裁をたのんだらロシアは却って日本に宣戦を布告したと、憤慨する者もいたがこれは悲劇を喜劇化するだけだ。手をあげる直前になっている日本に、ロシアは味方しなければならないという義理はないのだし、有利な方へついてその分け前にあり付くのが国際戦だ。ところが、この期に及んでも日本が手をあげる直前にたっていることを日本国民は知らなかったのだ。

当時、このように国際情勢を冷徹に判断できる人がふるさとに存在したことは驚きである。石田外茂一は、戦中戦後の約5年間を五箇山で過ごした思想家である。特に戦後は小中学校の校長として村人の啓蒙に尽くした。石田はまた、進駐してきた米軍軍政部に対して、次のように言う。

真の民主主義には死刑はないはずであります。如何なる場合でも人間が人間を殺してはならない。戦争はいけないし個人的な問題で故意にまたは単なる一時の昂奮で人を殺すのもいけないことは勿論だが、冷静な理性を持って裁くはずの刑法に死刑があるということは人類の恥辱だと思います。これは理性の判断をもってする殺人であるから、戦争乃至あらゆる闘争の昂奮状態における殺人よりもモット悪いと思います。私はある種の敵対的、反抗的立場からいうのではありません。私はヒューマニストとして戦争に賛同しなかったと同時に、戦争犯罪者を死刑に処する事にも賛同できないのです。

これは、フィリピンでの山下奉文将軍死刑執行の直前における言辞である。

2005.8.9