張貼日期:Sep 30, 2014 2:55:25 PM
信心が篤いわけではまったくないのだが、8月の15日には故郷に帰り、墓参りをすることが慣例となっている。海外出張中の年を除いて、ほぼ毎年帰郷している。
墓所は生育した真木集落の上手にある。個々の家の敷地内にあったそれぞれの墓を一箇所にまとめ、そこで集落の成員とその関係者が、僧侶の読経のもとに一緒に墓に参るという行事が始まったのは、たしか私が20代半ばの頃であった。
とは言っても、墓は6基だけである。いつぞや阪大の国語学・日本語学研究室の教員たちとその墓所を訪ねたことがあった。同行した金水敏さんが、「八つ墓村じゃなくて、六つ墓村なのですね」と言ったことを、行くたびに思いだして苦笑している。
子どもの頃、集落には7軒の家があった。当時、集落の構成員は45人くらいであったかと思う。その後、1軒が減って、学生時代には構成員が30人弱になっていた。そして、さらに2軒が減り、現在は4軒だけとなっている。昨年、集落の成員は8人いたのであるが、その後、そのうちの3人が養護老人ホームに移り、今年は、驚くべきことに成員5人だけの集落となってしまっていた。
「限界集落」などという表現があるが、限界点など、すでにはるかに超えている。
他人事のように観察すべきことではなく、忸怩たるものがあるのだが、日本の地域社会の行く末を現実として見せられている思いでもある。
真木集落の歴史はずいぶんと古い。真田治兵衛の著した『懐中萬覚記』には、天明7年に調査された村名の由来記事に基づいて、
一、元和八年 高物成帳ニハまき村ト御座候
二、寛永七年 品々帳ニハ牧村ト御座候
貞享年中上野村五郎右衛門儀ノ鉄砲帳ニハ真木村五郎右衛門と書キ上ゲ来リ申シ候 先年ヨリ牧村ト書キ上ゲ申シ候所
向後ハ真木村ト書キ上ゲ申ス可ク旨御算用場ヨリ仰セ渡サレ候ニ付元禄元年ヨリ真木村ト文字替リ申シ候
とある由である(『上平村誌』による)。 ちなみに、元和八年は1622年である。
2014.10.1