2008年 葉月

張貼日期:Mar 05, 2011 5:58:11 AM

かつて文学部教授会のメンバーとして親しくさせていただいた歴史学者の黒田俊雄先生は、私の出身校、富山・砺波高校のOBでもあった。

お盆前後になると、先生が20年前に編まれた『村と戦争●兵事係の証言』(桂書房)を紐解くことにしている。これは、先の大戦中に兵士の召集事務を担当した元兵事係、出分重信さんの吐血に近い証言を集成したものである。

その証言の一斑を掲げよう。これは、「兵隊にとられていくことについて、一般の村の人たちはみんなどういう気持ちでいたのでしょうか」という質問に対する、出分さんの返答である。

当事者についていえば、どうしても行きたいという人はめったにいなかったと思います。(中略)だんだん太平洋戦争の末期になったら、ひどい者になると三回も四回も召集されているからね。「支那事変」のをまぜて。そうすると、年令からしてうちの大黒柱でしょう。子供にまだ教育これからしていかなければならない。田んぼはどうにもならない。そうでしょう。そうしたらやっぱり家庭なり子供なりの状態を考えて泣くのです。無理からんことだと思います。それが、「兵事係や村長は行かなくていいじゃないか」という、そこまで文句を並べる人は、これはまだ正直なんです。思っていてもなかなか言えない。黙って涙呑んで、汽車に乗って発っていっているのです。それが普通の人の気持ちじゃないですか。しかしながら当時の世相からして、我々は、小学校時代からそういうものだと教えられてきたから、どうしてもこれはしかたないものだと自分に言いきかせて行ったわけです。

ただ、私が同じ兵隊でもかわいかった(真田注:かわいそうだった、の意) のは、一六や一七で志願させて、無理矢理ハンコを押させた若い連中です。兵事係が夜中に行って、ハンコ押させて。しまいには適任者全部ハンコ押させたもの。その時分は日本の海軍力は、ほとんどなかったくらいです。沈められて。そういう状況というのは我々は大体予想できたけれど、軍部というのは無茶なことをやったものです。海軍志願せ、海軍志願せと。それらの子供というのは、今は開国以来ない日本の重大危機なのだ、国のためにおまえたちの命がほしいのだといわれて、軍隊へ入ればまたそういうし。子供たちにはわからないのです。靖国神社で会いましょうという歌なんか歌っているけれども、これは夢を見ているようなもので。また帰ってくるのだというような。死とはどうなることか、人生がどうなることかということは、彼らにはわかっていない。私はこの年になって申し上げるのですけれど、それらの子供らというものは、我々の考え方とはまた違うものです。それだからそうやって死んでいった子たちが、私はかわいそうでどうにもならないのです。

「私たちの『村』も『戦争』も、“愚直の模範”でもあったということを、冷静に振り返っておきたいのである。」

黒田先生のコメントである。

2008.8.1