2007年 師走

張貼日期:Mar 05, 2011 5:52:54 AM

現代日本語研究会というところが、故寿岳章子さんを記念する、「ことばとジェンダー」賞なるものを創設し、論文を募集している。その主旨には、「言語研究を通して社会のジェンダー枠組みへの改革を目指し、ジェンダー規範を突き崩す意欲・意図をもつ個人の著述に対して授与します。斬新な視点で言語研究に取り組んでいる新進・中堅の研究者を励まし、その研究を顕彰する賞とします」とある。

志ある方々に是非とも応募してほしいものである。

寿岳さんに、次のような文章がある(『日本語と女』岩波新書)。

とりわけ農村で女がものを言いだしたりするともう大騒動である。それはこれまでの押さえこみ型の秩序を根本的に否定するものである。そういうとき、男に準備された名ことわざがある。「牝鶏時を告ぐれば国滅ぶ」である。私は「これから私ももの言わしてもらいます」と宣言して、立ちどころにこのことわざをひいて一喝をくらった人の訴えを聞いたことがある。・・・ほんとうにこのことわざによってどれだけ多くの女が口封じをされてきたことであろう。その生きた例を私は聞いたのである。日本語が女を拘束しているのである。今、丹波の私の友人たちはいわば「牝鶏云々」のことわざとたたかっているのである。彼女たちのそれに代わるスローガンは「かなんことはかなんと言おう」なのであった。

ここでの「かなんことはかなんと言おう」における「かなん」は、嫌だ、つらいといった意味で、「かなわん」がもとの形である。「耐えられないようなつらいことは、やっぱりつらいと言おう」ということである。私にとって、丹波の女性たちのこのスローガンは、よく記憶して、忘れられない表現のひとつである。

寿岳さんには、東北大学国語学研究室での同窓ということもあって、長いあいだ個人的に親しくさせていただいた。

ふたたび寿岳さんの文章から。

しなければならぬこと、あるいはしたいことをやってゆくとき、人生は光り出すのではなかろうか。そしてそこに私は 多くのことばの課題を発見した。怒りや悲しみ、そして感動の中に人生を考える時、ことばがそれらにいかに深いかかわりがあることか。

2007.12.12