張貼日期:Oct 03, 2015 5:11:22 PM
生まれ育った家から見下ろせる川向こうの集落(「西赤尾」)に行徳寺という寺院がある。本願寺第八代法主、蓮如の教えを受け、浄土真宗の教化・実践に励んだことで有名な「赤尾の道宗」を開祖とするお寺である。
道宗(1462?-1516)は、俗名を弥七という。蓮如の「御文(おふみ)」(布教の手段として全国の信者へ発信された仮名文による文章)を熟読するとともに、1501(文亀元)年、「赤尾道宗二十一箇条」を村民との合議によって作成し、教化に努めた篤信者である。
蓮如がその晩年の1496(明応5)年に草した御文には、弥七に関する記述が見える。次のようである。
ちかごろの事にてやありけん、ここに越中国赤尾の浄徳といひしものの甥に、弥七といひしをとこありけるが、年はいまだ三十にたらざりしものなりけるが、後生を大事と思て、仏法に心をかけたるものなり。然れば、此六年のさきより当年まで、毎年に上洛せしめて、其内に年をとる事六年なり。
かの男のいはく、当流の安心のやうかたのごとく聴聞仕り候といへども、国へくだりて人をすすめけるに、さらに人を承引せざるあひだ、一筆安心のをもむきをふみにしるしてたまはるべき由しきりに所望せしめて、田舎へまかりくだりて、人々にまふしきかしめん、と申すあひだ、これをかきくだすものなり。
夫当流の安心と申すは、なにのわづらひもなく、もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀如来後生御たすけ候へ、とまふさん人々は、たとへば十人も百人も、ことごとく浄土に往生すべき事、さらにうたがひあるべからざるものなり。
これを当流の安心とはもうすなり。
当時、五箇山と京都を(徒歩で)往復することは並大抵のことではなかったはずである。しかも6年もの間、年に2、3度の毎年の行き来である。弥七の信心が、そして蓮如へのリスペクトが尋常なものではなかったことがうかがわれるのである。
2015.10.1