張貼日期:Aug 01, 2020 11:34:17 PM
「富山大空襲」とは、1945年8月1日から2日にかけて、米軍が富山市に対して行なった空爆のことである。軍需工場域ではなく、市街地をターゲットとし、意図的に民間人に向けて行われたもので、あまり知られてはいないが、その後の広島・長崎への原爆投下を除き、地方都市としては最大の被害をもたらした空爆であった。
来襲したのはB-29、計182機で、M50焼夷弾、約50万発が投下されたという。市街地の99.5%が焼失し、死傷者は10,000人を超えた。当地では、現在も8月1日に、犠牲者の鎮魂を祈る思いを込めた花火大会が催されている。
その来襲の様相は富山市から遠く離れた五箇山でも観察されていた。その時の状況を、石田外茂一は『五箇山民俗覚書』の中で、次のように記している。
真夜中に物凄い飛行機の音が近付いて来た。半鐘が乱打された。こんな物凄い爆音ははじめてだった。よほどの大編隊だったにちがいない。遠ざかり行く音を聞きながらどこを空襲に行ったものだろうかと思っているうちにいつしか眠ったのだが再び爆音が近付いて来て、今度は低空を旋回しているらしく前よりも更に物凄い音だ。それが長時間去らなかった。翌朝、まかれた錫箔が役場や、駐在所や学校へ届けられた。
山のあなたが真っ赤になっていたそうだ。富山の方向だということだった。
やがて富山市空襲で全焼したとの確報が来た。近親の安否をたずねに出掛ける者もあった。私は姉の一家が気付かわれた。上の娘の脚に爆撃の破片が付いたほかは無事だったが、家はもちろん焼けて城端に落ち着いたのを知って見舞いに出かけたのは一週間後であったろうか。
私は、1946年2月の生まれである。したがって、私は母の胎内でその爆音を聞いていたことになる。
(2020.8.2)