コロナ禍の緊急事態宣言が解除となったので、久しぶりに映画鑑賞をと思い立った。
新宿にある映画館K’s cinemaで「HHH:侯孝賢」が上映されていたので出かけることにした。
この「HHH:侯孝賢」は、1997年に制作されたフランスの映画監督オリヴィエ・アサイヤスによる作品(フランス・台湾合作)のデジタルリマスター版で、原題は「HHH:A Portrait of Hou Hsaio -Hsein」である。ちなみに、HHHはHou Hsaio -Hsein(侯孝賢)の頭文字から。
侯孝賢(ホウ・シャオシェン)は、「悲情城市」や「珈琲時光」などの監督として著名な台湾映画の巨匠である。
HHHは侯孝賢の素顔に迫る渾身のドキュメンタリーとなっている。全体を通して流れる侯孝賢の語り倒しに圧倒されるとともに、その情熱と強い意思に心揺り動かされるものがあった。
侯孝賢は、1947年、中国広東省の梅県で生まれた。そして翌年1948年に一家で台湾に移住した由である。私は彼と同世代。彼の心持ちが何だか懐かしく、私自身の原風景までもが刺激されるのであるが、それは生きた時代を共有するからであろう。
彼の語りのなかで、映画の撮影時、俳優に「脚本を自分なりに理解した上で、自分の心の動きをそのままに表現するべきで、シナリオでのセリフに拘泥すると不自然な演技になってしまう…」と諭していたことが心に残った。そのことに関して、「珈琲時光」で主役を演じた一青窈さんが、今回の映画館のパンフに、次のような興味深い感想を記していた。
“珈琲時光”のときは/拾われてきた猫のように/私はただそこで呼吸していました。/特別な稽古もなく/言われた設定だけを頭にいれ/あとは常に心の動くままに言葉を発し/空間に馴染むことに集中しました。/すべてがとても自然で/女優なんて自分のことを取り上げてくださるには/あまりにもおこがましいほどに/監督と監督の取り囲む人々に支えられた撮影でした。/なぜあのような空間で自分が自由に演じることができたか/このHHHを観て監督の意図、スタイルを改めてよく理解できました。
そういえば、かつて「珈琲時光」を観た時、その進行に動的な盛り上がりがあったというわけではないのだが、全編を通して流れるフワッとした空気感に何故か心地の良さを感じたことが思い出されるのである。
2021.12.1