2008年 師走

張貼日期:Mar 05, 2011 6:0:42 AM

ふるさと五箇山は報恩講の時期をむかえた。

北陸地方に普及していた浄土真宗(一向宗)をさらに深く根づかせたのは本願寺第8代法主の蓮如である。浄土真宗の開祖・親鸞は、弥陀の前ではすべての念仏者が平等である、と説いた。蓮如はこの思想をかみくだいて、仮名文の「御文(おふみ)」にし、それを備えて自ら北陸の山野に分け入ったのであった。

室町時代のことである。

蓮如は門徒(信者)たちを「講」という組織に組み込んだ。そこは現実の身分関係にしばられない世界であった。封建の階級制にあえぐ農民たちはそこに光明を見出したのである。来世での救済という約束も得て、思い残すことは何もない。農民たちは団結し、立ち上がった。

各地で、領主と門徒衆との衝突が相次いだ。

そのクライマックスは1488年である。

門徒への弾圧を強めていた加賀の守護大名・富樫政親がたてこもる高尾城を民衆が取り囲んだ。その数20万人ともいう。城はわずか1ヶ月で落ち、政親は自害する。

民衆による国取り、いわゆる「加賀一向一揆」である。それはフランス革命より300年も前のことである。そして坊主と農民を主体とする連合政権が誕生した。この共和国は、1580年、織田信長によって壊滅させられるまでの約100年間続いた。

実はこの間の蓮如の行動が私には特に興味深い。

農民たちの政治的行動を戒め、抑えようとしたのが、ほかならぬ蓮如自身であったからである。「守護、地頭を粗略にするな」といった、いわゆる「お叱りの御文」の存在は蓮如の狼狽ぶりを浮き彫りにしていよう。

蓮如が、民衆の燃えさかるエネルギーに恐れをなして、北陸布教の根拠地、越前の吉崎御坊を逃げるようにして去ったのは、加賀での革命が勃発する13年前のことであった。

2008.12.1