張貼日期:Mar 05, 2011 4:39:21 AM
ラトビアからの留学生リーガさんからのメールに、「私、あした先生の研究室に来ます。」とあった。彼女は英語が流暢である。おそらく「来る」の部分は英語からの干渉であろう。しかし、私にとってこの表現はまったくおかしくはないものである。私の母方言ではこの場合「来る」が普通だからである。そういえば、かつて、柴田武先生への手紙で「今度そちらへ資料をもって来ますので。」と書いて、御著書のなかに書かれてしまったことがあった。
「来る」を使うコンテクストとして最も自然だったと私が思うのは、子供のころ、冬にスキーで遊んでいた折の、滑降の途中で、下にいる者たちに自分の接近を注意して、「来るゾー!」と叫んで滑り降りていったときである。このような「来る」の用法に関して、私は、相手の立場に立って、「私」を客体化した上でのものであると考えてきた。
九州や出雲、そして越中、飛騨などの方言における「来る」の用法について、私が、往々「これは相手に視点を置いた言い回しである。<行く>がいわば ego を中心においた表現であるのに対して、<来る>はあくまで相手の立場に立って自己を客体化しての表現である。」などと説明してきたのはこのような原体験に基づいているからである。
「では、英語の come はどうなの、日本語の方が ego を中心にした物言いで、英語の方が相手を配慮した一種の敬語的な言い方になっているのは何故?逆ではないの?」といった声も聞こえてきそうである。
2003.1.10