張貼日期:Mar 05, 2011 5:34:50 AM
私は敗戦の翌年、1946年(昭和21年)の2月に生まれた。
母によれば、アメリカ占領軍の捜索が母の勤めていた小学校に入ったのは、その年の暑くなった頃のことであったという。その時の状況を、母の同僚であった石田外茂一は、「五箇山民俗覚書」で、次のように書き残している(寺崎満雄氏の翻刻による)。
遠くにジープの音を聞き取ると同時に教官たちが玄関に居並ぶと間もなく、サッとジープが止まって、あの小さな車体からヒラリと下りた青年が、思いがけない長身をリュッと伸ばした。それは全く魔法箱から踊り出たといったアラビアンナイト的な感じだった。貴公子といった上品さ、美少年といった若さ。ハッキリした眉目に、微塵の愛嬌もみせず瞬時の余裕もなくツカツカと踏み込んで応接間の床板を大股に踏み鳴らして歩き廻った。
ついて来たのは下士官一人、通訳一人だった。下士官は背の低い品のよくない男でこれが息つく隙も与えず校内の捜索にかかった。私は、隊長と通訳と校長とを応接間に残して下士官の後を追った。
二階の廊下の隅にあった書棚の引き出しがひきあけられた。ずいぶん注意して物品を処分したつもりだったのにこの引き出しを忘れていたのだ。戦争中の写真週報が出た。東條の顔が大写しに現れている。一枚一枚めくっていかれる写真は、実にどうも困った写真で、ヒヤ汗モノだ。だが、私はこともなげにザッツ、オンリー、ウエーストペーパーと言ったきり黙って横面を見下ろしていた。どうも文明人の面(つら)ではない。彼も黙ったままその綴じ込みを抱え込んで教室を廻りはじめた。二番目の教室に地球儀があった。こいつアしまったと思った。彼は手でクルッとひとまわりしてから、一点を指さし、キッと私の眼を見つめて言った。「ホット、ウワーズ」さいわい、戦前の古い物だったので、「東印度諸島」と書いてあった。「イースト、インデイーズ」彼は私の答えに満足して歩を移した。
二階の教室が終って階段口のブラスバンド楽器棚へ来た。破れた大太鼓をやけに叩いた。クラリネットなどをいちいちサックから出して見終わって、引き出しになったら、また困ったことに朱房のついたラッパが出てきた。それをつきつけて連呼した。
「ミッタリスイング?ミッタリスイング?」
私はどぎまぎしている処へもって来てミッタリミッタリと早口に繰り返されたものだから、ミリタリーだという事がどうしてもわからぬ。とうとうアーミーと言いかえてもらってヤットわかったのだが、わかればいよいよ困るばかりだ。ミッタリスイングに間違いないのだ。彼はいよいよ私の返答をうながすように、頬をふくらませてヤケに二、三回、ブー、ブーッと吹き鳴らしたけれども私は黙っていた。
階段下の棚からまた雑品が引き出された。またミッタリスイングだ。鞘をはらうと竹光の名刀。麦屋踊りの二本差しだ。それを振りまわす彼の開襟シャツの間から、毛ムクジャラの胸毛がチラチラ見える。どうも私が子供の頃からつくり上げている「西洋人」というものの概念からすこぶる遠い。昔新聞種になって一世を恐怖せしめた鬼熊の方に近い。そして言う事がふるっている。「ジュードー?ジュードー?」剣道と柔道を間違えているんだ。西洋人は日本の柔道を恐れているということはかねがね聞いているのでいよいよおかしい。
「ノーノー。オンリー、ア、トイ。プレースイング、プレースイング」
三種の戦利品が応接間へ持ち込まれた。隊長はその時まで、皆葎小学校から貰って来た、児童がクレヨンで書いたアネサマ絵を嬉々として振り回して口笛を吹いていた。それに校長は神妙に陪席していたらしい。口笛をやめ、アネサマ絵をポケットにしまい込み、今までとはガラリとかわった大マジメな態度で戦利品の審議に入った。写真週報は、私のウエストペーパーの連呼で、適当に処分せよということになった。竹光は、私がオンリー、ア、トイと言って隊長から引きたぐってヘシ折ってしまったら、残りの一本をオミヤゲにくれということになった。ラッパだけはどうにもならなかった。通訳は日本語を言ったり英語を言ったりしながら英語で記録をとっていた。事務が終ってから暫くの間くつろいだが、出した茶にはついに手をつけなかった。隊長は、私が手短に話した身の上話に、青年のキ一本なマジメサを瞳に現して耳を傾けてくれた。そして好意をこめて私の手を握ってくれた。プーシャルとかいうフランス人みたいな名だった。校長は、アネサマ絵からして隊長さんは絵が好きだというわけで、私の絵を贈れと言ったのだが、色彩もない墨一色では面白くもおかしくもない様子だった。つまり隊長さんは「アネサマ」が好きだったんだろう。
ところが下士官は「ラッパ」が好きだった。プーシャルさんが運転してジープが帰途につくと同時に、ひと吹きブーッと吹いた。暫くしてまたブーッと吹いた。また暫くして吹くのが聞えてきたけれどその音は次から次と小さくなって行った。玄関にボンヤリとり残されてそれを聞き入っている私たちの気持は、なにかうらぶれた、みじめなものだった。だがそれにもかかわらず、私の心には、私の言葉を聞き入ってくれたあの時の眼差しの美しさがいつまでも温かく残っていた。
2005.9.5