2004年 春

張貼日期:Mar 05, 2011 4:45:52 AM

それは小学生の頃のことである。ある日、スキーを履いて雪上を歩き回っていて、雪の上に顔をのぞかせていた小さな桐の木の肌にストックでいたずらをして、ひらがなで自分の名前をひそかに彫りこんだ。

そのことは長い間まったく忘却していたのであるが、大学生になったある夏の日、帰省した折に、そのあたりを歩いていて、何気なく大きな桐の木の上方に目をやって驚いたのである。何と、その幹のずっと上のほうに、溝のような形で大きくえぐられた、私の名前の文字が残っているではないか。

実は、そのときの感動を、あるところに小品として掲載したことがある。

ただ、私は、そこでは「感動」を描きつつも、何か心にひっかかるもの、いわば嫌悪感のようなものをどこかで感じていた。しかし、その胸騒ぎの正体なるものがいったい何なのかをずっと見極められずにいたのである。

ところが、最近になって、ふと思い至った。あのえぐられたような桐の木の肌を見たときに覚えた、ある種の不快感、そしてそれが後々まで消えなかった理由は、いまだ幼い木にキズをつけてしまい、しかもそのキズが成長とともに修復不可能な巨大なものにまでなっていたことに対する、ある種の「おそれ」だったのではないかと。

もし、現在の私のフィルターで、この事実をもとにした物語を新たに作る、再話する、とすれば、「懺悔」をテーマにしたものになるように思われる。しかし、そのようなテーマの設定、作品構成もまた、現在の時代情況をどこかで意識しての表現行動なのかもしれない、といった冷徹な目もまた一方で私の中に存在している。私の中で、フィルターの更新が将来また起こるかもしれない、と思うからである。

2004.3.3