2017年 屋敷林の名称

張貼日期:Feb 01, 2017 2:0:47 AM

ちょうど1年前、富山県砺波市の「となみ散居村ミュージアム」での講演で、当該地の屋敷林の名称「カイニョ」の語源について、私見を披露したのであった。その内容を自分のなかで忘却しないようにと、ここにその概要を書き記しておこうと思う。

「カイニョ」の語源については諸説がある。一つは「垣内」由来説で、樹木などで囲まれた屋敷地の名称である「垣内(かきと→カイト)」が転訛して「カイニョ」となったとするものである。しかし、「ト」が「ニョ」に音韻変化することはありえない。ちなみに、富山では垣外(家の外庭)がカイドと称されていて、それは県の全域に分布している。

もう一つは「垣根」由来説で、屋敷の囲いである「垣根(かきね→カイネ)」が転訛して「カイニョ」となったとするものである。カイネの形は近世の文献に見える。しかし、「ネ」が「ニョ」に変化するのも直接の音韻変化としては不自然である。

一方、簑島良二さんは、「カイニョ」に「垣遶」の字を当てる(『日本のまんなか 富山弁』による)。「遶(にょう)」は<めぐらす、囲む>の意味であるので一理ある。しかし、漢字音(湯桶読み)が語源であるとは考えられない。

なお、富山県の東部域(呉東)では「カイニュー」と発音するところがあり、それに対して「垣入」の字を当てる人がいる。

私は、「カイニョ」は、「垣根(カイネ)」の「ネ」が、当地での<稻塚>を表わす「ニョ」という語形に牽引されて生まれた類音牽引形ではないかと考えている。

実は、近世の文書に、屋敷林を「稲架(はさ)」としても使用した例が見えるのである。それは、婦負郡中沖村(現・富山市呉羽町)の島倉家文書である(「元禄十四年五月、田地割の割替えなど争論につき内済納得証文」富山県立図書館蔵)。そこには、下記のようにある(高瀬保編『富山県十村嶋倉家文書』の「文書19」による。「より」は変体仮名、下線筆者)。

一、次右衛門屋敷与茂三郎方より植置申木、田地割定書相違、善兵衛はさのかまい罷成申旨及御断申儀、与茂三郎方よりはさ無之、次右衛門屋しきのかいね而御座候と申付、則是以後与茂三郎方より稲懸申間敷旨納得仕相済申候、則木数弐十三本之内東より六本置三本、来春右日切与茂三郎こき取申極御座候 二、四郎兵衛屋敷善兵衛方より植置申新はさ、是又田地割定書相違、与茂三郎はさの構罷成申付、来春同日切不残こき取申極ニ御座候之事

(要約:一、次右衛門屋敷に与茂三郎が木を植えたのは田地割定書に違反し、善兵衛稲架に差し支えることを善兵衛が訴えた。与茂三郎が、それは稲架ではなく次右衛門屋敷の垣根であることを申し述べ、稲を架けないことで話がつき、二十三本のうち、六本おきに三本ずつ来春までに切り取ることとなった。二、四郎兵衛屋敷に善兵衛が新しく稲架を作るために木を植えたが、これまた田地割定書に違反し、与茂三郎の稲架に差し支えることになるとして、来春までに残さず切り取ることが決められた。)

ちなみに、福井県武生市には「稲架」のことを「ニョ」と称するところがある(「カイニョ」は、「藁にお」などに対する「垣にお」か)。なお、「にお<稲塚>」は当地(呉西)では「ニョ」であるが、呉東では「ニュー」となる。この音対応も「カイニョ」と「カイニュー」の対応と一致する。このことは「カイニョ」の「ニョ」が<稲塚>とかかわっていることの証左となるであろう。 2017.2.1