2011年 水の月

張貼日期:Jun 03, 2011 10:21:3 AM

母がアルツハイマー型老年認知症を発症して、すでに15年以上が経つ。

その長い年月を、かたときも欠かさず父が看病してきた。父は今年90歳になる。頭が下がる思いである。

15年の間、少しずつ病状が悪化、要介護度も最大級にまで進行してしまったが、今のところ小康状態を保っている。

父は、母の入っている特別養護老人ホームまで、毎日3度、車で通い続け、食事時ごとに欠かさず食事の世話をし続けている。

食べ物をスプーンで口に運び終えたあとは、車いすでの施設内の散策を欠かさない。

わたしは遠く離れて住んでいる身、ときおり対面しても母の目はわたしを認めてはくれない。しかし、父に対する母の目つきは明らかに異なっている。

障害者医療にたずさわっている高谷清さんの、重い障害のある人の「自己意識」に関する文章を読んでいて、心に突きささるところがあった。

「意識」はないが「自己」は存在している。その「自己」は、世話する母や介護する人を感じている。意識として感じなくても、身体や心が感じている。そこになんらかの人間関係が成立している。よく馴染んでいる人とそうでない人に対しての反応が異なる。そこには人間関係があり、安心があり、身体がリラックスしており、たぶん本人は気持ちよく感じている「快」の状態にある。その「快」の状態で存在できるということ、人間関係によって培われる、その「快」という状態にあることが、「人格」のもっとも基本にあるのではないだろうか。

(「『人権』『人格』と『パーソン論』-重い障害のある人へのとりくみから考える」『世界思想』38)

2011.6.3