2011年 除染

張貼日期:Oct 29, 2011 1:21:30 PM

それは小学校6年生のとき、1957年のことである。

高岡市で「原子力」の博覧会が開催されているというので、父母と弟の家族4人、五箇山から長い時間バスに揺られ、その博覧会に出かけたのであった。

「原子力平和利用博覧会」と名付けられた、その博覧会で今も印象深く脳裏に焼き付いているのは、大きな卵が棚の上に置いてあって、その下に、放射線を浴びせるとこんなにも大きなものに成長する、今後の生産向上が期待できる、といったようなコメントが記されていたこと、そして、もうひとつは、台風の目に原爆を投下すれば、台風の進路が変更できる、何と有効なことか、といったような説明があったことの2点である。その他のことはあまり覚えていない。

いずれにしても、「原子力」というものが将来の豊かな生活のための貴重なエネルギーであることを、子ども心に刻印づけされたのであった。

この「博覧会」とは一体何だったのかを調べてみた。

当時、「ビキニ被災事件」(1954.3)で巻き起こった日本の反核運動(原水爆反対平和運動)の拡大を警戒した米国は、博覧会というメディアを利用して、原子力が、産業、農業や医療に役立つことをPRしようと図ったのである。そして、米情報局の全面的なサポートのもとで、正力松太郎氏の率いる読売グループが主となって企画したのが、この「原子力平和利用博覧会」であった由である。博覧会は、1955年11月から1957年8月にかけて、各地で開催された。高岡古城公園を会場とした折の入場者は、読売新聞社によれば、約30万人にのぼったという。

正力松太郎氏は富山県の出身である。1955年2月に高岡市や五箇山を含む富山2区から衆議院議員選挙に出馬、当選した。そのときの選挙運動の様子もわたしの記憶のなかに微かに残っている。

正力氏はその年の11月、第3次鳩山内閣で原子力委員長に就任、そして翌年、新たに発足した総理府原子力委員会の初代委員長に就任した。

正力氏こそは、日本の原子力行政の、まさに旗振り役であった。

2011.11.1