張貼日期:Mar 05, 2011 6:2:29 AM
五箇山では、年の初めの先祖の命日に親類一同が集って供養をする。その行事を「月忌(がっき)」といった。
北陸での浄土真宗の門徒(信者)組織は、蓮如の時代以降、「講」と呼ばれるようになったのであるが、五箇山では「十日講」というものが門徒衆を統括する組織であったようである。
その成立年代ははっきりしないが、天文年間(1532-1555)には五箇山の門徒衆による十日講によって、本願寺へ毎年、糸と綿などを進上していたことが明らかとなっている。
ところが、しだいに十日講にやや緩怠の気風が生じたようで、例年の進上物を納めなかったことがあり、金沢御坊からの叱責を受けることになった。そこで、1552年10月27日、講のメンバー87名が連判状を作成し、本願寺に対して、より一層の奉仕をすべきことを誓ったのである。それが、私の曾祖母の実家、生田家が所蔵してきた「十日講文書」である。
その連判状の「申定候条々」を掲げよう。
以下、五箇山全域の87人による署名が続く。
ちなみに、十日講が叱責を受けた金沢御坊は本願寺が北陸支配の拠点として建てた寺院である。この寺院の名称が地名「金沢」の起源であるともいわれる。
わが十日講連判状は本願寺による政治的支配の様相をビビッドに伝える貴重な文書である。この間、門徒衆は本願寺の私兵的な性格を強めていった。そして戦国大名もそれを無視することができないような存在になっていったのである。
2009.1.6