2011年 卯月波

張貼日期:Mar 30, 2011 6:16:29 AM

東北太平洋岸の惨状にはことばもない。

仙台時代に時折訪れていた石巻。その今の映像を見ていて、ふと辺見庸さんのことを思い出した。辺見さんは石巻の生まれである。

彼の著書を改めて読み返している。そのなかの「痛みについて」と題する文章から。

私たちの日常とは痛みの掩蔽のうえに流れる滑らかな時間のことである。または、痛みの掩蔽のうえにしか滑らかに流れない不思議な時間のことである。日常を語るには、したがって、痛みを語るほかない。

痛みとは、たとえ同一の集団で同時的にこうむったにせよ、絶望的なほどに「私的」であり、すぐれて個性的なものだ。つまり、痛みは他者との共有がほとんど不可能である。じつにやっかいだ。痛みの程度もまた計測不能であり、客観的な数値で示すことはできない。ということは、「私の痛みこそが世界でいちばん痛い」という主観に常に帰着しかねないのだが、いかに偏頗であれ、これこそが痛みや苦しみの感覚がもつ苛烈な事実であろう。たかが小指の擦過傷であろうが、傍目にはどうということのない心の傷であろうが、本人にとっては他のだれよりも深い痛手であることは充分にありえるし、決して虚偽申告ではないのだ。

(中略)私の痛さが遠い他者の痛さにめげずに近づこうとするとき、おそらく想像の射程だけが異なった痛みに架橋していくただひとつのよすがなのである。私たちの日常の襞に埋もれたたくさんの死と、姿はるけし他者の痛みを、私の痛みをきっかけにして想像するのをやめないのは、徒労のようでいて少しも徒労ではありえない。むしろ、それが痛みというものの他にはない優れた特性であるべきである。

(『たんば色の覚書 私たちの日常』毎日新聞社2007)

辺見さんの心の先は別の対象に向かっているのだが、私はこのたびの状況に対しても同様の思いを禁じ得ないのである。

2011.4.22