張貼日期:Mar 05, 2011 5:39:20 AM
でもちょっとね、あがめられました。そして、やっぱり田舎に行ったら無知でしょ。初めは教室に入ることが出来ませんでした。あんまり生臭い、汗のにおいやら垢のにおいがしてねえ。それで2週間位は勉強出来ないで、みんな顔洗って来い、足洗って来い、手洗って来い、指なんかみな私がきれいにしてやったり、頭はらってやったりして。頭のいい子は、お前顔洗ってないな、顔洗ってこいと言ったら、裏庭に出て井戸の水を上げて洗ってくる人もおるし、ばかな子は歩いて自分のうちまで行って勉強が終わってから来るんですよ。初めはきれいにすることを教えたんですよ。そしてまた、かわいそうな子があればね、父が亡くなったり母が亡くなったり、お金をちょっともらって、私のお金を出して封筒に入れてね、釣り金と書いて渡したら、なぜくれるか分からないんです。そんな無知なところで勉強させました。でもクラス80人もいるんです。そしてまた、学校の先生の中ではね、裏山に花がいっぱい咲いていて、部屋の中があまりにもみすぼらしいから、先生みんなの前に花を切って花瓶にさしてたんですよ。そしたら「あら、I先生が来てからは、こんなに学校がきれいで、こんなに空気がいい」。校長先生が「あんな娘だったら嫁にいけさせるのに。一緒に住んでしまうのに」。そしてあの時は私たち国民学校の先生は、地方に行けば…、年長さんやら警察の駐在所長さんと、一緒に招かれて、19歳の娘が、校長先生やら年長さんやら所長さんと一緒に招かれてそこで食べさせてもらいました。そういう良い待遇を受けました。それで、故郷は校長先生だけが日本人だったんです。「故郷はどこですか」って言うから「はい、平壤です」「いや、故郷はどこですか」「あ、平壤です」「いや、故郷ですよ」「はい、故郷は朝鮮平安南道平壤が故郷ですよ」と言ったら、ああそうですか。…あの時はちょっと鼻高々でいばる時代だったんです。解放になって鼻がぺっちゃんこになって、あの時の歌があるじゃない、「十年の勉強が水になる」、そう言ってました、流行歌で。
うちの父も昔農業をしてたらしいんです。いつも、農業をしていても、その年も同じその年も同じだから、それを捨てて満州へ行って、洋服の技術を習ってきて、洋服の組合長までしました。あの時は、生地がなかったでしょ。あれが欲しい人は、私たちの縁側に米や肉を置いて1着下さいと言っていました。そして私は女学校の時、生地もいいから一度アイロンしたらそれはなかなかきれいでしょ。だから名前が万年アイロン。それと私はとても手が器用で、勤労奉仕したらくれるマークがあったでしょ。1年したら1つ、2年したら2つのマーク、勤労奉仕のマークがあったんですよ。それで私は器用だからいつも先生の下で手伝いしてね、私たちは完全に習ったのは1年くらいであって、2年から4年まではいつも勤労奉仕。部隊なんかに洗濯してやったり。私はそんなことしないで、先生のもとでちゃんと座ってきれいな仕事をしました。それで私の別名は、「きれいな人」「全校一のおしゃれ」「きれい好き」。…「あの人きれい好きよ」と言って。運動会の何日か前、校長先生が「I、壇の上に上がってこい」と言うんです。ああ私は何悪いことしたのかなあと思ってぶるぶる震えて壇の上に上がったら、「何の服でもいいから、このIさんのように着てきなさい。運動服の長さ、ブルマーの長さ、何の服でもこの人と同じ様な格好で着てきなさい」。そしてまた、裁縫のはじめの時間に、黒い作業服を作ったんですよ。それで私、裁縫しながらも夜通し一人でしたんですよ。そしたら裁縫の先生が「あんた出て行きなさい」と言うの。「誰がミシンでやれと言ったの。手でやってくるのが宿題じゃないの」と言うんですよ。「先生、ミシンじゃないんです。手でしたんです」、「ほう、そう」って裏返して見たら、「本当だ。まあすごいすごい」。そしてそれをね、全校にまわしたんです。その作業服をマネキンに着せたまま。だから私は、全校一のおしゃれであって、全校一の器用であって、きれい好きで、そう評判立ちました。
2006.8.15
―それは、いくらくらいもらえるんですか。
83円もらいました。あの時は嘱託で。私たちはあの平壤の市庁の前の南山国民学校で臨時教員の実習を、3ヵ月の養成期間のうち1ヶ月そこで研修しました。それでその時は一生懸命に疎開する時代なんです。空襲が来るからね、夜になったら灯火管制がありまして、いつも毛布で灯りを消している時代なんです。
―そっちまで行ってたんですか、B29は。
はい、そうです。それでいつも夜になったら無条件、黒い布をかぶせて。だから出来るだけ疎開の制度を使いました。だから私は、お父さんのお父さんのところへ行こうかなと、故郷に行って勤めはじめました。そこはどこかというと平安南道です。朝鮮は平安北道・平安南道・咸鏡北道・咸鏡南道・江原道…、そうなってるでしょ。その平安南道の江西郡の星台国民学校に任命されました。そしてあの時、私19歳だったんですが、40円の、頭のはげた嘱託の先生がたくさんおりました。あの人達は40円もらって、私は83円もらいました…。
―若い I さんの方が多くもらって、いじわるされませんでしたか。
北朝鮮のピョンヤン近郊で、戦前、日本語(国語)の教育にたずさわった、あるコリアン女性の語りから。
…まあ、洋服屋や旅館といったらそんなに貧乏なほうではない、豊富なほうでした。だから職は持たなくてもいいぐらいの家庭でした。だけどあの時、何もしないで遊んでいるんだったら、無条件、挺身隊にひっぱられます。それで学校に卒業する前に、その時は非常時だから専門学校なんか行く時間がないんですよ。だからあの時、教員を志望しました。そして臨時教員養成所へ、学校を卒業する前に、3ヶ月習いに行きました。そして卒業と同時に、養成所と一緒に卒業証明書をもらって、あの時の正十三級の資格で国民学校に勤めました。十三級俸です。いわば正訓導です。教員養成所を出ただけでも、師範学校を出たのと同じ資格を与えられますから。3ヶ月間の養成で、正訓導十三級俸だったんです。