2012年 線香

張貼日期:Aug 02, 2012 2:49:10 AM

パラオ共和国に出かけてきた。

いま主宰している研究プロジェクトの成果報告会を兼ねて、パラオ・コミュニティ・カレッジで開催したシンポジウム(Palau’s Japanese Era and its Relevance for the Future)に出席するためである。

シンポジウムの合間に現地の年配の女性たちによるMusical performances of Japanese-Palauan songsがあり、その演目の中に「この世の花」があった。歌詞を口ずさみながら、私は53年前のある風景を蘇らせていた。

「赤く咲く花 青い花、この世に咲く花 数々あれど・・」

この歌は、その昔、渥美半島先端部の伊良湖岬近くの村で、倒壊した温室群を眺めていた折に確かラジオから流れていた。それは島倉千代子が歌っていたもので、伊勢湾台風直後のことである。

戦後間もない頃、渥美半島の先端部、伊良湖岬の近くにあった旧陸軍の試験射撃場跡地に集団入植を企画する事業があった。中国大陸、満州の西北部からふるさと五箇山に復員してきた私の伯父も家族全員でその開拓団に加わったのであった。昭和28年の夏のある日の早朝、一家が荷物を満載したトラックに分乗して村を出発していくのを涙ながらに見送ったことが鮮明に蘇る。当時、私は小学校2年生であった。

開拓後、多くの温室を建造して、ようやく彼地での伯父一家の生活が軌道に乗りはじめた矢先の昭和34年秋、あの伊勢湾台風が襲ったのである。そして、すべてが崩壊した。

私が訪れたのはその直後のことである。

「この世の花」の旋律とともに、倒壊した温室群を眺めつつ伯父がつぶやいたことば、それが私の心の中にずっと残ったのであった。

「ノモンハンでのことを思えば、大したことではない・・・

伯父は職業軍人であった。ノモンハン事件とは何であったかを知ったのは最近のことである。

2012.8.1