2019年 鳴いて血を吐くホトトギス

張貼日期:Jul 31, 2019 12:3:30 AM

近年、結核患者の発生率が上昇傾向にあるという。

結核で思い起こすのは明治の文人たちのことである。その多くが肺結核に苛まれ、若くして命を落とした。樋口一葉しかり、斎藤緑雨しかり、そして正岡子規しかりである。

ちなみに、わが父のこと。父は戦前、満鉄勤務中に胸膜炎を患って、終戦末期に帰国したのだが、戦後さらに肺結核に罹り、たびたび喀血したことを子供心に憶えている。恐怖に怯えた日々であった。その父が、当時の手術(胸郭成形術)によって恢復し、その後、人一倍健康になって、97歳になった今も元気に活動している。有り難くも不思議なくらいなのである。

閑話休題:正岡子規のことを書こう。

子規が結核と診断されたのは、明治22年、子規22歳の時である。喀血に因んでホトトギスの句を作り、そこで初めて「子規」と号したのであった。明治28年、日清戦争の従軍記者として遼東半島に渡ったが、その帰国の船中でも大喀血した由である。

このたび、根岸にある「子規庵」を訪れた。この庵は子規の旧居に建っている。旧「子規庵」は戦災で焼失したが、子規を顕彰する人々によって、昭和25年、ほぼ当時のままに再建されたとのことである。

子規の逝った六畳間に座って、ガラス戸越しに糸瓜の棚をしばし眺めた。周りには子規が詠んだ草花が植えられている。子規はこの部屋で、明治35年9月18日、次の三句を書いたのであった。

をとヽひの 糸瓜の水も 取らざりき

糸瓜咲て 痰のつまりし 佛かな

痰一斗 糸瓜の水も 間にあはず

子規は、この句を書いた翌日の9月19日に亡くなった。享年34歳。これが「絶筆三句」と称されるもので、庵の庭には子規の筆跡を再現して鋳た銅板を埋め込んだ句碑が建てられている。

(2019.8.1)