2018年 城端

張貼日期:Apr 01, 2018 12:17:57 AM

城端といえば、昔日のさまざまな情景が脳裏に浮かぶ。

五箇山への入口の町という言い方がよくなされるのだが、五箇山人にとっては逆に平野部への入口(出口?)の町であり、平野部に出るためのベース(基地)でもあった。

幼い頃、城端駅の近くの宿所に泊った折のことが思い出される。早朝、蒲団の中で、出発していく列車の汽笛を聴きながら、「ああ、都会に来たんだなあ」と、感慨を覚えたものである。

その宿所は「農協の出張所」と称されていた。なぜ「農協の」だったのかと最近父に尋ねたところ、村人の出張に際していろいろな便宜をはかるための施設として造られ、当時農業協同組合の管理のもとにあったからだとのこと。

そこには住込みのおばさんがいた。私は学生時代の帰省時などの折々におばさんのお世話になった。彼女は五箇山で起きたある事故の被災者だと聞いていた。その事故とは1940年1月28日に発生したアワ(表層雪崩)による大災害である。『上平村誌』(旧上平村役場編)によれば、漆谷集落での家屋がすべて雪に埋まり、死者は13人を数えたという。彼女はこの事故で家族のほとんどを失ったのである。村ではそのことを配慮し、被災者支援として「出張所」の運営を彼女に任せることとしたようである。

その昔、母と一緒に宿泊した折のことも思い出されてきた。その日に同宿していた青年たちが、映画「太陽の季節」を観てきたとかで興奮気味に玄関口で語り合っていた。その時、母がその会話の輪に入って、石原慎太郎の小説のことを熱っぽく説き始めたのである。その揚々とした話しぶりが、家で見ていた母とは異なっていたので、子供心に何かしら違和感のようなものを抱いたのだった。

いま調べると、映画「太陽の季節」の初公開は1956年5月とある。そうすると、私は当時10歳だったことになる。

60年以上もの昔の記憶である。

2018.4.1