2017年 清明

張貼日期:Apr 19, 2017 4:37:22 AM

清明の候、母の遺骨を墓に納めるために、木々の萌えはじめた山あいを車で五箇山へ向かった。やわらかな調和を見せる新緑の山々はむせかえるような生気を発散していた。

母の残したメモを整理していて、彼女が富山師範学校女子部に在籍していた太平洋戦争末期の頃のことを述懐した記事を見つけた。

その一部をここに掲げさせてもらう。

子どものころからの念願がかなって、師範学校へ入学できたときの喜びは忘れられない。当時、上平村~城端間は夏場でもバスは不定期に一往復か二往復。二日間くらいの連休があっても帰郷はままならず、夏休みまでは帰ることができなくて当り前と思っていた。でも、やがて当時の満州国の留学生がくるようになって、連休には私と留学生たちだけが寮に残ることになったときは、さすがに…。

年毎に戦争の厳しさが増してくる中、卒業を控えて、ほんとうは専攻科に残りたかったけれども、年老いた両親のことを考えれば、それは無理というもの。やがて故郷の小学校への勤務がきまったときはほんとうにうれしかった。

戦争末期の数ヶ月間、何度も山へ木炭運びに行ったことが思い出される。父や兄たちを戦場へ送っている子もかなりいて、おとなの男子が不足していた時代。小学校5、6年生にもなればこのような作業は当たりまえに思われていた。不慣れな私は、子どもたちよりもはるかに後れてヨタヨタと山を降りる始末。早く生徒たちの先頭に立って運べるようにならねばと、いっしょうけんめいがんばった。

2017.4.19