2009年 節分

張貼日期:Mar 05, 2011 6:3:4 AM

戦国大名、越後の上杉景勝による越中進出作戦は1581年のことであるが、この年は越中に台頭した佐々成政が、入洛を遂げた織田信長と結んで、越中守護に就いた年でもある。翌1582年、柴田勝家が信長より越後の領有を命ぜられるに至って、上杉氏と信長方との対決が越中を舞台に展開することになった。

この時期、上杉氏と五箇山の門徒衆との間に密接な結びつきが認められるのである。門徒衆の拠りどころでもあった井波の瑞泉寺が佐々成政によって焼かれたこともあり、焦りを感じていた五箇山門徒衆に上杉景勝からの書簡が届いたのであった。そのなかで景勝は門徒衆を「五箇山惣中」と称している。

五箇山門徒衆と上杉景勝との連帯については、そこに本願寺の仲介があったのではないかと推測する歴史家がいる。本願寺勢と上杉氏の間には共同の敵、信長がいたからである。

ただしその後、五箇山と上杉氏との関係は急速に薄らいでいったようである。 1583年6月、佐々成政は五箇山の赤尾に、次のような制札を立て、還住した農民たちの保護を約束している。

右条々堅令停止就若於違犯輩者早速可処厳科者也依如件

天正拾壱年六月 日

内蔵助成政 花押

しかし、佐々成政の五箇山支配も短期間に終わる。成政は、 1584年8月に始まった前田利家との1年間にわたる戦いに敗れ、結局、越中東部の一角を所領するに留まることとなる。

五箇山は、1585年8月以降、前田氏の支配下に入った。そして、 1588年の豊臣秀吉による刀狩によって門徒衆の武装闘争は終焉を迎えたのである。

2009.2.3

【真田家所蔵文書】