張貼日期:Sep 15, 2019 2:29:25 AM
公園の木陰のベンチで、雲が流れていくのをボーッと眺めていて、ふと昔日に口ずさんだ中世の小歌が思い出されてきた。
あまりことばのかけたさに あれ見さいなう 空行く雲の速さよ
(あれもこれも話したいのに、「あれ見てごらん、雲足のなんて速いこと!」)
早く会いたい、会えばいろいろ話をしたいと、会うのを待ち焦がれていた二人なのに、いざ会うと、まったくどうでもいいことしか口から出てはこない。恋人同士の、もどかしさとでもいったような情景がそのままに伝わってくる。
この歌は室町時代の『閑吟集』に採録されているものである。恋する若者同士の息づかいを描写した、その表現の新しさを知って感動したのであった。
帰宅して、初めてじっくりと『閑吟集』を読み通してみた。
新茶の茶壷よなう 入れての後は こちやしらぬ こちやしらぬ
(若いあの子をね、ものにしてしまったら、もう新茶だか古茶だか、こっちの知ったことじゃないよ。)
「新茶の茶壷」は生娘を意味しよう。「こちや(古茶)」に「こちらは」を掛けている。上の清純な情景とは異なって、このような性愛がらみのきわどい表現もいくつか存在することが驚きであった。当時の修行者の荒んだ心の一面をのぞき見た思いである。
何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ
(どうしようというのだ、そんなにまじめくさって、人生は所詮まぼろしのようなものなのだ、我を忘れてただ遊び狂って過ごすがいい。)
『閑吟集』の成立は1518年である。そこには当時の世捨て人たちの歌った311首が収録されている。そしてその多くがユーモラス、かつ卑猥さを含んだ恋愛歌なのである。とすれば、この歌もまた本来は奔放な愛欲を希求したものなのではなかろうか。それは、私がかつて冒頭の歌のみで抱いた感情とは異なるものである。ここには、糞まじめな人生ばかりを送ってきたなあ、と反省する老人の、はかなき願望の発露があるようにも思われる。その意味で、以前とは別の感情が生起したのである。
(2019.9.15)