「腎炎手記」(お母様記述)

匿名希望10歳2014年9月8日

(急性糸球体腎炎、漢方免疫療法で完治)

2013年12月16日、「補体が戻ってますね」「え?!本当ですか?」耳を疑い検査結果を覗き込んで聞き返した。息子と思わず顔を見合わせ、やったー!と喜び抱き合い、息子は屈みながらよっしゃー!とガッツポーズ。これでサッカーができる・・・!


一度は急性糸球体腎炎と診断された息子が、慢性腎炎の中でも厄介な部類、膜性増殖生糸球体腎炎を疑われはじめ半年が経過していました。全国から難病患者が集まる小児専門の総合病院腎臓科のベテラン医師にかかっていた私達は、最初の2ヶ月は絶大な信頼の下、通院していました。しかし、徐々に腎臓という臓器の難しさや西洋医学での診察と治療の限界を知ることになり、東洋医学を中心とした自宅治療の方針転換へと移行することになりました。その結果が功を奏し、忘れもしないその日を迎えることができたのでした。


2013年4月:急性的に発症 発熱と真っ赤なおしっこ。

2013月4月10日早朝、9歳になったばかりの息子が、腹痛と同時に38度の発熱。救急受診の2日後に肉眼的血尿と蛋白尿、低補体を伴うことから、急性糸球体腎炎と診断された。医師からは、安静、塩分制限、運動制限のみで1〜2ヶ月で自然治癒すると伝えられ、胸をなで下ろして帰宅した。熱が下がった発症後3日目には既に登校可と伝えられていた。糸球体腎炎の恐ろしさを知った今考えると、恐ろしいほど緩い生活管理で急性期を過ごしていたのだ。


※急性糸球体腎炎で検索すると、発症直後〜1週間は絶対安静、1ヶ月は安静入院という方針をとる病院もある程、慎重に扱わなければならない病気であるのだが、同時に発症初期のむくみや高血圧がなくなると、全く自覚症状がないという相反する状態が特に小児においては難しく、腎臓病の治療方針が定まらない要因の一つではないかと考える。


事の重大さに気づけないまま、普段通りの生活。お友達のお誕生会に呼ばれた次の日、学校で気分が悪くなり早退。休日は、午前中に昼寝をする程、息子の身体は安静を求めていた。診察は1週間おきで、状態チェック。夜中にひどい腹痛があったり、落ち着かない日々が続いていたが、塩分制限解除を心待ちに、医師の指示通り生活していた。


5月:安静生活が続くが、元気な子ども。

GWはどこにも行かず、できる限り大人しく過ごそうとするが、友達の声が聞こえると外に出たがり、安静のコントロールが難しかった。祖父母来訪もあったが、夜気分が悪くなり翌日38度の発熱。学校で流行っていた時季外れのインフルエンザを疑い日曜診療をしたが陰性。通院先の救急受診では、いますぐ入院する程の事ではないとのこと。初診時に検出されなかった溶連菌が喉から検出され10日間の抗生剤を服用することになった。(血中のASOは反応せず)補体が低い間は、感染症にかかりやすいと告げられていたが熱の原因は不明。GW以来、体調に変化はなく、1週間おきの診察はしばらく続いた。補体が正常値に戻ることはないが、蛋白尿は±と落ち着いており、マラソンや競泳などの激しい運動を除いて、運動制限解除が早くも言い渡された。発症1ヶ月半、5月下旬だった。息子と私は無邪気にも喜び、公式戦ベスト8の試合に間に合ったね、などと話しながら帰宅したのを今でも覚えている。補体が戻らないという一抹の不安を抱えながらも、その日の気持ちが上向きであったのは事実だった。


6月:尿の悪化と腎生検の示唆。

戻るはずの補体が戻らない・・・。発症後2ヶ月のことだった。塩分制限、運動制限の解除がされ、サッカークラブ活動も再開し普段通りの生活に戻った2週後の診察で腎生検の可能性を示唆された。補体の値がまったく動かず、尿の所見も悪かったのだ。これまで診察時の蛋白尿は±で安定していたのだが、その日の検査では、蛋白尿が++を示していた。このまま補体が戻らなければ、他の慢性腎炎を疑う必要があると告げられたのだ。

発症後1ヶ月経過から、血圧、体重、家での尿検査を記録していたが、6月に入ってから、蛋白尿が検出されていた。(後になり、サッカー再開と連動しているとわかる)山火事に例えると潜血が炎、蛋白が焦げであるとのこと。つまり、蛋白尿が出続けることは、腎臓の機能が壊れていくことを示している(そして、一度壊れると戻らない)ので、治療の方針としては蛋白尿の消失がとても重要になってくるという。そして、現在の薬物療法ではステロイド剤に頼るか、免疫抑制剤との併用での治療しかないこともこの時わかったのだ。

この頃から、家での検尿も毎日できる精神状態ではなく、蛋白が++に振れた時には、目の前が真っ暗になり心配で胸が押しつぶされそうになった。息子の腎臓が破壊されていく・・・。メソメソと涙しながら出勤することもよくあった。どうして息子がこんなことに・・・。今もなお、息子のおしっこの音を聞く度に試験紙が陽性色の緑色になる恐怖を思い出し、不安にかられる程だ。

7月: 藁にもすがる想い。

確定診断と治療方針を定めるための腎生検は、7月上旬に計画された。夏休みを待たずに実施すべきとの医師の判断であった。腎生検は、鉛筆の芯の太さの針で腎臓の組織を2〜3箇所採る検査だ。採取した組織を光学顕微鏡で確認し、組織の状態によりいくつかに分類される糸球体腎炎の診断が確定する。検査で1週間、その後の点滴治療(ステロイドパルス療法)で3週間の入院が必要だと告げられた。1ヶ月夏休みが前倒しになる日程だ。生検の副作用を心配する夫が質問を投げかけると、具体的な数値を並べ、実績数からも主治医は、自信を持っている様子だった。出来る事なら変わってあげたい・・・。生検実施日までの間にできることは何でもしようと、漢方で定評のある北里大学の東洋医学研究所に足を運んだ。1度目は、診断結果を狂わす可能性もあるから腎生検の結果を待った方がよいとの見解で夫と私の意見は割れたが、結果的に薬の処方はしてもらわず帰宅した。しかし、腎生検直前の診察で、蛋白尿が±に落ち着いていたため、急がずに夏休みまで見送ることになった。発症して3ヶ月目に入ろうとしていた。

漢方服用に未練のあった夫は、再び息子を北里研究所に連れて行き、柴苓湯(サイレイトウ)を飲み始めることになった。サッカーは、祖父の反対意見を他所に、相変わらず続けていた。夏も本番にさしかかり、体力消耗も激しく練習後の疲労が普段以上であることは察していたものの、普段の元気な姿と医師の運動OKを信じて疑わず、本人の意志を尊重するという大義名分で続けていた。しかし、終日遠征試合の夜、気分が悪くなり、食事もできず疲労しきった息子の翌日の尿は蛋白が+++となり、いよいよ手が震えた。寝ている夫にすがるように「パパ、どうしよう・・・!」身体負担が、腎臓にダイレクトに負荷を与えることにようやく気づいたのだ。愚かな親がここでも露呈された。サッカーはマラソンに匹敵する激しいスポーツだったのだ・・・。


7月下旬:命運を分けた松本漢方クリニックとの出会い。

それまで、通院先の医師の診断や治療方針を信じて疑わなかったが、息子の症例が稀なケースであるが故、主治医から発する言葉の端々から手探りであることが伝わってきていた。ネットに書かれてある発症初期の生活管理の方針(運動制限等)や症状の解釈にかなりバラつきがあることに気づきながらも、苦境時に楽観視したくなる人間心理と日々の慌ただしい生活の中では、通院先の医師の指示に従うことしかできず、自らじっくりと病気やその治療方法についての調査に手が回っていなかった。参考にする本と言えば、通院先の腎臓科が書き下ろしている書籍のみ。とても分かりやすかったが、脳の次に未解明な臓器といわれる腎臓の病気を知るには、1冊の本では不十分であった。

腎生検をするか否か、ステロイドによる治療を受け入れるしかないのか、絶望しながら悩んでいた時に、下の子が熱をだし会社を2日間休むことになった。これが運命の分かれ道であった。子どもが熱を出すと急な休みで周囲には迷惑をかけるが、一旦休むと腹をくくれば、家でゆったりできる時間が手に入ることは、働く母なら皆知っていることだろう。娘が寝ている間、じっくりと情報収集することができ、治療の方向性を大きく変えることになった「すべての膠原病を漢方で治す」と謳っている漢方医院に行き当たったのだ。補体について調べていたら、腎炎発症メカニズムの説明の中に、補体との関連についても触れていたのだ。これが松本漢方クリニックとの出会いであった。場所は、大阪の高槻と遠いので、普通なら見送ったことであろうが、偶然にも、週末に関西方面を訪れる話が別であり、松本漢方クリニックが2つ目の理由となり背中を押されるように関西へと足を伸ばすことになったのだ。松本漢方クリニックにかかった方の慢性腎炎の手記を読み、これは手応えがある、と感じた。直に夫にも知らせ、夫も同じ感触をもった。同業の研究者だからこそ分かる感も働いたと言う。HPの文面から、ここまで言い切る自信が逆に心配にもなったが、腎炎という病気であるが故、逆に期待を膨らます部分でもあった。ストライクか三振か、二つに一つだと思った。自分たちの目で確かめずにはいられなかった。

7月下旬:東洋医学での治療という選択。

私もまた、自らがアレルギー疾患であり、漢方でコントロールしていた経験から、慢性疾患には東洋医学のアプローチが適切であることは身をもって体験していて、抵抗なく松本氏の理論を受けいれることができた。と同時に、西洋医学のアプローチでは、アレルギーや腎炎などの発症機序がはっきりしない病気について、根本的な治療にならないことも再認識できたのであった。


松本漢方クリニックの扉を開けた時の息子の反応は、「何このにおい〜」。漢方煎じ薬に慣れている私には、「きたきた」という懐かしい感覚があった。先生に面会してみると、噂通りの強烈なキャラ。問診中に遠方からの患者さんの電話に受け答えすること10件以上。一度の電話も、大変長いため(初めての私達に対しレクチャーを兼ねていたそうだが)その電話を待つ時間を含め診察時間は1時間を超えたのではないか。息子をみるや、「真面目な子や」「頑張り過ぎたんや」と性格を見抜き、「サッカーはしばらくやめときや」などと優しく声掛けをしてくれた。ひとしきり現代医学界を否定した後「君の免疫が治すんやぞ。漢方はそれを助けるだけや。ヘルペスと化学物質以外、免疫が治せない病気なんぞない!」と念を押し、私達と握手をして診察が終了した。エネルギーが奪われた感じがした。診察椅子に我慢強くじっと座っていた息子は、足もむくみ、疲れきっていた。お灸のツボを9カ所教えてもらい、医院では3時間くらい時間を過ごした。

関西旅行の後、息子は疲れから高熱を出すこと3日間。尿は松本漢方クリニック訪問時、蛋白++++のMAXを示し、命を失うのではないかと心配になるほど生きた心地のしない3日間を過ごした。関西に行ったことが果たして良かったのかどうか。精神状態がギリギリの中、出勤するも、死ぬか生きるかの大病を患う息子と向き合わない自分に嫌気がさし、途中の駅で引き返し、駅から自宅へと自転車をこぐ途中、枇杷の葉温灸のチラシが目に止まった。「枇杷の葉」による自宅治療で末期の膵臓ガンから生還した祖父を思い出したのだ。たまたま、庭いじりをしていた院長に声を掛け、半泣き状態で息子の現状を打ち明けた。東城百合子氏の自然療法を基本とした鍼灸院との出会いが、そこにあった。気功、自然療法の食事やお手当を体験できると教えてくれたのだ。


関西訪問後の私達には、治療方針に迷いはなかったが、西洋から東洋への治療方針の大転換に、病気の経過を熟知している実母の猛反対があり、家庭の雰囲気が悪化の一途をたどった。主治医を信奉する母は、ブランド主義だと夫は言う。気持ちが揺れる私に激怒する夫と話がまとまらず家庭崩壊の危機に陥った。たまりかねて電話した先は、義理の母。「お義母さん、助けて・・・」受話器の先の母に言うつもりのない言葉がこぼれた。今の私に家庭を支える自信と気力はなく、立っているのがやっと、そんな精神状態を救ってくれたのが夜中にも関わらず駆けつけてくれた義理の両親であった。義理の両親は、我々の方針転換に賛同し、住み込みでのサポート体制に入ってくれたのだ。何よりも精神的な支えが大きく、立っていられない程の精神状態に陥っていた私の心の支えとなった。また、義理の両親に遠慮する実母の出入りもなくなり、外野の声もなくなり、自分たちのペースで治療に専念する体制が整った。

各方面の免疫力アップを基本とする書籍を片っ端から読みあさり(借りてきたのは実母であったが)、東城百合子氏の自然療法に基づく、玄米菜食、枇杷の葉のこんにゃく湿布、安保徹氏の爪もみ、など東洋医学のアプローチにフィットするものはすべて取り入れ、松本医師の処方する漢方薬とお灸、週1の漢方風呂を取り入れた自宅治療が開始した。

親の「気」も大事と聞き、息子の腎臓に夫と手を当て毎晩祈った。とにかく腎臓によいことは惜しまず何でもする、そんな方針で夏休みの間は、義理の両親と二人三脚で集中治療に取り組んだ。発症後から通院中の病院での診察(2週おき)は、腎生検の遅延を目標に1回毎クリアする気持ちであった。「絶対に腎生検なんてしない」勇気ある決断だ、と皆に言われた。幸いにして、息子は一刻を争うほど状態が悪かったわけではなく、大人しく過ごしていれば蛋白尿も抑えられる事が分かっていたので、じっくりと漢方治療に臨めたのだ。

漢方薬は当然子どもには苦く、軌道に乗るまではハチミツ入りで1回50mlが精一杯。一日300ml飲むべきを2〜3日かけて飲むペースだった。生姜のきいた漢方薬は一滴も飲めず、松本先生に相談し無理しなくて大丈夫とのことで、1種類の漢方薬を飲むこととした。2週間経ち、飲み慣れてきたところで、生姜のきいた漢方も1日1回は飲む、というように少しづつ増やして行った。いつしか、ハチミツ無しでも平気になり、夏の終わりには、2種類の漢方薬を1回100mlで食前、食後で飲めるようになり、漢方服用も軌道に乗ってきていた。お灸も、痛くて騒ぎ立てていたのが、いつしか慣れてスムーズに施術できるようになっていた。

家での尿検査は、週1回を心がけ、食事や治療の記録などもとりながら、様子を観察した。その後も続いていた通院先の診察では、いつ腎生検適用を言い渡されるか、ハラハラしながらの診察が続いた。主治医に一度漢方について提案したところ、否定的な見解だったので、漢方服用していることなどは、もちろん黙っていた。私達にとっては、息子が治ればそれがどんな因果関係であろうと関係がないので、結果だけ追い求めた。


9月:十字式健康法と高橋博先生との出会い。

9月はいよいよ新学期。学校生活が無事送れることを目標に、無理のない生活を心がけた。漢方薬を飲む回数は減る、学校給食はどこまで制限するか、運動会の練習は残暑の残る中、大丈夫か・・・、心配はつきなかった。学校に様子を見に行ったり、運動会練習は、休み休み参加するよう連絡帳でお知らせしたり、朝の尿検査も緊張が高まったが、大きな変化はなく学校生活を送ることができた。治療を続ける合間に、松本漢方クリニックのサイトは度々訪れ、新着関連記事がないかチェックしていた。関連記事があれば勉強する。執筆の中に、漢方だけでは、免疫力を最大限に引き上げることはできない。東洋医学で言われる4つの基本治療、「漢方、お灸、安静、気功」をすべて組み合わせて最大化するという行があった。自宅治療で唯一取り入れていないのが気功であることに気付き、十字式健康法をハッと思い出したのだ。整形外科的なイメージを持っていた十字式健康法であったが、継続的に施術するにも費用負担が少なく、どれほどの効果を発揮するかは、未知だったが試すことになったのだ。9月半ばちょうど、日本に台風が上陸している日だった。夫は運転が危険だと渋り、断念しかけたところで、台風が関東から去り、祝日月曜の昼に品川に出掛けた。台風の影響で診療所には誰もいなかった。そして、高橋博先生との出会いがここにあったのだ。「右の腎臓がすごく引っ張られてますね。」独特の施術をしながら、IgGだね、などと腎臓の専門医かと思うくらい詳しいことをコメントしてくれたのだ。松本漢方クリニックのHPに書かれてある内容と重なった。その日は、初めての施術で身体への影響も大きく、数時間後、息子も身体に異変を感じはじめ、今までにない反応を示し、7時半には就寝し、11時間以上昏睡した。「腎臓の位置が基に戻れば、尿検査の成績も徐々によくなっていきますからね。」不安な事はなんでも相談に乗ってくれ、勇気と希望を与えてくれた。腎生検の実施有無についても、「医者は白黒させたいからね〜、針刺されるのは患者さんだし、慌てる必要はないですよ。サッカーは可哀想だけど、ちょっと我慢しようね」というお言葉。胸をなで下ろした。それから毎週月曜に品川との往復が始まったのだ。高橋先生を含め3名の施術士に実施してもらったが、高橋先生ほど、明瞭に息子の腎臓について語る先生はおらず、あの時あのタイミングで高橋先生に初診施術してもらわなかったら、十字式に継続的にお世話になることはなかったと思う。


10月:1ヶ月ぶりの診察で潜血++2

自宅での尿検査は、毎週行っていた。蛋白を検出することは自宅治療に入ってからはなくなっていたが、潜血は+++3が続いており、炎症が続いていることを示していた。少しずつ++2に変化しているような気がしつつも、大きくは変わらずであった。9月の診察を最後に1ヶ月ぶりの診察でついに潜血++2になっていた。主治医の反応は、全く表情を変えず「補体はまだ低いですね。」このまま低値を示し続ければ、1年間放置もできないから腎生検を検討した方がよい、とのコメントだった。経過観察は続くが、状態は悪くないため、次の診察は2ヶ月後の12月となった。また少し猶予ができた、と私は胸をなで下ろした。


この頃から、潜血の消失に向かっての変化が加速していた気がする。尿検査の成績がよくなります、という高橋先生の言葉は本当だったのだ。++2から+1へと変化していく中で、ヘモグロビンが検出されない(赤血球が壊れてない)試験紙の潜血反応に変化もしていっていた。(試験紙の潜血には2種類の陽性反応がある)漢方薬がなくなりそうになれば、松本先生に経過報告も兼ね電話していたので尋ねてみると、どうやらヘモグロビンがあると何かとの結合があることを意味し、それがなくなるということは、回復に向かっている(炎症が引いていっている)ことを示唆している、という説明だったと記憶している。上向きになり始めた!と勇気が湧いた。松本先生との電話では、いつも「絶対治るで〜心配いらんよ〜」と絶対的な自信を持っての声掛けが我々の治療に大きな安心感を与えてくれていた。本当のお医者さんとは、松本先生や高橋先生のような人を言う。我々家族は、この二人の先生にどれだけ勇気をもらったことか。前向きに、漢方、お灸、枇杷の葉のこんにゃく湿布に玄米菜食、など地道な自宅治療を継続出来たのは、不安になったときに支えてくれるそんなお医者さんが私達の後ろに控えてくれていたからだと思う。信じては不安になり、の繰り返し、その都度、信じて進むために「医師」から勇気をもらう必要があったのだ。


それからというもの、みるみる潜血の反応が減っていった。そして2ヶ月ぶりの診察日を迎えたのだ。忘れもしない12月16日、蛋白、潜血ともマイナス、小児の正常値が30〜40と言われているCH50(補体)が10台の低値を示して8ヶ月目にして37.2に回復していたのだ。診察室を後にし、祖父母への連絡とともに、涙が溢れ出た。病院の外に出てから自宅まで、子どものように号泣していた。胸が押しつぶされそうな日々をずっと送っていた。治る保証もない、似た症例もない、何を信じるかは、私達次第。息子の免疫力、生命力を最大限にすることをあらゆる方法で実行した。信じて努力して本当によかった。


3ヶ月後の2014年3月の診察を最後に通院が終了しました。実に1年間の闘病生活でした。100万に1人とも言われた確率の病気であっただけに、通院が終了しても、治った!という感覚がなく周囲にあまり無邪気に報告することは出来ませんでした。2014年9月、今ようやく、手記を見直し、報告できる気持ちの整理がついたところです。腎臓病とは、見た目や自覚症状がほとんどなく、だからこそ不気味な病気だとつくづく感じます。腎生検をしていないので確定診断はないのですが、「低補体血症を伴う糸球体腎炎」これが、息子の患った診断名となります。最後の3ヶ月は漢方薬の服用頻度も間隔があいていましたが、我々が行った主な自宅治療は次の通りです。


●東條百合子氏の自然療法に基づく、

  • 玄米菜食(動物性タンパク質は控える)
  • 枇杷の葉のこんにゃく湿布(地元の鍼灸院で教わる)(毎日)
  • 松本漢方クリニックの治療による
  • 漢方薬(煎じ薬2種類)の服用(毎日)
  • 漢方風呂(週1回)
  • お灸(毎日)
  • 十字式健康法

・1〜2週に1回の施術

母より