「ヘルペス&五十肩手記」vol.1&2

55歳女性 2013年5月17日

拝啓 松本仁幸さま

クローン病治療で娘がお世話になっております。月に一度の名古屋から高槻市へ旅を楽しみにしております。というのも診察室で松本先生の「ワッハッハシャワー」を浴びるのが何より楽しいからです。先生の理論はとても分かりやすく文章で感じる爽快さは診察室ではもっと軽やかに伝わって来ると思っています。そして、そんな爽快さを満喫する母と娘でございます。

HPで松本理論を読み「この世の中に、こんなにも真っ直ぐに真実と向き合う人がいたんだ!!!」感動で涙が出ました。実際にお会いしてますます実感を深めるばかりです。「こんなに気持ちのいい人に出会ったことはない」というのが第一印象でした。また、「こういう人にこそ出会いたかった」私たち母娘はそう思いました。そして、数々のコラム・手記へのコメントには真実の愛が満載されているのを実感しています。ありがたがりでもったいながりの私は涙ウルウル状態で毎回のコラムを読ませていただいています。

私は、事実を事実のままに見つめようとする能力が備わった人間だと思います。あつかましいですね。ごめんなさい、でも、あえてそう言わせてもらえるぐらいの人間歴は積んできたかなと思うのです。この能力は物心ついた時から備わっていたみたいです。幼いころは「生き辛い」ことこの上なしといった状況でした。周りの人間のどこを見ても、真実と虚構の区別がついていないようにしか見えなかったからです。そうでなければ誰もかれもがとぼけているのだろうか......、学校へ行ったら誰かが教えてくれるのかと期待しましたが期待に応えてくれる人には出会えませんでした。両親はこのエゴにまみれた貨幣経済の海で家庭という船を何とか沈没させないよう必死で働いて、働いて、疲れ果てていました。貧乏でした。貧乏はいけませんね。やりたいことを我慢しているという実感すら与えられないように上手に自我を封じ込められて育ちました。行き場を失った自我は心の中で渦を巻き、親や周りの大人たちの言動をひたすら観察し謎解きを切望して大人になりました。解けた謎もありましたが解けない謎もありました。数学は美しい概念だし、理科は事実を追及できるから大好きでした。国語は言葉という道具を使いこなしたくて興味深いと感じていました。唯一意味不明だったのは人間が繰り広げる戦いの歴史、興味が持てませんでした。並行して政治経済も理解不能でした。

生きることは闘いつづけ勝ち続けること。それが、命の営みだし人間の進化の過程だと知った今、歴史も、政治経済もとても身近なものになりました。生きることは闘いであり勝ち続けてこそ人生だ。いつしか、私にとって「生きることはゲームだ」と笑って言えるまでになっていました。そう、その頃には、病気は自分で作り自分で治すものだという考えに至っていました。40年ほどかかりましたけどね(笑)

そして、そんな私が娘のクローン病闘病に寄り添うことになったのです。「病気は自分で作ったのだ」このことを娘はいつどんな形で実感してくれるんだろうか......。これは、娘自身が心底実感しなければならないもっとも重要な課題でした。病気になって欲しいものを手に入れる手口は父方から運ばれてきたDNAだということを私は見抜いていました。娘の父方は大病の家系でした。そこにこそ最大の課題が潜んでいると察知していました。してはいましたが、とにかく病気は本人が気づきを得ない限り、病気になることを繰り返してしまうと考えていました。「手ごわいぞ」と思いましたが、それを説明し得るだけの理論を持っていませんでした。ただ生きてくる中で、そうとしか考えられないというところに辿り着いていただけだったからです。どうしたものか......。

悩みながらも、現代医療と呼ばれる治療を受けるしか能がなく、娘の気づきが訪れるその時まで時間稼ぎをするしかないと考えました。いや、娘はある程度は気づいていました。病気になって何を得、何を失ったかを知っていましたから。でも、どうやったら、この負のDNAスパイラルから抜け出せるのか、手掛かりがなかっただけだったのです。

そして、その時がやってきました。娘が自分で「漢方科松本漢方クリニックのHP」を見つけたのです。私はこの瞬間を待っていました。娘自身がどこかにある真実の扉を開ける日を。

クローン病発覚から7年8か月が過ぎていました。その間、手術を受け、人工肛門になり2年3か月の人工肛門生活を過ごしました。辛い日々でしたよ。人工肛門だった小腸をお腹にしまう手術を受け、人工肛門からは解放されましたが、その後も食事制限をしても何度かの入退院を繰り返していました。服用薬はペンタサのみ、これは不幸中の幸いだったかもしれません。とにかくステロイドはダメだという考えからプレドニンは一切処方してもらいませんでした。わがままな患者で嫌なものは嫌だと言い通すよう努めました。嫌だと言い出したら聞かない姿勢を貫くことで、主治医や看護師さんたちへ頑固な患者の印象を入院中からしっかりと刷り込みました。母娘で立てた戦略でしたが。理論はなかったですが、母の直感を頼りに娘の気持ちが健康であるよう踏ん張りました。入院・手術・退院・通院・検査・入院・検査・退院......、しかも治らない......、こんなの治療じゃない!!何かがおかしい......。とにかく医者は治療という名のもとに人から人間らしさを奪っていく。患者はどこまでも耐えている。これっておかしくないですか?!!行き場のない怒りがふつふつと沸き起こっていたことを今でも思い出すことができます。傍で見ている私ですらこうなのですから、娘はどんなにか辛かったことでしょう。

しかし、松本理論に出会って救われました。真実はなんと明快で爽快なんでしょう。身体は正直でした。松本理論の実証は単純に分かりやすかったようです。身体の実感を伴っているからだそうです。クローン病完治の手記は娘が書いています。私は私の手記といくつかのエッセイを添えて松本先生と松本理論への感謝の気持ちとさせていただきたいと思います。

2013年3月11日(月)

ひとまず敬具

「ヘルペス&五十肩手記」

平成25年3月13日(水)

平成25年2月27日(水)

娘はこの日、「クローン病はもう治ってるんやないか?どうや?」って先生にきかれ、すがすがしい笑顔で大きくうなずいたんです。まさに記念すべきクローン病完治の日となりました。障害者手帳はなくなりませんが、完治は完治だと素直に喜んでいます。後は、アトピー性皮膚炎を治すだけ。クラススイッチが起きているのだから、自然後天的免疫寛容が起きるのも近いでしょう。

同じ日、私は松本漢方クリニック受付で診察券を作ってもらった。娘のクローン病治療で1年5か月お世話になってきたこの医院で診察を受けることにしたのだ。

娘の治療を傍で眺めて、その回復ぶりに驚いたり感動したりしていただけの私だったが、今度は私自身が松本理論を体感できる時が来たとひそかに喜んでいた。

数か月前から徐々に始まった肩の違和感は痛みへと変化していたが、ヘルペスと免疫との闘いの証だと理解しているから、ほっておこうと思っていました。松本理論を理解しているから不安もありませんでした。しかし、右肩から始まった違和感が痛みに変わった頃、少しずれて左肩も違和感を覚えるようになり、しだいに痛みがひどくなっていきました。右肩は痛みのピークを越えて治まりかけていましたが、左肩だけはどうもだんだんひどくなっていくようだった。

初めは前方向に上げづらかった腕だったのが、痛いところが肩の後ろ側へ徐々に移動していくのを感じていた。気持ちに余裕があるから痛いところが移動していくのを思いっきり観察していた。左腕が後ろへ回せなくなって、次第にひどくなって後ろ側へ回した手は腰の辺りまでがやっと。痛くてそれ以上、上には上がらなくなってしまった。いつも娘と一緒に松本漢方クリニックを訪れていたから、ここはひとつ私も診察していただくことにしようと決めたのだった。

ここからは、3月6日(水)の私のブログを引用して治療開始から一週間後の様子を振り返りたいと思います。ブログ中の「コハ」は娘のことで、ブログタイトルは【小花物語】。GoogleでもYahooでもこのタイトルで検索すれば引っかかるようになっています。ちなみにYouTubeの動画も同じタイトルでいくつか見ることができます。

3月6日の日記より

こんばんは小花物語へようこそ

昨日「眠くて、眠くて・・・」ということを書いた。今日も今日とて眠かった。昨日よく寝たので仕事中に眠くなることはさすがになかったが・・・

定時に仕事を終えると一目散に帰宅という感じで帰ってきた。

とにかく寝よう・・・って思ったからだ。実は、今ワタシは五十肩の治療中で抗ヘルペス剤を服用しながら身体の変化を観察しているところだ。

もちろん漢方科松本漢方クリニックの松本仁幸先生の指導の下に。沢山のコラムや手記へのコメントを読み松本理論を理解している。インターネットでは松本漢方クリニックの治療法に不信を抱く方々の書き込みも読めるからそちらも読んでいる。

読んだうえでワタシはワタシの身体の中で起こることを丁寧に実感し松本理論のすごさを満喫している。そうした中で今ワタシの身体が欲しているのは「眠ること」のようだ。肩の調子は日に日によくなっている。

治療を初めて一週間。最初の二日間は抗ヘルペス剤を一日4回服用した。

眠前(これは京都で)翌日の京都散策の旅の途中朝・昼・夕食後と名古屋へ帰ってからの眠前(ん?・・・昼は飲み忘れ、気づいたときに服用したな・・・)

そしてその翌日も服用。で後は、ときどき忘れるからそれはそれでいいやって思って一日二回ほどに今は一日一回になっている気分によってというか身体が欲しいって感じたら服用する感じだ。そんなことが分かるのかって?分かるのです。身体って本当に正直者だから。私が心理療法の「フォーカシング」愛好家だから特に身体の感覚を捉えやすいというのもあると思うけど・・・フォーカシングについてはこのブログを始めたころ時々書いてたなぁって思うけどそれがどこにあるのか今は探す気力がないです。いつかまた書きたいと思っていますが。で、今日は18時ごろ帰宅して軽く食事を取りちょっと休憩して19時過ぎ・・・そこから布団を敷いて寝た。すぐに寝つけなかったが寝ていたかった。コハが帰ってきて「おかえり~、おやすみ~(笑)」って言った気がする。そしてついさっき起きた23時半ごろお風呂に入ってこれを書いているってワケ・・・(笑)五十肩特に左の肩が痛くて私の腕・・・前には動かせるけど後ろに腕が回らない状態でした。キモノ着るとき自分の帯結びはできないのでコハに手伝ってもらっていました。それが、どんどん腕が回るようになってきているんです。五十肩もヘルペスと免疫との闘いだから肩まわりの神経でヘルペスウイルスを見つけたって証。私の免疫たちが大いに闘っていたんです。だから痛かったんですが・・・抗ヘルペス剤を服用したことにより免疫さんたちの助っ人が登場したって訳。肩まわりでの戦いが沈静化してくると他にはびこっていたヘルペスウイルスを私の免疫さんたちは見つけたみたい。

右肩甲骨の付け根の痛みが始まったのは抗ヘルペス剤をのみ始めた翌々日たぶん月曜日だったはず。同時に黄砂に弱いワタシはいつもは喘息様の咳が出るのだが痰が切れる苦しくない咳が出るようになった。鼻水も出る。気管支まで入り込ませないで身体の外との接点辺りで排除するだけの本来の力が戻ってきたって感じかな・・・時々、耳鳴りもしたがほんの一時だった。これは免疫の戦いに余力が出てきたから身体の他の部分でも十分に機能できるようになったんだと理解した。肩甲骨の付け根あたりの痛みはもっと内側に移動首から背中にかけての背骨辺りが痛むようになっている、それが今日のこと。ヘルペスウイルスはすごく狡猾だから人間が生きている限り神経節に隠れて生き続ける。すごいヤツだ。今、ワタシの身体の中では免疫がヘルペスを封じ込めようとして闘ってくれているんだからとにかく身体を休めてあげようって思っているって訳・・・眠たくなるのは良いコトなんです。できる限り眠る時間を取ろうって思っているところ。寝ている訳にいかないときもありますもんね。

で、で、嬉しい副産物として今、書きかけているエッセイが行き詰っていたんですけどちょっとした気づきが起きて書きたいことが「見えた!」って思えたんです。これはワタシにとってすごくうれしいコト。長年の便秘が解消した感じ(笑)もっと他の表現はないのかって思うけどこれが一番ぴったり!!!

いつか、このエッセイも読んでもらえるかも・・・じゃ、すっきり感と共に再び寝るわ(笑)おやすみ~~~~なさ~~~いじゃ、また診察から一週間後、こんなブログを書いていました。そしてその一週間後の今日(3月13日)この手記を書いています。今日の身体の感じはとても軽やかでいい感じです。長年の肩こり首こりもなくなりました。自分の身体ってこんなに軽いものだったのかと感動しているくらいです。左肩の痛みはまだ少し残っていますが、自分でお太鼓の帯結びが出来そうなくらい快適になっています。この二週間、抗ヘルペス薬を服用しながら身体の内側で起こっていることを楽しく感じ取っていました。軽い耳鳴り、ちょっとした頭痛、後頭部から首筋の鈍痛、今まで鼻水が出ることはほとんどなかったのに鼻水が出るようになったこと、気管支が苦しくなるような咳はなくなり喉の辺りで痰が出て軽く咳をするだけで喉がすっきりすること等々、すべて嬉しい体験です。

そうそう、アトピーも出ています。これは毎年黄砂の来るこの時期に出る症状でもあるのですが、これも楽しくてたまりません。私の免疫が身体のどの部分でヘルペスウイルスや化学物質を見つけ出して、封じ込めたり排除したりしているのかが手に取るように分かるのです。松本理論を知っているだけで、こんなに幸せな気持ちになれるのです。職業病(過去和裁士だった)だと言われていた首こり・肩こりもすっかり消え失せました。頭を支えるのって大変だなぁって感じていたのが嘘のようです。首や肩周りがすっきりして身体があまりにも軽く感じるので、思わず娘に「ねぇねぇ、私痩せた?」って言ってしまいました。もちろん痩せてる訳ないのですが......。娘は笑って「......、そ・れ・は、気・の・せ・い......」って言ってくれました。何と平和で楽しい会話でしょうか。幸せなひと時です。

ここである言葉を思い出しました。『理論と事実が合致しなければ書き直すべきは、理論の方だ』私の好きな作家J・P・ホーガンが作品の中で使っていた表現です。まさにその通りだと思ったし、感動したから覚えてしまいました。人はなぜか理論に合わせて事実を捻じ曲げて解釈したがる生き物みたいですね、松本先生(笑)。先生の理論を読んで、笑いが止まらない私です。松本先生が見抜いている人間のエゴをズバズバ言葉にして下さるから面白くて仕方がないのです。先生はコラムの中でユダヤ人の頭の良さを書いておられましたね。私が尊敬する人々は、なぜかユダヤ人が多いなぁって思っていたことも思い出しました。生化学者であり、SF作家であるアイザック・アシモフはユダヤ人。彼の作品を40冊以上読みあさったことがあります。哲学者でありながら心理学の世界に長い間、寄り道をして心理療法のフォーカシングの技法を発見発展させたユージン・T・ジェンドリンもユダヤ人です。ちなみに私はフォーカシング愛好家で達人と自負しております(笑)私には本物の理論を構築するような才能はないですが、本物がそこにあれば見逃さない才能は持っていると思います。松本理論に出会った時、私の細胞一つ一つが喜びの声を上げたのを見逃しませんでしたから。

話を戻しますね。私がこの手記を書く理由は二つです。一つは感動と感謝。もう一つは周知です。風邪は万病の元ではなくてヘルペスこそ万病の元だったのですね。私がこの二週間で経験したヘルペスウイルスと免疫との闘いの実感や黄砂や化学物質を排除しようとする免疫活動を通して、長い間、本当に長い間、抱えていた謎が解けたのです。こどもの頃よく体験した「首筋の寝違え」「毎夜寝られないほどの咳き込み」「目の中のごろごろ」「腰痛」、思春期以降の「頭痛」「首こり」「肩こり」「腰痛」、大人になって強烈なストレスがかかる度、その後に訪れる「背中の痛み」「吐き気」「耳鳴り」「頭痛」「肩・首こり」「リウマチ症状」すべてヘルペスウイルスと免疫の闘いの証だったのですね。松本理論を知った今、思い出せる限り振り返りの作業をしています。松本理論がすべてに当てはまります。事実と合致する理論は本物ですよね(笑)

幸いなことに私は、ほとんど薬を服用せずに多くの症状を乗り越えてきました。お薬をあまり処方してくれない医師たちに出会っていたからでしょうか。時には近所の人からは「ヤブ医者」の評判がある医院もありましたが、私はお薬を出さない先生は良い医者だと思っていたので近所の評判は無視しました。ただ一度だけ、怪しげな関節のこわばりを感じて訪れた市民病院でリウマチのクスリであるリマチルを処方されたことがあります。この時は一週間ほど服用し、全身に湿疹が出て強烈な痒みで苦しみました。その時は身体が<こんなモノ飲むんじゃない!>って怒っているのだと思い、独断で残りのクスリを全部捨てました。次の診察日は無視して通院をやめ、意志の力で治してやる!治らなかったら、それはそれで私が作り出したのだから仕方がない、諦めるっきゃないなって思ったものです。理論がないのでやけくそです(笑)

自分のことはそれで済んでいたのですが、娘がクローン病になったと知った時はさすがにまいりました。理論がないというのは本当に不便です。説明できないですからね。何かが絶対におかしいと思いながらも、娘にまがい物の治療を受けさせてしまいました。悔しいことです。しかし、母が足りないところは娘が補ってくれるまでに成長してくれていました。クローン病が治らない病気で一生ものだと思い込まされていた時、苦し紛れに選んだ世渡りの術は「できるだけ長く学生でいること」でした。ちょうど薬学部が4年制から6年制に変わった時期だったので娘に「薬学部へ行け」と無茶ブリしたのです。このあたりのいきさつは面白いので小説形式で作品を書いているところですが、いつか多くの人に読んでもらえるものに仕上がったらいいなと思っています。ちなみに、二部に分かれていて「闘病期」と「問病気」(どちらもトウビョウキと読みます)です。

そう、娘は薬学部に進学して薬学を学ぶうちに「クローン病治療にレミケードみたいな強いを使うのは日本くらいのものだよ!」って怒り出していたのです。「私は絶対使わない!」「人工肛門も二度と嫌だ!」って断言したのは何度目かの入院中のベッドの上でした。「じゃあ何がしたいの?」って問い詰めた私に一瞬、怒りの目を向けながらも半泣き状態でした。ベッドの上でiPhpneを操作し始める娘の傍で私は言い過ぎたかと心苦しいまでの冷たい空気を感じながら時間が過ぎて行きました。ほどなく娘が張りのある声で「ここへ行きたい」と漢方科松本漢方クリニックのHP画面を見せてくれました。私もすぐにiPad(私は老眼)で同じHPを開き二人で読みふけりました。何としても退院を勝ち取り松本漢方クリニックへ行こう!!二人で誓いを立てた時には病室の空気は虹色に輝いているかのようでした。平成23年9月初めのことでした。実際に松本漢方クリニックを訪れたのは9月21日でした。ここから本物の治療が始まったのです。この治療については娘からの手記で読んでいただきたいと思います。

さて、また2週間が経ち現在3月27日です。初診から1ヶ月、私の肩は......、いや、ヘルペスウイルスは左肩周りで闘いを続けており、微妙にその位置を移しながら免疫との攻防戦は繰り広げているようです。闘いは一進一退と言ったところでしょうか。そこで自宅近くの鍼治療院への通院も始めてみました。鍼の後はとても眠くなるので眠る時間が確保できるタイミングで施術を受けるようにしています。自分の身体に起こる変化を観察しながら松本理論を実感しています。痛みを感じるコトはそれなりのストレスといえるでしょうがこれは生きているからこそ喜びと受け取ることができます。松本理論を理解しているからこそ焦りや不安はまったくありません。

☆☆☆

さてさて、ここまで書いてありながら仕上げることが出来ず送信もできないまま、時間が過ぎてしまいました。現在5月17日です。一ヶ月と二十日間も手を着けられなかったのは、私の実母が亡くなったからです。一週間後には四十九日の法要を迎えます。ここの所、私の五十肩の痛みはかなりひどい状況です。抗ヘルペス剤もなくなってしまいました。ですが、不安も焦りもありません。この心理状態には変化がないというかゆるぎない自信となって私を支えてくれています。遺伝子の仕組みに敬服しているからこそのゆとりといえるでしょう。明日には松本漢方クリニックを訪れ、いつものワッハッハシャワーを浴びてリフレッシュする予定です。2月27日以来の受診になります。こんなに間を開けたのは初めてかもしれません。抗ヘルペス剤をいただくのも楽しみです。ヘルペスウイルスとは命ある限り闘い続けなければならないので、抗ヘルペス剤とも縁は切れないのでしょう。ストレスを抱えない心の在り方を手に入れることができたのは、まさに松本仁幸先生の愛の力が生み出した『松本理論』のおかげといえるでしょう。感謝しております。そして、これからもよろしくお願いいたします。

平成25年5月17日

「ヘルペス&五十肩手記」vol.2

53歳2013年7月2日

拝啓松本仁幸さま

「ヘルペス(五十肩)手記vol.2」を書き始めます。平成25年5月18日(土)その日は五十肩治療を初めて二度目の受診日となりました。ちなみに、今日は5月21日(火)です。初診は平成25年2月27日(水)でしたので2か月と20日ほど経っての再診となりました。もちろん抗ヘルペス剤もなくなっていました。初診の後、抗ヘルペス剤を服用し、身体の中で起こるヘルペスウイルスと免疫の闘いを実感しつつ、身体の変化を言語化し順調な回復ぶりに心躍る日々を送っていました。しかし、6週間たったころ実母が亡くなりました。首や肩のコリがなくなり身体ってこんなに軽いものだったのかと実感していたころだったと思います。痛む箇所は微妙に位置を変えてはいるものの肩の動きは日に日に良くなっていました。自分で着物の帯結びができる日も近いと思っていたころでした。初診日からちょうど6週間、4月9日(火)~10日(水)にかけての一晩、寝たきりの入院生活が8年4か月に及んでいる母のベッドの脇で過ごしました。もう自力で目を開ける力もなくなっていました。看護師さんが瞼をめくりあげてくれ「この目は見えているよ」と言ってくれました。覗き込むと目が合い、母の目から涙がこぼれました。私が見た最初で最後の母の涙でした。母の口癖「泣きたくても涙が出んだ。私は泣けない女だ」を思い出しました。その辛くて長い人生の一部に寄り添った私は、その涙の深い意味を知っているよという想いを込めて涙をぬぐってやりました。母の人生については別のところで書いているのでここではこれ以上触れません。それから二日後、12日(金)の深夜2時半ごろ母はこの世のすべての苦しみから解放されました。

母の死は覚悟していました。とはいえ、人ひとり見送るのは大変なストレスがかかるはず。回復途中の私の五十肩の変化に興味がわきました。私の副腎皮質はステロイドホルモンを作り出して活発になっている免疫活動を一時的に抑えてしまうのだろうか。折りしも、抗ヘルペス剤は底をついており、手持ちのクスリはありませんでした。今なら松本漢方クリニックへ電話で抗ヘルペス剤の処方をお願いすればいいじゃないかと思えるのですが、やはり動揺していたのかその時は全く思いつきませんでした。

通夜、告別式は葬儀会館で執り行われました。母の遺体は入院していた病院から葬儀会館へ直接運ばれることになりました。母が脳出血で倒れて8年と4か月が経っていました。以来、実家では父と犬一匹と猫一匹の暮らしが続いていました。当然、実家は他人さまに集まっていただけるような状況ではないのと、妻の死に気丈にしているようでもボロボロの父を慮って私の弟が喪主代理を務めての決断でした。夜もまだ明けない午前3時、私は病院から母の遺体が葬儀会館へ搬送されるのを見送ると、呆然としている父と一緒に実家へ戻りました。葬儀会館へは弟が付き添い今後の打ち合わせに突入。夜が明ければ実家へは近所の方々が集まってくるとのこと。玄関周りと庭をザッと掃除して、お茶の用意を整え、気づくと夜が明けていました。庭では母が愛した牡丹が沢山のつぼみを付けていて、今まさに開こうとしているところでした。足元生えている庭の草を、何を考えるともなく抜いていると近所の方々が訃報を聞きつけて集まってきました。怒涛の三日間の始まりでした。

この間、私の肩の痛みは消えることはありませんでした。すべての痛みから解放された母の傍で仮眠する程度で過ごした二晩、かわるがわる訪れる母の兄弟姉妹や親せき、近所の方や、母の友人たちと涙を流したり、口ぐせを思い出して語り合ったりと興奮状態が続いていたはずです。それでも、肩周りの痛みは移動しつつ私の腕の可動範囲を狭めていました。耳鳴りや軽い頭痛も復活していました。こんな状況の中でも私の免疫は休むことなく戦っていてくれるんだなぁと思ったものです。どんな時も私が生きている限り身体の中で免疫は闘い続けているのだと思い知らされた瞬間でした。けなげじゃないですか。24時間365日休むことなく......、いつか私の呼吸が止まり60兆個すべての細胞がその働きを終える時まで決して休むことなく、私の身体の隅々まで点検し、相手(異物)に応じて闘い、排除し、必要最小限の細胞自殺を促し、時には共存さえする。今、ここで、この瞬間、生きているということはそういうことなのだ。すべての闘いを終えて安らかに横たわる母の顔を眺め、その対比にひれ伏した。

さて、今日は5月22日(水)二度目の受診から4日が経ちました。その日(5月18日)には自主的に鍼灸もしてもらっていたんです。「お母さん、鍼予約した?」

出かける直前、松本漢方クリニック通いの先輩である娘にこういわれるまで気づかなかった私です。「そっか、その手があったか......」という訳で、電話すると12時半の予約が取れ、出かけることにしました。松本漢方クリニック通いも一年と八カ月目。院長のワッハッハシャワーを浴びるのは私たち母娘にとっては心のシャワーみたいなもの。道理を求め続け真理を見極めて生きている人は、この世の中にそんなに多く居るわけじゃない。このことを知っているからこそ松本院長に出会える診察日は貴重なのです。豪快な笑い声は正にシャワーのごとく診察室に溢れ待合まで流れ出します。道理を追及すること、真理を見極め真摯に生きることは、歪んだ貨幣経済においては正に孤独な闘いだと思っています。貫き通せる人は少ないのです。松本仁幸院長は真理のみを見極め提示してくれています。それを掴むか掴まないは私たち個人の問題です。そう、きわめて個人的な問題です。掴めば自己との対峙が同時に始まってしまうからです。それが怖いならおのずと松本漢方クリニックからは遠のくことでしょう。仕方がありません。漢方科松本漢方クリニックに一歩足を踏み入れた人は誰でもが既にその過酷な道を歩みだしてしまうからです。そう「自己との対峙」という過酷で険しい道のりを進まない限り本当の意味での健康な心身は手に入らないからです。病気はそのきっかけに過ぎません。松本仁幸その人は、肉体的病気治療と心の在り方の矯正は同時に行われるべきと考えておられるはず、いや、そもそも別々に考える方が間違いなのでしょう。

肉体に心が宿ってこそ『人間』なのだからじゃないでしょうか。

鍼灸を体験している間から既に軽い頭痛が現れました。いい感じです。免疫が目覚めた証でしょう。頭に鍼の刺激は筋肉を緩めたのか、刺した瞬間から上がりにくかった腕がそれまでより上がるじゃありませんか。身体は正直なのですねえ。感動的なまでに正直です。この時現れた軽い頭痛は今(5月22日現在)も続いています。「今、ここで戦っているよ~」という合図だと思っています。それにしても、松本漢方クリニックの鍼灸先生の腕、いいですねえ。近所の鍼治療へはもう行けません。違いを知ってしまいました(笑)。

最前線で戦っている免疫兵が有利に戦えるように抗ヘルペス剤を服用してやります。ヘルペスウイルスの勢力を少し押さえてやると免疫がますます頑張ってくれるのが分かります。免疫活動に余力が出てくると他の部分にひそんでいるヘルペスウイルスをついでに見つけ出して戦い始めてくれるのが分かります。耳の閉塞感がそれだと思っています。この時、間違った治療(治療って言っちゃいけないんですけど......)で頭痛薬とかステロイド剤とか使っちゃうと免疫兵が撤退しちゃうのですよね。免疫とヘルペスウイルスとの闘いは一時休戦ということ。当然痛みはなくなります。でも、それこそが戦わずして我が領地(肉体)を敵(ヘルペスウイルス)に空け渡すこととなるということでしょう。

ヘルペスウイルスがニヤリとほくそ笑んで、神経細胞に沿ってじわじわ進軍していく様子が見えるようです。おお~怖っ!痛み止めやステロイド剤を多用しているとヘルペスウイルスが身体中のあらゆる場所にはびこってしまうことに......。怖いですね~、恐ろしいですね~。それでもけなげな免疫兵は必ずやヘルペスウイルスを見つけ出し、封じ込め作戦を決行してくれる。それが生きるってことだから。生きることは戦うことと言い換えることができるのだと悟った。平和というのは、せめぎ合いの均衡の上に微妙なバランス感覚で浮かんでいるのかもしれない。ふとそう思った。本当の平和は各個人の心の中にあってみんなが一斉に掴み取るような......、そんな部類のモノでもないのじゃないかな。さて、私の手記は「ヘルペス」についてだから割とシンプルに書ける。でも、娘の「クローン病」だからもうちょっと複雑だ。免疫と化学物質との闘いだからだ。生物の進化の過程では存在しなかった化学物質、殺せるわけもない相手。殺す必要がない相手を殺そうとした結果、生じた炎症の数々を治していくのには、免疫自身が気づきを得なければならない。「おや?ワタシは間違ってたかも......?」って具合にね。免疫さんが気づくまでには少しばかり根気がいるみたいですね。松本理論をもっともっと読み込まなくっちゃって思う。読めば読むほど身体の仕組みのすごさに感動するし、自分の中に理論が落ちてくるから。そして、感謝の気持ちが溢れてくる。

さてさて、本日は5月28日(火)です。二度目の受診日から十日が過ぎました。抗ヘルペス剤の服用は大雑把なところで一日二回服用しています。記録メモを見てみると一日四回服用したのは19(日)、20(月)と22(水)の三日間のみ。後はだいたい朝夕の二回となっている。20(月)は年休を取っていて家に居たのできちんと服用。しかし、仕事に行くようになると忘れる......。そんなもんです。忘れるってことは身体の要求を感じないからだろうぐらいに思っているのですが、一度だけ、忘れたことをショックだと思った日がありました。23日(木)のことでした。その前日、一日四回の服用でいい感じを実感していたのでもうしばらく一日四回服用を続けようと思っていたからでした。なのに、忘れた。その朝、出掛けにお昼のクスリを鞄に入れようと思っていたのに忘れたのです。電車の中で気付いたとき軽いショックを初めて感じました。「えっ?今、ワタシってショック感じているじゃん!」という具合に。こちらの方がショックでしたけどね。日頃は、忘れるってこともそれなりに意味があると思っている私でもショックを感じるってことが新鮮でした。まあ、それほど切実に痛みがあったってことですけどね。結局その日は、帰宅後と寝る前の三回服用したと思います。その後は結局、朝夕の二回服用で落ち着いています。それから、不眠とこむら返りの症状が出ています。こむら返りはヘルペスだって知っていましたが、不眠は興奮してるから眠れないんだって思ってました。でも「原田病」の手記に書き加えられたコメントを読んでいて「ああ、不眠さえヘルペスウイルスと免疫との闘いの証だったのか!」との思いに至り納得。不眠はなくなりつつあります。そうだ!それから、五十肩の症状が出始めたころと時を同じくして歯肉炎治療も始まっている。歯科医院へは二~三ヵ月に一回の割合で受診することになっている。もうすぐその日がやって来るからこの変化も楽しみになって来た。

えっと、話を戻して、二度目の受診日から数えて十日目の今日は帰宅後すぐに休みました。布団を敷いて寝たという意味です。今月から転職して―――そうなのです、転職したんです。業務内容、給料は変わらず、一日の就労時間が1.5時間減る。これって転職するしかないでしょ―――ってな訳で一日の労働時間が6時間となった今、帰宅後のひと休みということで疲れたなと感じたら...というか、眠いと感じたらそれは寝なきゃいけないのですよね、免疫が戦っていてくれているから。で、お布団を敷いて寝ちゃいます。帰宅するのが午後四時半過ぎなので、以前にもまして、時間はもちろんのこと気持ちにもゆとりがあります。松本理論のおかげで五十肩の痛みや諸々の症状があることへの不安もなく、身体の内側で起こる変化(もちろん、心理的変化も含みます)を面白がって観察している状況です。もちろん不眠さえ(笑)

で、今日、変化があったのです。夕方の一時間ほどぐっすり眠って目覚めた瞬間「肩が軽い!」って思ったのです。劇的に軽いです。可動範囲がぐんと広がったって感じました。まだ、角度によっては痛む箇所がありますが腕を回すことができるのです!熟睡できるようになった矢先です。「ラジオ体操第二~!」って、思わず腕を振り上げ叫んじゃいました。「チョウシニノラナイノ!」って、すかさず娘にたしなめられたのですが......。「フッフッフッ、楽しみです」

今回の五十肩治療がきっかけとなったヘルペス治療でいろいろ思い当たることが出てきたので書き留めておこうと思います。今回は二つ思い出したことがあります。

一つ目は、高校一年の夏休みに体験した強烈な頭痛。一晩だけでしたがひどい頭痛で眠れず大騒ぎをした記憶がよみがえりました。翌日、母に国立病院へ連れて行ってもらいました。症状を訴え検査をしてもらった結果は異状なし。「頓服を一回分だけ出してあげるから持っているといい。我慢できれば飲まないこと。お守りだと思えばいいから......。」

その時のドクターがそう言っていたことまで思い出しました。赤い薬包紙に包まれた粉のお薬をその後しばらく持ち歩いていたこと、いつの間にかなくしてしまったこと。ありました、ありました、そんなことが。あの時の頭痛は、高校受験で頑張っていた時にそれなりにステロイドホルモンを出し免疫を抑制していたのでしょう。無事高校へ合格して新しい学校生活にも慣れた夏休み、私の免疫が本来の仕事をし始めたということだったんですね。その後も軽い頭痛は毎日のように経験していましたが、結局、痛み止めの薬を飲むことはありませんでした。もともと、身体の内側で起こる感覚を観察するのが趣味のような私ですので、痛みが始まると「おお、来た来た~」と状況を把握。激痛で我慢が出来なかった体験は既に済ませているので、それと比べてどんな感じがするのか......、落ち着いて痛みの変化を観察していました。すると、数十秒間の間に痛みの山場を迎え、自然に治まって行くのが分かるようになりました。

ヘルペスだったんですねえ。今から三十七年も前のことがはっきりと甦りました。もう一つは、32歳の時のことです。長男の不登校を解決するために奔走したことを思い出しました。四ヶ月でひと段落した後、三ヵ月ほどして強烈な背中の痛みが現れたコトです。この時のストレスはやはり大きかったのでしょうねぇ。自分のことならまだしも、小二の息子の将来に大きく影響を与えるであろうこの時を人としてどう立ち向かうか考えました。悩んでいる暇はないです。待ったなしで判断し行動しなければ手遅れになると考えました。こどもの心を侮っていないからこそ真剣勝負だと思ったのです。

余談ですが、不登校のこどもを持った親たちへのメッセージは、その当時、四年間にわたって発信し続けました。文章であったり、勉強会であったり、ワークショップであったりと沢山企画したものです。企画者の私が目の当たりにしたのは、親どものアホさ加減でした。どこまでも、かたくななまでに学ばない親たちに反吐が出る思いでした(ゴメンナサイ、でも真実です)。そして、学ばない親の元で不登校からひきこもりへと移行していく過程を、胸を痛め固く握った拳をワナワナと震わせながらも立ち尽くすしかなかった。私には本物の理論がなかった。

しかし、見えてきたものもあった。私自身の中に根深く潜んでいた両親への不信感と恨みの感情だった。病気であれ困難であれ必要なのは素直な心で立ち向かうこと。それこそが重要なのですね。どんなに未熟な理論でもそれが自分の理論であるならばその時はそれでいい。その瞬間、その瞬間にできるかぎりの判断をし、行動を起こすことだと思います。そうすれば真実への扉が少しずつ開いていくのだと思います。「なぜ?」と問い続けるべきです。自分自身と対峙してしまうから勇気と根性が入りますが、やっただけのことはちゃんと返って来ます(笑)。

そうそう、背中の真ん中の痛みでしたね。これはそれまでに体験したことのない痛みだったのではっきり覚えています。喉の奥から肩甲骨と肩甲骨の間、ど真ん中辺りに向かって薙刀が突き刺さった感じ......。矢が刺さるとかいうような生易しいものではありませんでした。驚いたわー。それでも病院へは行かなかったのですけどね。病院嫌いとかじゃありませんよ。基本的に医者を信用していないのです。危機感も特に感じなかったからだとも思いますが。医者を信用しない出来事は小学校一年生の時に体験しているのですが、このことはまた別の機会にでも......。「後から来るよねー」「そうそう、何かコトがあった時ってその時は感じてないのだけど、けっこう後から来るよねー」ママ友(今は一言で表現できる言葉があって便利だわ)と当時こんな会話をしたのを覚えています。数ヵ月は続いていた背中の痛みや胃の違和感などいろいろ症状はしだいに毎日の暮らしにかき消されて薄れていきました。免疫がヘルペスウイルスを見つけ出して戦ってくれていたんですね。もっと身体をいたわってあげるべきでした。そんなことを知らない私はいつも通りに忙しくしていたと思います。そして、ストレスがかかる度に背中の痛み、耳の閉塞感、首こり・肩こりなどを体感していました。今思えば全部ヘルペス!!

5月31日(金)抗ヘルペス剤:朝・夕2回服用。軽くなった肩周りのストレッチをしてみた。腕の上げ方、角度などによって痛む場所が違うから痛みのポイントを探す。痛いところでしばらく止めて痛みを十分感じてやる。そこでは今まさにヘルペスと免疫の闘いが繰り広げられているところ。だから、そこに意識を向けて「ありがとうね。ご苦労様」って言ってあげる。そうしたら、なぜかお肉、食べたくなった。食べたら無性に眠たくなってきた。だから寝る。明日は休日だ。

6月3日(月)今朝まで頭痛(痛む箇所は右の後ろ寄りから少し前に移動して左寄りの痛みになっていた)があったが、夜、頭痛が消えていることに気が付いた。ふむ、ヘルペスウイルスと免疫との闘いがひと段落ついたのか、ステロイドホルモンを作り出して免疫を抑制してしまったのか、どちらかだろうが......。そんなことを考えていたらまた別の場所での頭痛が現れた右寄りのおでこに近い部分だ。どうやらステロイドホルモンは作り出していないようだ。免疫兵たちはガンガン戦って戦場を移動しているらしい。今日もその働きぶりに感謝して眠ることにする。

6月4日(火)今日は正真正銘!「あたまいたくな~い!!」爽快です。肩の可動範囲も順調に拡大中。耳の閉塞感は一昨日から一切なし。抗ヘルペス剤は一日二回服用を続けています。今日は帰宅後の眠気がなく趣味のお裁縫を二時間と決めてキモノを縫っちゃいました。ワタクシ、もともとはプロの「仕立て屋」なんですが、キモノの仕立てのみでは食べていけないので今は趣味となっております。もちろん着物は二時間では仕上がりませんので気分の良いときに縫うのですが、二時間くらい縫うと気分転換がしたくなる。という訳で、もう一つの趣味「作文」をこうして書いているという訳なのです。脳みそも使う部分が変わると疲れ知らずな気がするのですよね~。今日も痛む部分を見つけると「免疫さんたち~ありがとー!!」と心の中で叫んでおります。さすがに通勤電車の中や職場では叫び声を上げないように自粛しておりますが。娘と二人暮らしの自宅では思いっきり叫んでおります。ちゃんと免疫さんたちに伝わっているように思うのですが......、いかがなモノでしょう。

6月5日(水)頭痛・耳の閉塞感・こむら返りは今日もありません。肩の可動領域はますます広くなっています。が、昨夜は久々の不眠を自覚しました。まっ、こういうこともあるでしょう。今日も快適にお勤めを済ませ帰宅。しばらく休憩した後、二時間のお裁縫タイム。良い気分転換になるのと徐々に仕上がって行くという達成感も新鮮な味わいです。というのも、仕事でキモノを縫っていたころは納期に追われ楽しむ余裕などありませんでしたから。遠~い昔のことですが......。そして「作文」これがまた楽しい。松本仁幸という人に出会えてますます楽しい。どうしてかというと、私が書く文章をそのままに受け取ってもらえるからです。別に深い想いを書こうとか思っている訳ではありませんが『小説とエッセイ』という文化講座に通っていると、仲間からは「意味が分からない」「こどもが分かるはずもないことだ、作品設定がおかしい」「修行もしていない者の表現ではない」「上から目線だ」などとよく言われます。素直に書いた文章に批判が降り注ぐのもそれはそれで理解できます。もっと若かった頃はそれが嫌で相手が理解できるであろう表現でとどめていましたが、やめました。あなた方とは経験の意味を深く追求する貪欲さあ違うだけですから。(また、それこそが上から目線だと言われそうですが、どっちがだと鏡で反射して返してやるわ。ワッハッハのハー)

6月28日(金)久しぶりにこの手記に向かい合っています。手記から遠ざかっている間に嬉しいけどちょっとストレスな出来事を体験しておりました。6月16日(日)に大きな茶会が催されたことです。娘と私が所属する煎茶道松月流が毎年開催する新茶奉納煎茶会で、クローン病完治の娘が席主を務めることになっていました。その席で私はナビゲーター役、つまり、おしゃべりでお客様をおもてなしという役割でした。娘にとっても私にとても初めての体験。一席30名のお客様を10回おもてなしする新茶奉納煎茶会。一回の席は30分ほど。娘はお点前を、私はミニ講演を連続で行います。この日の準備に向かって徐々にテンションが上がって行くのを感じていました。茶会前日は道具の搬入と席づくりです。土曜と日曜で茶会準備と本番が済みますが、その前後は年休を取ってゆとりのスケジュールとしておきました。ストレスが高まる本番前日あたりから抗ヘルペス剤の服用を増やそうと思っていましたが、現実は忙しすぎて飲み忘れました(笑)。いつもと違うリズムにすっかり忘れ、結局いつも通り朝と寝る前の二回の服用となってしまいました。前日の準備を終えたころには頭痛が酷くなっていましたが眠る頃にはすっかり治まっていました。何とこの日の就寝時間は娘とそろって20時50分(笑)。当日は4時起き。身支度を整え、食事を取って、会場へ。スタッフ12名で300人のおもてなし予定。怒涛の一日が始まりました。

チームワークで多くのお客様に感動を味わってもらえた達成感を感じつつ帰宅。翌日は娘も私も休日となっていたので、思いっきり寝ました。そして、念願の抗ヘルペス剤を一日四回服用しました。ふぅ~。お茶会の前後一日ずつ休みにしたのは正解でした。気持ちにもゆとりが持てゆっくり休むことができたのが良かったのか、頭痛もあれ以来ありません。

6月24日(月)には親友のSコちゃんの手記「潰瘍性大腸炎偏頭痛リウマチ手記」匿名希望54歳2013年6月13日を松本漢方クリニックHPで読んだ。

2011年9月、クローン病で入院中の娘が病室で半泣きで見つけた松本漢方クリニックHP。娘が読み、私が読み、受診、通院が始まった。すぐに手ごたえを感じた私たちは、松本漢方クリニックの存在を発信し始めた。伝わる人も伝わらない人もいる中で、Sコちゃんは実践してくれました。私たちが松本漢方クリニックを訪れたのが2011年9月、彼女が受診したのが11月です。そして、手記が掲載されるまでに彼女は回復しました。手記を提出する前に電話がかかって来て、私の実名と娘さんが登場するが良いかというモノだった。もちろん快諾。なのに、彼女自身は「匿名希望」で提出するという。まあ、彼女らしい発言に二人で大笑いしました。彼女は続けて言います「何回も書いては直すうちに色々気付く事が出来ました」と。松本先生は手記を書くという作業を治療の一環として取り入れられておられるとも思いました。それに、自分が発信したことが実践を経て効果を得られた事実を知ることは発信者側にとっても強いエネルギー源になるもだと実感もしています。Sコちゃん、手記を書いてくれてありがとうねぇ。また、おしゃべりして大笑いしましょう!

もう一つ書き添えたいことを思い出しました。前の職場での出来事。今年、年始そうそうだったと思います。上司(40代女性)が、胸が苦しいと言い始めてしばらくたったころ、検査入院で欠勤しました。検査結果は何とヘルペス。病名は分かりませんが(ご本人も覚えていないとのこと)食道に穴が開く寸前だったとか。検査入院のまま帰れなくなり、治療となりましたが一週間から十日ほどで退院され元気に職場復帰されました。「原因はヘルペスだったの~。とっても珍しいことなのですって~」って明るくおっしゃっていました。この時、私は松本漢方クリニックHPは専門家の人にも確実に読まれているって直感的に思いました。ヘルペスは決して珍しいことではないはずだけど、そのドクターはそう言って自分の罪の軽減を目論んだのか......(笑)。

松本先生!真実は必ず勝利します。真実は裏切りませんものね。本当にありがとう!何百回でも叫びたい気分です。ありがとうございます!!!そして、みなさん。手記を書きましょう。あるがままの自分を書けばいい。途中で怠けることだってあります、強い人ばかりじゃありません。忘れることだってあります、人間だもの。どんな経過だって言葉にすれば誰かの助けになるのです。そして誰よりも自分自身を助けることになるのだから、手記を書いて提出しましょう。私の五十肩はまだ痛みます。可動範囲はかなり大きくなってきてはいるものの、角度によっては激痛が走ります。まあ、五十数年も生きていれば、それなりに誰だってヘルペスウイルスがはびこっているのでしょう。五十肩とはよく言ったものです。そうそう、昔は「神経痛」っていう言葉もありましたよね。最近は聞きませんが......。全くよく言ったものです。ヘルペスは正に神経痛そのものですものね(笑)ヘルペスが神経細胞との親和性によって生き延びる以上、私たちは生きている限りヘルペスとは縁が切れません。このことをしっかり理解すれば抗ヘルペス剤とも縁が切れないのもおのずと分かります。また、生きている限りストレスとも縁を切ることは出来ません。そのストレスとどう付き合うかはそれぞれの心の在り方ということなる。だから、松本理論を学び、抗ステロイド剤を時には服用して手記(作文または当事者研究ともいう)を書いて心の在り方を見直す。これが松本理論療法(笑)。重ね重ね申し上げますが、松本先生はすべての薬を否定している訳ではありません。免疫を抑えてしまうステロイド剤や鎮痛剤がダメだと言っていることをよく理解してくださいね。そしてもう一つ、漢方は最上級の食事だとのこと。なんて素敵。最高の食事は苦かったのですね(笑)

<おまけ>娘の手記にないみたいなので付け加えます。娘は松本漢方クリニックでの治療を続けながら、大学病院へも定期的に通っています。血液検査結果はCRPが0.5~1以下をふらふらしておりペンタサが処方されているそうです。これは痔ろうが最後まで残っており少量の膿が出る症状が残っていることと理解しています。徐々になくなって行くだろうと楽観的です。それにペンタサは余っているからと言って処方量を減らしてもらったり、処方箋そのものを薬局へ出さなかったりしているそうです。もちろん、ペンタサは全部捨てしまっていますし、松本漢方クリニックでの治療を始めて以来服用もしていません。でも、ドクターは何も言わない。「ドクターは気づいていると思うよ」と娘は笑って言います。それから、口の周りにヘルペスが出るから抗ヘルペス剤を処方して欲しいと言ったところ、ステロイドの塗り薬を処方しようとするので断ったとのこと。「奴らは知っているよね~」と私たち母娘は顔を見合わせます。娘がまだ大学病院へ行くのは障害者手帳の更新手続きに必要な書類を書いてもらうため。「治る病気を治らないと宣言し、障害者にしたのはお前らだ!!」クローン病は治っても障害者であることに変わりはない。ただそれだけ。

これが現実です。私たちは真実を学び歪んだ社会通念を見抜き、戦わなければなりません。でも、決して当たって砕けてはいけませんよ。賢く戦いましょう。真実を知る者の絶対数はまだまだ少ないですから。松本理論を自分のモノとできるほどには賢くない私には、無知の鎧で身を固めている者を論破するほどの力はありません。出来るところから、精一杯の発信をしているだけです。そして、そのことに威力があると信じる一人です。松本理論を理解する人が確実に増えていると感じていますからね。

松本先生!これからも真実の理論を発信し続けてください。精一杯ついていきます!ヘルペス(五十肩)手記vol.2を終わります。

2013年7月2日(火)敬具