関節リウマチ・ブドウ膜炎・筋痛症・ヘルペスによる様々な痛みの治療経過

匿名希望 60代 女性 202386

2015年4月末に初めて松本漢方クリニックに行き、約8年経ちました。まだ通院中ですが、大きな山は越えたと実感しています。自分の病気に対して根本的な治療を望まれる方に少しでもお役に立てばと思い、手記を書かせていただきます。

 

 私の症状を書く前に、松本漢方クリニックの松本仁幸医師と出会うきっかけとなった友人に感謝の気持ちを伝えたいと思います。彼女がいたから私は松本理論に導かれ治療を受けることになったのです。彼女には感謝の言葉は直接言うことはできないのですがここに記したいと思います。彼女は30年前31歳で亡くなったのですが、高校・短大と同じ学校で学び、同じ部活動で青春を共にした親友のうちの一人でした。彼女は大変に聡明で、運動能力も高く、また人付き合いもよくしょっちゅう友達の悩み相談にも乗っていました。困ったことと言えば時間にルーズで待ち合わせにいつも大遅刻してくるということでした。しかしそれもみんなが許してしまう愛すべき友でした。高校時代は長距離走を走ってもいつも私より前にいて、体力も優れていました。しかし、なぜかよく学校を休んでいたので授業を受けていないことが多くなっていった彼女。家庭に問題を抱えていて、何か事情があるんだろうと、いつもは詳しく聞きはしませんでした。受けていなくても私たちがとっていたノートをコピーして渡せば、テストでは仲間で一番高い点数を取るような人でした。ですが、出席日数のせいで何日か卒業が遅れたので特に3年生では休みが頻繁になっていたと記憶しています。短大に入学してからまた同じ部に一緒に入ったものの、高校生の時のような溌溂さは無くなり、長距離走も私のほうが前を走っていて心のどこかで彼女が「手を抜いているのでは?」と思うようになりました。高校生の時からそうだったのが、益々学校を休むことが増え、講義中に寝ていることも多くなりました。それでもやはり部活仲間のノートを見せてもらえば、成績は上位でした。少し嫉妬するくらい地頭がよかったです。そんな彼女に気になることがありました。指先が冷たく真っ白になってもどらないことがあり、練習で長い距離を走った後でもそれが顕著でした。その頃は、まだ学生で“病気”によるものという概念がなく、「なんでやろね。」と不思議に思っていただけでした。卒業するとき、教職課程を取れたその短大で、わずかな現役採用メンバーの中に彼女は入っていました。私は将来の見通しがまだ持てずに、就職せず社会体育施設でアルバイト生活を始め、どちらかと言えば気楽な生活をスタートさせていました。その一方で彼女は特別支援学級の担任となり、放課後や休日には部活動を指導し夜には識字学級で高齢者や在日の方などに文字を教えたりすることもしていました。たまにしか会えなくなったのですが、1.2週間前に会ったときの事を話すと、「そうやったっけ」というように忘れていることがあり、あんなに頭の良かった彼女が「なぜ忘れてるの?」とその時は思っていましたが、彼女にとって1週間の間にとてつもない量の出来事があって、私とは違う時間の過ごし方をしていたからだったんだと今は思います。前置きがとても長くなってしまいましたが、彼女は長く不調のままそんな生活を過ごし、その後“病気”がわかります。「膠原病っていうねん。」と説明をうけ、高校からの仲間は長く付き合っていたので心配していました。だけど、見かけは何も変わらないので飲み会でアルコールを無理に勧めないとか、そんな程度の配慮しかしていませんでした。今のようにインターネットで調べれば何でも知ることが出来る時代でもありませんでした。まさか亡くなるほどの病気とは誰一人思っていなかったのです。そんな彼女が、仕事を休職し入院することになりました。入院先は大阪でトップクラスの大学病院です。新しくなり移転したばかりのその病院に入院し大きな病院だからしっかりと診てもらえるだろうと安心していたのですが、はじめのうちは一時外出や外泊できていた彼女に徐々に会えなくなりました。今度こんな治療をすると彼女は時々教えてくれていましたが何の知識もない私たちは、その治療がどんな意味があるなど考えず、良くなるものだと思っていました。そのうち彼女のお母さんが「会いたくないと言っているから。」と言うので、私たちは彼女に無理に会いに行くのをやめていました。しかし、お母さんの許可がおりて久しぶりにお見舞いに行った時の彼女は、もう会話をすることもできなくなっていて、ひらがなが書かれた透明のプラスチック版に視線を合わせて会話する状態でした。まんまるで面影のなくなった顔の彼女の目から涙がこぼれて、いたたまれない時間でした。それでも私たちはみんな、まさかそのあとに彼女が亡くなってしまうなんてまだ思っていなかったのです。その数か月後に、仲間の一人の結婚式があり私たちは集まっていました。結婚式後、ある友達から「彼女のお母さんから昨日の夜に亡くなったと連絡があった。」と聞かされました。そしてその後、葬儀場で会えたのが最後になりました。こんなに若いのに、能力も体力もあったのに、みんなに好かれて頼りがいがあって、将来に希望がいっぱいだったのに、、、彼女の死は私にとって一生忘れられないことです。

 手記を書くにあたり、彼女のことを書くべきか悩みました。しかし、私が大学病院へ行かずに治療できるところを探したのは、彼女がこのような残念な亡くなり方をしたからにほかならないので書くことにしました。これを読んでいる人の中には大学病院=すばらしい病院と思っておられる方も多いでしょう。ある分野ではそうかもしれません。しかし、彼女のことがあったので、難病やよくわからないという病気については、“実験台にされるのがオチだ”と私の心の中に強く刻みこまれたのです。そして松本仁幸医師に出会うことができました。

 

【関節リウマチの発症】

2014年8月頃(52歳)から手首や手指の関節が痛み、ペットボトルの蓋が開けにくい。パソコンのキーボードを打つ時に手首が痛み同じ姿勢が続けにくい、車の運転もハンドルを持つ姿勢が長く続くと手首に痛みが出て辛いなどの不具合がでてきました。これは、関節リウマチなのかもしれないと思い、近くの整形外科に行くことにしました。実はそれ以前から酷い目の充血が何年も周期的に起こり(強膜炎と診断されていた。)眼科に通っていた時、眼科の医師から「関節リウマチなどはないですか?」と聞かれたことがあって、その頃変形性股関節症のため時々通院していたA整形外科の医師にきいてみたところ、「目の充血で関節リウマチというのは聞いたことがない。」と言われましたが、念のため検査をしてもらいました。結果は、CRP、MMP-3、レントゲン、異常なし。「RF値は範囲内に入っているが、何にもない人よりはほんの少し高いかなというくらいです。」ということでした。指関節の付け根が痛まないならヘバーデン結節との診断でした。毎年受ける人間ドックの血液検査ではまったくリウマチ関連の数値は異常がなく、自分の周囲に患者もおらず特に関節リウマチの知識もなかったので、その時はそのままにしていたのです。

9月、早めに退勤できた日、A整形外科とは別の、B整形外科に行きました。レントゲンと採血をしましたがレントゲンでは特に骨の異常はないということで、1週間後に採血の結果を聞きに行くと、「RF値、CRP正常」でロキソニン軟膏をもらい帰宅。このロキソニンは指の関節に塗ってもほとんど効きませんでした。痛みは感じているのに何もないことはないと思い、もう一度通院し検査をすると次は、「MMP-3(炎症)の値がやや高いのでやはり関節リウマチの初期でしょう。」と言われました。ネットで関節リウマチのことを調べたり、病院で順番を待っているときに待合室に置いてあった本の中に関節リウマチのページを見つけ読み進めたりしていたので、進行すると関節が破壊されるなど恐ろしいことがたくさん書いてあり、気持ちはとても憂鬱になり沈んだ状態で診察室に入ったのを覚えています。医師は治療について、免疫抑制剤というものを使用するのが通常であると説明しました。ステロイドについて怖いという意識がどこかにあったので、そのことについて問うと、「初めに叩く必要がある、短い期間なら大丈夫。」という説明を受け、プレドニンを飲むことになりました。「治りますか。」と訊いたとき「治りますよ。」とその時言ってもらえたので、気持ちは少し楽にはなりましたが。憂鬱な気持ちにはかわりありませんでした。

その頃私は中学校の体育教師をしており、重たい石灰(白線引き)を運んだり、倉庫のシャッターを開閉したりするのも辛くなっていました。また、日ごろ問題行動に対する指導が多い学校にいたので指導のための時間が長くかかり、精神的につらい部分もあり、疲労が蓄積していて、10m走るだけでも息切れがするほど倦怠感が酷かったので、自分が加齢により体力がとても落ちているとこの頃は思っていました。そんな中、関節が破壊されて動けなくなることは、仕事ができなくなるのと同じことなので何としてでも治さなければという思いがありました。実は、私の夫がこの4年前に脳出血を起こし、体調は回復してはいましたが、早々に仕事を退職せざるを得なくなって、復帰も難しい状況だったので、私が仕事をしないわけにはいかなかったのです。先に言ってしまうと、このB整形外科での治療の途中副作用で体調が悪くなり、松本漢方クリニックをネットで探し出し、B整形外科に通うのをやめ松本漢方クリニックに通うようになりました。クリニックでは、初診の際にそれまでの病歴や服用した薬の種類・量を書いて出さなければならないとのことで、改めて自分のしてきた治療や飲んだ薬のことを振り返る機会を得ることになりました。

松本仁幸医師に出会ってから、自分の体は自分で治す。自分の免疫で治す。ということを教えていただき、今思えば、病院に行けば治る(本当は症状がとれるだけですが)と、思って自分の体を労わらないで無理を重ねて自分で悪くしていたのだと感じます。しかしまだその時は、その事にも気づいていませんでした。まず自分で作った病気の原因であると思われる自分の病歴、通院歴、薬歴を各器官別に振り返ってみたいと思います。

 

【眼の不調】

小学高学年の頃から急速に視力が悪くなり、中学生では授業中だけメガネ、高校生の頃からソフトコンタクトレンズを使用し続けていました。1994年32歳の時、仕事で帰宅が遅くなり目の乾燥感が酷く、帰宅後早くコンタクトレンズを外したい思いで先走り、乾燥したまま両目のレンズを外しました。しばらくすると両目ともに耐えがたい痛みに襲われ、目が開けられなくなりました。涙や鼻水やらが止まらないくらい強烈な痛みがあったのですが病院が開いている時間ではなく、一晩我慢して翌日仕事を休み、目が開けられないので夫に手を引いてもらいながら眼科にいきました。表面の膜が剥がれているとのことで、白眼に注射をし、保護用のレンズをして、一週間自宅で過ごし通院しました。この時の注射はたぶんステロイドだろうと思います。そして、点眼薬や軟膏を目に入れていましたが、後々これはリンデロンというステロイドであると知ります。このことがあってから、頻繁に目が充血し、またまつ毛の付け根がかゆかったりして、市販の目薬を日常的に使っていました。

ある日、友人からアレルギーなのでは?と言われ、アルガードという目薬を使うようになります。長くこのアルガードを使っていました。コンタクトレンズは、ハードレンズに変えましたがメガネがどうしても嫌で(度数がきつく扱いにくいので)コンタクトレンズは続けていました。この目の充血が徐々にひどくなり、自分を苦しめることになるとは思ってもいませんでした。徐々に市販の目薬では効かなくなり痛みが強くなって眼科に通うようになりました。パソコンを長く使ったり、商業施設など空調が管理されていて乾燥している場所に長くいたり、大掃除などでたくさん洗剤を使った後には決まって酷い充血と痛みに襲われ、目が開けていられないくらいでした。(その頃は何がきっかけで充血するのかもまだよくわかっていませんでしたが。)眼科では強膜炎と診断されリンデロンを処方されていました。それよりも軽いオドメールでは効かなくなりリンデロンにしてほしいと頼んだこともありました。しかし、充血が起こる頻度も痛みの強さもよりいっそう酷くなり、一度痛みと充血が起これば3か月以上も続いたこともありました。右がおさまれば左、また右と交互に痛むこともありました。両目一緒になったときは、仕事を休みました。痛みとともに光に弱くなり眩しくて目が開けていられなかったこともあります。屋外ではサングラスをかけて過ごしていました。視力はどんどん悪くなる一方で、常にモヤがかかったように見え、夜の車の運転はあまり見えないのでできるだけ止めていました。自分は、ステロイドはよくないと何となくではあるけれど知っていたのに、副腎皮質ホルモンと記載されていたものがステロイドと同じとは知らなくて、まだそのころはネット情報も豊富ではなく自分もそういうものに疎かったのもあり調べることもなかったのです。松本仁幸医師に会う直前まで20年間近く続けていました。また、時々目の前にキラキラした幾何学模様が表れて視界が暗くなり狭くなる症状があり、強い頭痛が起こることもあり眼科医に尋ねたところ、それは目が原因ではないと言われました。この症状は今はなくなりましたが、閃輝暗点というものであるとこれも後日知りました。そして飛蚊症も出て、どんどん酷くなっていき、目の前にチラチラ何かが漂ってドライアイの状態が常時となっていました。痛みに耐えきれずにバファリンなどの市販の痛み止めを飲むことも多々あり、仕事が忙しい時期によく発症して精神的にも苦しかったし、もしかしたら見えなくなるのではという気持ちにもなっていました。

 

【腰痛(腰椎椎間板ヘルニア)・背筋痛】

高校生の頃、部活動のバスケットボールで腰を痛め、それ以来定期的にぎっくり腰のような状態になりました。働き出してからは、夏休みは部活動の指導でほぼ毎日学校に出勤していましたが夏休みが終わって2学期の行事が一段落した頃、秋口によく起こりました。毎年1~2回少なくても3年に1度はぎっくり腰や背中の痛みで1~2日仕事を休みました。ひどいときは、痛みで動けず受話器が持てないので電話で職場に連絡することもままならなかったり、自転車で通勤中に起こって夫に迎えに来てもらったりしたこともありました。痛みをこらえて病院に行っても結局それほどよくはならず、痛み止めや湿布をもらうだけで、安静にしておくのが早道と学びました。

慢性的な痛みには、マッサージやけん引・電気治療・カイロプラクティックにもしょっちゅう通い長い間腰痛と付き合ってきましたが、2008年45歳の時、とうとう腰椎椎間板ヘルニアになりました。この時は新しい学校に転勤して3年目で、2年生の担任をしていたのですが新年度に入ったばかりの時期で、職場であまりうまくいっておらず、生徒指導の対応や、管理職との関係で休むのにとても抵抗がありました。しかし、もうそんなことは言っておられない状態にまで痛みが酷くなっていました。下着や靴下は自分で履けず夫に手伝ってもらいながら身に着け、職場で着替えないといけないときは膝を前に持ってこられないので膝を床についた姿勢で後ろの足に何とか手を届かせていつもの4~5倍も時間をかけて着替えていました。もちろん痛みを我慢できないときは市販の痛み止めを飲み続けました。そして市内の有名な総合病院Cにいきました。診察を待つ間も辛くてようやく順番が来たと思ったら、MRIの予約が一週間後ということで一週間も耐えることは無理と思い断って、翌日に近所の総合病院Dへ行き、そのまた翌日から一週間ほど入院しました。(この病院のMRIでヘルニアが確定)ボルタレンなどの痛み止め(座薬)もあまり効かずブロック注射も2回しましたがまったく痛みはなくならず、手術を希望しました。この時は、左足を床に付けることがほとんど出来ず、トイレで便座に座るのも辛く、仰向けに寝るのもできず、横を向いて寝ている姿勢だけが痛みが緩和される状態でした。しかし腰椎椎間板ヘルニアで手術するのは5%ということで手術してもらえず、その時は痛みに耐え続けるより手術をして早く楽になりたかったので、セカンドオピニオンで隣県の有名病院Eへ行きました。

夫に車で連れて行ってもらい、駐車場から病院内に行く間も歩くのが辛く、足を引きずって一歩一歩苦痛に顔をゆがめながら歩いてやっとの思いで到着し、待合室でも長く待たされたので痛すぎて、立っても座ってもいられず空いている診察室に横にならせてもらうほどでした。そこではすぐに手術したほうがよいと診断されましたが、この病院の整形外科は人気で、手術日が2ケ月先まで空いてないとのことで、手術してもらえる病院を紹介してもらいました。横になったままストレッチャーに乗せられ病院の車で紹介された総合病院Fに移動しそのまま入院。この病院は中規模の病院でした。手術は5日後に決まりました。しかし、その日の夜中痛みが強くてまったく寝られず、看護師に痛み止め(ロキソニン)を下さいとお願いしましたが、飲んでからまだ時間が経ってないのでだめと断られ、一晩苦しみました。そして翌日、5日後と言われていた手術は次の日にしてもらえることになりました。心の底からほっとしました。ラブ法という手術でヘルニアを切除しました。普通は片方の脚だけが痛くなることが多いらしいですが、私は両脚に痛みがあり、見せてもらった切除されたヘルニアは特大で「これは痛いはず。」と言われました。手術後の傷の痛みを心配されましたが、それまでの痛みに比べたらたいしたことなく、仰向けに寝られることに幸せを感じたくらいでした。

手術をしたのが5月の最終週で10日後に退院しましたが、7月末まで仕事を休み、8月から復職しました。左脚の脛の外側は神経が傷み、触覚を感じなくなっていました。左足の裏にも何か違和感があり、つま先に力が入らない状態でしたが徐々にリハビリと思って通勤し始めました。夏休み中とはいえ、部活動・文化祭の取り組みなどやることは多く、出勤してしまえば「できません。」ということはできず、無理をしてしまい結局体育大会が終わる9月下旬頃に再発していました。しかし、前の手術でできた空洞が腰の骨にあるので痛みはきつくはなく(整形外科の医師の説明)、左脚の違和感はありましたが、徐々に酷い状況は改善されました。今でも腰痛・背筋痛は疲れがたまると出ることがあるので、常に用心しています。また、これとは別ですが筋肉だけでなく肩甲骨の間の背骨にも何か引っかかっているようなズレているような違和感が長くありましたがこれは放置していたら3~4年でなくなりました。

先に書いたように、私は中学校で体育教師をしていました。すでにこの3月で定年退職していますが、それまでに5校の学校に勤めました。4校目までに赴任した学校は、問題が多く、所謂荒れた学校で、なかなか打開策がないまま日々の対応に追われていました。常にストレスは大きく、自分の体への悪影響も多く、今考えるとそれが常態化していました。特に椎間板ヘルニアの手術をした時には、自分自身が年齢を重ねて体力がなくなってきた45歳という時期でもあり、所属学年の教員とはうまくやれていましたが、管理職や他学年の教員にはストレスを感じることが多くあり、担当している生徒をうまく指導しきれずもどかしい思いもあり、相当な精神的苦痛の中で過ごしていました。それまでは、生徒がいくら大変でも教職員が団結して取り組めていたし、楽しいことも多かったので、大変な中にも苦しさは分かち合え、その分心の負担は少なかったのです。ですがこの頃はそう思えず自分の精神に問題があったのではないかと今思い返すと感じるほどです。

 

【股関節痛】

この学校には、それまでで一番短い5年間しか勤めなかったのですが、その理由が夫の脳出血です。私と同い年の夫が48歳になる年の9月に倒れて約2か月で退院。その後は自宅でリハビリしていくということになりました。夫は仕事も翌年1月には辞めさせられ、先々どうなるかわからない状況でした。退院時には自分で歩いて階段も上り下りできましたが、入院中はエレベーターのない自宅マンションを引っ越さないといけないのではないかと医師の発言から不安に思っていました。担任になれば指導事項が起これば定時に退勤することはできないし、家庭訪問や、連絡待ちなどで帰宅時間は夜9時10時になることもあります。この学校は規模が小さい学校で、教科の持ち時間数の関係で自分が担任を外れるということが無理な状況だったので、転勤を希望したのです。

そして、その学校から転勤することになった春休み、荷物を整理し段ボールに詰め、運んでいる時いきなり腰に電気が走りました。やってしまった。と思いましたが何とか車で荷物を運び終え、その2日後には次の学校に赴任しなければなりませんでした。腰痛はなんとか落ち着いたもののなぜか右の股関節が痛み、そちらの痛みが酷くなりました。すぐに治ると思っていましたが治らず。この転勤後から股関節痛のために前出の整形外科Aに通いました。レントゲンでなんとかわかるくらいでしたが右の股関節に骨策があり、変形性股関節症と診断されました。「回復することはなく徐々に酷くなっていく。酷くなると手術が必要になることもある。」と聞き、絶望的な気持ちになりました。この股関節痛はよくなったり悪くなったりの状態で今も痛みと付き合っています。一番痛みが酷い時が10とするなら、今は2~3位です。その頃は赴任したばかりで、頑張らないといけないのに「出来ない。」などと言えないと自分で思っていたので、痛み止めを飲み続けて仕事をしていました。痛み止めは、ボルタレン・ロキソニン・胃薬 などで、痛みが酷くなり痛み止めもきついものに変えていかれました。朝にロキソニン1錠、昼に1錠、夜はできるだけ我慢して飲まないようにしていましたが、夜中に何ともいえない痛みで眠れないことがあり、情けなくて泣けてきました。そしてとうとう胃が悲鳴を上げ始め、整形外科Aの医師に胃の調子がとても悪いことを告げると、やはり来ましたか。という感じで予測していたような反応をされて、より強い痛み止めをもらっていたけれどそれを飲むのを止めて捨てました。

整形外科では治らないんだと感じ始め、ネットで調べ、股関節専門治療深圧院の”深圧“というものに出会いました。この深圧は保険がきかないものですが、整形外科の何倍も効果を感じることが出来ました。しばらくは施術で痛みが弱くなり助けられました。ただ、大阪には出張の施術師が来て施術をするのでなかなかタイミングが合わず予約が取れなかったりしたことと、はじめに受けていたころにはなかった筋痛症の症状が私に出てきて、施術によりそれが酷くなるような気がしてやめました。股関節の痛みは痛さや部位が変わっていき、自分でもはっきりとここが痛いと分かりにくいことがあります。痛みが酷い時もあれば、ほとんど感じない時期もあり、現在はやや痛みが出ていますが、生活には支障ありません。

 

【歯の痛み・歯茎の痛み】

中学生の頃、虫歯になるのでよく歯科に通いました。高校生の頃からは少なくなりましたが、勤めだしてから、疲労が蓄積すると目・腰・歯(歯茎)にすぐ影響が出ていました。歯磨きはしていたつもりでしたが気づけば虫歯が出来ていて虫歯に詰め物をしたり被せたりしてほとんどの歯に治療をしています。虫歯にならないまでも、就寝中歯ぎしりをしたり、奥歯をかみしめる癖がずっとあったので、歯が割れて抜かなければならなくなり、ギリギリまで抜かずにいて歯科に行くともっと早く来て抜いていたら他の歯は守れたのにということを言われたこともありました。寝不足や疲労が溜まるとすぐに歯茎が腫れたり浮いて歯がぐらついたりしていました。現在は、右下と左上の奥歯が3本ずつ無く、ブリッジの入れ歯をするようになり、違和感がありながらも噛むこともできないので入れ歯はつけています。しかし咬み合わせがすぐ悪くなりあまり調子が良くないので外して食べることも多いです。少なくはなったものの、今でも疲労が蓄積されると歯茎に腫れや痛みが出ることがあります。漢方煎じ薬を飲み始めて一番初めによい変化があったのが歯茎なのでこの治療の積み重ねもよくないものだったのかなと感じています。

 

【月経痛】

高校生の頃は月経痛が激しくて、通学中のバスで我慢しきれず降りてベンチに座り込んで耐えるなど、相当ひどい腹痛や腰痛がありました。学生の頃はそれでも痛み止めをできるだけ飲まずに我慢していたのですが、仕事をしだしてからは痛み止めに頼ることが多くなりました。婦人科で20代前半に子宮内膜症と診断されたり、26歳の時に流産をしてその時には卵巣嚢腫と言われました。この時は手術をして卵巣を切除することになりましたが、入院直前で思いとどまり行かずにキャンセルしました。月経前や最中には体調がすぐれないことが多かったです。40代後半からは子宮筋腫があると言われて、経過観察のため、毎年のように婦人科検診をしていました。現在は閉経しましたが更年期障害のホットフラッシュや精神的不安定などもありました。

 

【その他】

主な症状は上記のものですが、それ以外にも今思えばこれも関係がありそうだというものがあります。ひとつは、痔です。排便は通常毎日あり、特に便秘症というわけではありませんが、時に排便時に切れ痔になることがありました。なりやすいほうだったと思います。そして、一度ひどい痔核になり動きが取れなくなりました。夫に薬局に走ってもらい、薬を飲んであっという間に治ったことがあります。これも免疫抑制剤だったのでしょう。それ以降、排便時には気を付けていました。職場の規定で40歳以上になると、毎年胃検診(バリウムや胃カメラ)を受け、ポリープの切除も3~4回しました。人間ドックや乳がん検診でのマンモグラフィー、エコー検査なども頻繁に通常の健康診断以外にも行っていました。自分の免疫を弱くすることばかりしていたのです。

【関節リウマチと松本漢方クリニックとの出会い】

2014年8月に初めて関節リウマチと自覚して整形外科で治療を始めましたが、10月から飲み始めたプレドニン(5mg、1日2錠~半錠で)約2か月、その後リマチル(100mg、朝夕1錠で)約4か月で標準治療はやめることにしました。まず、やはり胃痛が起こってきたこと。(もちろん胃薬も飲んでいましたが。)そして、副作用と思われる症状が出てきたので怖くなったというのが正直なところです。寝汗が酷くなり、焦燥感、不安感で夜に睡眠が十分とれなくなり、副作用だと自分では感じました。ちょうど閉経の時期と重なり更年期障害なのかと思うこともありましたが、(実際に更年期障害の症状も出ていましたが)直感的にステロイドの副作用だと感じたのです。治療に関して、何かが違うような気がしてなりませんでした。

2015年の3月頃から自分の症状と完治というキーワードでネット検索をしはじめ、その頃左上腕の痛みがあり、心筋梗塞の前触れなどと恐ろしいことも書いてあったのですが、〝腕の痛み、関節リウマチ、完治″で検索した時に、初めて松本漢方クリニックのホームページにヒットしました。8年前のその頃は今ほどネットがまだ充実していなかったと思いますが、たまたま検索ワードに〝腕の痛み″を追加したときにどなたかの手記の内容に当てはまり、ヒットしたのです。仁幸医師の松本理論を少しずつ読み進め、読むにつれもう自分は治ると思いました。その頃、関節リウマチの治療で飲んだ免疫抑制剤はそれほど多くなかったので、もしかしたら2~3か月で治るかもしれない。と、まだ無知だった自分は感じていました。すぐにでも受診に行きたかったのですが、それまでの通院、投薬歴や量を提出する必要があり、自分が残していた書類を調べて記入して出せる状態にするまでに時間がかかってしまい、行くまでに1カ月ほどかかりました。そして、その頃はまだホームページに載せられていた患者さんの手記を読んでいると、同じような症状で他病院での対応に見切りをつけ仁幸医師に助けられた患者さんも大勢おられました。今までの経験から始めは手記も信用ならないという気持ちも少しありましたが、この量をいわゆる「さくら」が書くのは無理だろうと思い、お一人お一人の背景も違い、内容も充実していたのですぐに信用できました。そしてそのなかで仁幸医師が個性的な方だということが伝わってきて、会うのが楽しみなような心配なような気持ちになっていました。仁幸医師のホームページは、今まで私が美辞麗句で誘われて読み進めた他の医院や治療家のものとは違い、いっさい色気がなく誠実なものでした。色気とはお金を使わせるためのコマーシャル的要素です。検索しヒットして良さそうな内容だと思っても後半にはこれ以上は教えられない。とか、DVDを購入してください。などの患者本位ではない部分を感じることが多く嫌気がさしていました。仁幸医師のホームページにはそれがなく、読み切れないほどの量ですべてを伝えようとされていることがわかりました。すべての内容をすぐに理解するのは難しいことでしたが、何度も繰り返し読むと少しずつ理解できるようになり、新しい手記も次々追加され、ここしかないという気持ちになりました。治療費の不安がなかったと言えばウソになりますが、自分が勤めている間は何とかなるだろうと思いました。

【漢方煎じ薬の素晴らしい効果】

初診の日は、仕事を1時間早退し金曜日の夕方に行きました。待ち時間が長いと手記にもよく出ていたので、覚悟して行ったのですが、平日の午後だったせいか40分ほどで呼ばれました。ヘルペスのファイルを待ち時間に読むように言われましたが、そんなに読めないまま診察室へ。今までの経過を聞かれることと並行して、[アレルギーはなぜ出るのか。化学物質によっておこること。クラススイッチすれば共存できること。遺伝子の違いで抗体を作る量が違うこと。今の症状はヘルペスからきていること。自分の免疫をあげて治すこと。]など松本理論の話をしていただきました。自分の診察の間に3回ほど電話があって、自分の時間が長かったので他の患者さんに申し訳ない気持ちになりながらも、仁幸医師はしっかり患者を診てくれる人。と直感しました。鍼灸は終わる時間だったのですが、「鍼灸いれてあげて。」と言ってくださり、鍼灸もすることになりました。採血のために場所を移って準備をしているときに、強膜炎(目の充血)のことを聞かれ、「眼科でリウマチじゃないかと言われてわかったんです。」と伝えると、「あたりまえや。おんなじ病気や。」と言われ、「そっちのほうが厄介かもしれんな。」と一言言って、次の患者さんの対応に戻られたのがとても印象に残っています。そのとおり、目がリバウンドの中で一番きつくなるとはその時は知る由もありませんでした。この前日まで、リマチルを飲んでいて、そしてリンデロンも1か月前まで差していました。その日は、鍼灸をしてもらい自分での鍼灸のやり方も教わり、漢方の煎じ薬を二種類と薬浴の漢方、アシクロビル(1日10錠)をもらって帰りました。帰りが遅くなったので翌日の土曜日に朝から漢方・アシクロビルを飲み始め、お灸、薬浴を2回に分けて行いました。そしてなんとその日の夜から嘘のようによく眠れるようになり、こんなにすぐに効果が出るのかと驚いたのを覚えています。睡眠に関しての効果がすぐに出て、しかも副作用がない安心感がとても大きく、治療を頑張ろうと思えました。

 

【治療開始時にあった自覚症状】

●倦怠感が強い 朝なかなか起き上がれない

●起床時に(うたた寝でも)手足がこわばる  

朝起きた直後は足首が固まり踵でしばらく歩いていた

●手指関節、手首、肘、肩、上腕三頭筋の痛み 手指の腫れあり握れない 握力がない

●腕が上にあげられない(五十肩)

●右股関節の痛みが強い そこからの影響で太もも、尻、膝、脛、ふくらはぎ、

足首、かかとの痛み 左股関節もたまに痛む

●歩いているときに足の裏に電気が走るような痛みが頻繁にある 

●ふくらはぎ、足指が時々つる。

●首が凝り、固まっていて真上が向けない 頬杖姿勢などで首が固まる

●腰痛 ●肩甲骨の間、胸骨付近の痛み、違和感

●両目の強膜炎 片方ずつや交互に充血し、痛みが強く腫れることもある

 両目同時になることもあった 屋外で眩しく感じる 眼が見えにくい 飛蚊症

●目がチカチカするとその後視野が欠けその後頭痛(閃輝暗点)●瞼の痙攣●頭痛

●軽い蝶形紅斑●口の周りが黒ずんでザラザラしていた

●時々キーンという感じの耳鳴り、難聴●歯茎の腫れ、歯のぐらつき、口臭、口内炎

●喉がずっと痛い 唾が飲み込みにくい●胃痛

●ふらつきがある バランスがとれず体が傾くことがある

●時々切れ痔 ●あちこちの筋肉痛●腹痛(食後に張ることが多い)

●心臓の違和感、脈がたまにとぶ●体重が半年で4kg減った

 

 

【すぐに治るかもという期待は崩れる】

血液検査の結果は、リウマチの値は正常範囲内、しかし単純ヘルペスの抗体価が2未満のところ、140位ありました。リウマチの値が範囲内なのはいつものことだったのですが、仁幸医師は「痛みがあるのに値が出ない人のほうが治りにくい。」との話を後日にしてくれました。多くの患者さんを診てこられた経験があるからこそそれがわかっておられたのだと思います。私は、「もしかしてすぐに治るかも」とも思っていたので、関節リウマチの薬だけが今の状態を作ったのではないと分かっていなかった自分の浅はかさを徐々に実感しました。自分自身もその通り長引くことになってしまいましたから。しかし、「必ず治るで。」「自分の免疫で治すんやで。」と何度も言ってもらい、握手してもらい、治療の理論はもちろんですが、仁幸医師の患者に対する人間性に救われました。他院や書物では、「原因はわからない。難病で治ることはない。」など、突き放されるような気持ちが大きかったのですが、仁幸医師が治ると言ってくれたことで希望が湧いてきて治療を頑張る気持ちになったのです。大げさではなく涙が出るほど嬉しくありがたかったです。クリニックで治療を始めてすぐにリンパ球の値が増えてきました。しかし、長年自分が服用してきた免疫を下げる薬やストレスにより自分自身が出し続けていたステロイドで私の身体はそんなに簡単には元に戻らない状態になっていたのです。初めは3年は続けようと期限を決めました。しかし治療の過程で自らステロイドを出し、治りにくくしないための心の持ち方の大切さを教えていただき、少しは実行でき、リバウンドもありながら治っていくことが実感できて、もう少しもう少しと思いながら8年が過ぎました。現在もまだ通院中ですが、この8年間、仁幸医師は常に患者のために勉強し、発信し続けてこられました。私は仕事をしながら毎日疲れ果てている状態で、その理論を読んで理解し続けるのはなかなか難しいことでしたが、医学的なことはもちろん、人の在り方、世の中の在り方や、まったく知らなかった事もたくさん教えていただきました。また自分で疑問を見つけ、調べて知ることが大切だとこの年になって身をもって感じるようになりました。それは、仁幸医師の発信から得た宝物のような気がします。有史医師に引き継がれてからも、新しくクリニックを開業して今まで続けてきてくれていることに感謝の気持ちでいっぱいです。

【リバウンドと治っていく過程】

 治療を始めた頃は、いつクラススイッチが来るか楽しみで待ち望む気持ちでした。激しいリバウンドが起これば仕事を休まなければいけないという覚悟もしました。でもできれば仕事に支障がない程度のリバウンドであってほしいというのが本音でした。お灸は痛むところを中心に毎日40~50か所、仕事が休みの日は150~200か所ほどしていました。自分でできないところは夫に頼んでしてもらいました。薬浴は初めの頃は週2回、一回につき2時間ほど入っていました。漢方煎じ薬は3食食前食後と二番煎じをいつでも飲めるようにしました。煎じ薬は、夫が家にいたので、3日分まとめて作ってくれます。今でも作ってくれるのでありがたいことです。アシクロビルも1日10錠まじめに飲みました。

 

〖一カ月後〗2015年5月~6月 52歳

◆まず初めにリバウンド症状が出てきたのは歯茎の《歯肉炎》でした。丁度歯科治療を終えた直後で、治療をした歯の歯根から何とも言えない臭い膿が出てきました。左の首のリンパ腺が腫れて歯や歯茎が痛むこともあり、だらだらと5カ月以上も続きましたがそれがなくなってから歯茎の状態がとてもよくなり口臭も気にならなくなりました。歯がぐらぐらしていたのも治ってきました。

◆同じころから《首の後ろにアトピーっぽい赤味》があると鍼灸師さんに言われ少し痒みもあったのですが、これは一週間もしないうちになくなり本格的なクラススイッチとはいえないものでした。

◆他にも《鼻の穴の下が荒れてヒリヒリ》したり《鼻の奥にデキモノ》ができて瘡蓋になり剥がれ、またデキモノができるという繰り返しがありました。これは約8カ月でほぼ治りました。今でもごくたまにそのようなことがありますが、初めの頃のような酷い瘡蓋にはなりません。

◆そして《胸骨中心付近に痛み》が強く出て心臓が悪いのかと少し心配しましたが血圧も問題なく糖尿病もないのでその心配はなくこれもヘルペスによる肋間神経痛と教えてもらいました。

◆またこの頃から《耳の中がもそもそ》して中に何かあるような感覚がありましたが綿棒で取ろうとしても何も出てきませんでした。両耳のこともあるがほとんど左耳でこの症状は、ゴロゴロ・ゾワゾワ・シャンシャン・ザーザーという耳鳴りの一種なのか感覚が少しずつ変わり、鼓膜に力を入れると痛みもあり症状が出たり治まったりしながら6~7年続きました。耳の中から何か液状のものが出ているような感覚がしたこともあります。現在は全くありません。

 

 

〖二カ月後〗2015年6月~7月 53歳

 ◆《顔にうっすらと赤みが出て痒みも出てきて》出たりひっこんだりしていました。うっすらとした赤味はほとんどわからないくらいで、鼻や頬のあたりの赤味が強く《蝶形紅斑》が出ていましたが、5カ月後の9月が一番赤味は酷くなり、徐々に薄くなり10カ月ほどで蝶形紅斑はなくなりました。口周りのざらつきと黒っぽさはまだ長くかかりました。

 

この頃、丁度長年飼っていた猫の具合が悪くなって死んだり、一人で暮らしている父親の状態が急に悪くなって夜中や朝早くに電話で呼び出され振り回されることが続いていました。父のことがあるにもかかわらず関節の痛みがあまり感じられなかったので聞いてみたところ仁幸医師は「自分でステロイドを出してるからや。」と即答でした。自分でステロイドを出すということを実感した瞬間でした。父については年齢を80(当時)と聞き「80歳やったらもうどうなってもええねん。そんなん気にせんでええねん。」と言われました。何てことを言うのかとその時は思ったのですが、なぜかその後とても気が楽になって、同じ状況でも気の持ちようだなと感じたのです。毎日のようにストレスを感じながら仕事に打ち込んできたけれど、心の持ち方をコントロールできていない自分を改めなければ完治できるものもできなくなると思いました。ヘルペスの値は180に上がっていました。

 

 

〖三カ月後〗2015年7月~8月

◆《起床時のこわばり》が強くなりました。

◆《足の指先がピリピリする》ことが出てきて、《足の裏の電気が走る痛み》も回数が増えてきました。

◆《手指・肘・手首の痛みも強く》なってきました。

◆《強い頭痛》や《目の奥の痛みやチカチカ》、

◆《のどの痛みがずっと続く》、

◆《倦怠感》など以前からあった症状が酷くなってきました。

 このように、リバウンドなのかと思われるような症状が出始めました。これらは、頻繁ではないけれど数年にわたって続き、なかなか治まりませんでした。現在は足裏の痛みは全くありません。倦怠感はこの頃夏休みに入り気持ちがホッとしたことで強くなったのではないかと思います。しかし、この4カ月後の11月には劇的に改善されました。10m小走りするだけで息が切れていたのが、300m~400mのジョギングができるくらいになっていました。

 

 

〖四カ月後〗2015年8月~9月

◆それまでも軽いものはありましたが、8月の末《強い目の痛みと充血》が出ました。目薬を差して治すものだという先入観があったのですが、何もせず目を洗うだけで過ごしました。左目から始まり右目も続き約1か月で治まりました。目薬を差さなくても治ることを実感しました。しかし目のリバウンドはこんなものではなく後に何度も苦しめられます。

◆《背中の筋肉をぎっくり腰のように痛め》ました。これも何度も今まであった症状です。この時は、背中の痛みと頭痛、発熱(37度台)が重なり夜に頭痛が酷くなり変な夢をたくさん見ました。3日ほどで治りましたが、治った後はとてもスッキリしたのを覚えています。

 

 

〖五カ月後〗2015年9月~10月

◆《胃の痛み》や夕食後に《腹が張って痛くなる》ことが増えました。《左脇腹の痛み》も出てこの頃《おならもよく出た》ように思います。おならに関しては、他の患者さんと仁幸医師の電話の会話で「腸で免疫がたたかってるからや。」と仁幸医師が話していたので、そういうことかと納得していました。

◆《口内炎》がのどの奥や舌にできました。1カ月ほどで治まりました。

 この頃から手足の痛みなどが弱くなってきたのもあってお灸の頻度が少なくなって毎日はしなくなりました。

 

 

〖六カ月後〗2015年10月~11月

◆《すぅーっと血の気が引いた》り、くらっと《めまい》のようになることが出てきました。《寝汗》をかくこともあったので更年期障害の症状なのだと思いました。

◆この頃から《切れ痔》になることが増えました。調子のよかった便が軟らかめになりました。この時は1カ月で治まりました。

◆《鼻血》も頻繁に出ていました。鼻をかんだ時にティッシュにつく感じが多かったです。

 

それまでになかった症状が出て、更年期障害との区別が必要でしたが、どちらにせよ薬に頼らず痛みにはお灸で対処しようという気持ちでいました。ヘルペスは180から110になって、少し気持ちが軽くなりました。しかし、値の高い低いで一喜一憂しなくてよいと教えていただきました。一度上がってから下がっていくもので心の状態にも関係があるのですから今思えば当然のことです。

 

 

〖七カ月~一年後〗2015年11月~2016年4月

◆もともとあった《右股関節痛》が強くなってきました。お灸で痛みのコントロールはできていましたが、酷くなったりましになったりの繰り返しでした。

◆7カ月目に《左目の痛み・腫れ・酷い充血》があり1カ月以上かかって治ったように見えましたがその後すぐに《右目が充血しだし痛み》も出ました。年末年始に痛みが特に酷く、《しょぼしょぼして見えにくい》状態が長く続きました。《両目ともに針で突き刺すようなピリピリした痛み》が出ました。12月に義父が亡くなって葬儀や法要があり、会館などの暖房の効いた乾燥した場所にいると、痛みが耐えがたいほどになり、涙や鼻水も出てくるほどでした。頭痛もあり、たまに外に出て症状を鎮める必要がありました。《ライトが眩しく、青紫の光がたまに見え》ました。ともかく我慢するしかなく耐え続けました。3学期が始まり数日出勤しましたが、染髪をしたからか、突然夜に眠れないほどの痛みが出て、《腫れて目が開けられなく》なってしまい数日仕事を休みました。よくなったり悪くなったりで充血がなくなるまでに3カ月かかり、その後もまた充血とましになる、をくり返しました。5カ月後にやっと少しずつ良くなり充血や痛みは出るものの、もやが晴れ視界がスッキリしてきました。しかし、この先もまだ充血・痛みはくり返されました。

◆《右股関節痛がじくじく・ズキズキと体の中から疼く》ような感覚が出て、夜に痛みで寝られない日がありました。この頃が一番痛みが酷かったように思います。

◆ずっと続いている、《のどの痛みも強くなっている》感じがしました。のどの痛みについては体育教師をしていて大声を出すので、そのせいだとずっと思っていたのですが、55歳から支援学級担当になり大声を出さなくても痛いので、声を出すことに関係なく炎症が続いていたのだとわかりました。

 

この頃に、アシクロビルを倍の20錠に増量しました。薬浴は週2回を続けていました。

 

 

〖一年後~二年後〗2016年4月~2017年4月 54歳

◆1年以上過ぎたころから、《発熱》することが増えてきました。後で確認してみるとどうやら髪を染めた後に発熱が3回あり、これは染髪料のせいだと思いました。《目の充血》も染髪の後に起こっていたこともありました。そして、《鍼灸をしたあとに体のだるさが強くなり》、鍼灸後に帰宅するまでにも息絶え絶えになったこともあります。鍼灸師さんには、発熱があるかもと言われていたので、体の状態が少しずつ変わってきたのだと思いました。《鍼灸後の発熱》は38度台まで上がり、翌日の朝には36度台に下がっているような発熱ですが、関節の痛みや嘔吐、のどから血が出たりすることもありました。解熱剤を飲まずに、耐えて回復したら、薬を飲んで治していた以前に比べて、心身ともにスッキリとした感じがして気持ちがいいとさえ思いました。

◆《胃痛》がよく出てきました。漢方薬も出してもらったこともありました。

◆今まではあまりなかった《下痢》などの腸の症状が出てきました。

◆首やおなかに《アトピーが少しでき》て3週間ほどでおさまりました。

◆就寝時に特に《左耳の拍動が強く》なり、《心臓も鼓動が強い》ような感覚や《脈がとぶ》事があり、この時はさすがに怖くなってリバウンドと思っていいのかどうか悩みました。しかし、ここまでの酷い状況は、この時期の短い期間だけだったので、何とか我慢できました。

◆前年と同じく2016年の年末から翌年4月にかけて、《目の充血と痛み》がまた出てなかなか治まらなかったのですが、2017年4月の末になりやっと目が見えやすくなっていきました。充血しても目を洗えば比較的はやく充血が薄くなるようになってきました。《飛蚊症》はまだ強かったです。

 

この1年間が一番リバウンドの強い時期だったのではないかと思いますが、もともとあった関節の痛みの症状も強く出ることがあり、冬場は起床時にこわばりが強くなっていました。体重も治療前の時から2~3kgまた減っていました。体重の減少は、体内で異物と闘っているのでエネルギーが必要なためと教えてもらい、痛みは自分の免疫が闘ってくれているからという事とともに良いことだと思うことが出来ていたので、不安にならず乗り越えることが出来ました。

 

 

〖二年後~三年後〗2017年4月~2018年4月   55歳

2017年4月から体育から支援学級の担当に変わりました。教室内だけの授業になり、春の砂ぼこりや、夏の暑さや日差し、冬の寒さや寒風に体を酷使することなく過ごせ自然環境からの体へのストレスが減りました。新たな仕事内容の研修が多くなり忙しさは同じようにありましたが、気持ち的には少し楽になりました。

 

◆このころから《唇がぶよぶよ》し、見た目はわからないですが感触が変わってきました。

◆《のどの続いている痛みが強く》なりました。

◆《飛蚊症はとても多く》なっていましたが、かすみが薄れスッキリと見えるようになってきました。しかし、また年末から年始にかけて強い痛みが左目から始まり右目になりその後《両目とも酷い充血と痛み》があり、2018年1月、3学期の初めには出勤したり休んだりが続き、1月末から約2週間病気休暇をとりました。医院には診断書を書いて送っていただきました。痛みは《目を刺されるような痛みや目の表面や瞼の淵がピリピリし、眉間やこめかみがズーンと重くズキズキとした痛みが続き》夜中に寝られなくて起きてしまうくらいでした。涙の成分の目薬は出してもらい差していましたが、《一度炎症が起これば何もきかず、瞼も腫れ、頭痛も伴い、目も開けられない状態なので、寝たまま耐える》しかありませんでした。二週間後少し楽になり仕事に戻りましたが、前年と同じように4月頃まで繰り返し充血や痛みは続きました。

 この後も何度も充血・痛みは繰り返しありましたが、治療開始から8年経った今現在は、1年半以上酷い充血はなく、痛みで困るほどにはなりません。ドライアイの状態が改善されて目を酷使しても、以前のように痛くなりました。飛蚊症がまだ残っていますが、視界はとてもクリーンで、夜でもしっかりと見えるしこの時できついリバウンドは終わったと思っています。寒い時季に、様々な症状が酷くなるのは、冷えと乾燥が大きな原因だと思い寒さや乾燥から身を守るように気を付けました。

〖三年後~~現在八年四カ月後〗2018年4月~~現在2023年8月 56歳~61歳

 2018年4月、最後の赴任校となる学校に転勤しました。ここでも特別支援学級の担任として、障がいの大きな生徒の担当となりました。今まで務めた学校とは地域の特徴が違い、授業中の生徒たちは熱心に学習に取り組む様子がみられ、落ち着いて過ごせていました。

しかし、校風や校外の対応などで戸惑うことも多くしばらくは慣れない期間がありました。

◆2018年9月(56歳)を過ぎたころから《おなかの調子が悪くなり》ました。《便が緩くなり》いつも形のない便が出ていました。それまでは、快便だったので、今考えるとこれもリバウンドだったのでしょう。3年ほど続きましたが今は治っています。

◆2019年1月インフルエンザにかかりました。この頃から顔や《皮膚の色が黄色味がかっている》ようで気になりました。血液検査でも尿検査でも数値に悪いものはなく、気のせいと夫にも言われましたが、やはり今までの自分の肌の色ではない気がしました。加齢のせいなのかと思いはじめ1年半後には気にならない程度にもどりました。

 

2019年4月末で仁幸医師が有史医師に院長を引き継ぎ、新たに自由診療の松本漢方クリニックを開院されました。有史医師の診察も受けつつ、仁幸医師のクリニックに通いました。鍼灸は不調が続く時期は週一回、落ち着くと2週間に一回に戻しました。薬浴は週に一回に減らしました。アシクロビルも20錠から10錠に戻し、2023年5月からは5錠にしています。ビタミンCを追加しましたがこれも今は当初の3分の1の量です。

この頃から、それまで細かくつけていた症状のメモを書かなくなりました。症状が激しくなくなってきたというのが一番おおきな理由です。そして日々の症状の細かい変化を気にしないほうがいいのかもと思い始めたのもあります。ゆったりした気持ちで自分の免疫を信じて過ごせば時間はかかっても治ると確信したのです。仁幸医師には「諦めることの大切さ」や「人の幸せを自分のことと思える気持ちを持つこと」など、心の在り方も教わりましたが、初めはなかなか好転するまでに時間もかかり、内心不安な部分もあって日々自分がどうだったのか確認したかったのです。これは初期の頃の自分にとっては必要なことだったと思っています。手記を書く気持ちはずっとあったので、その行動はこの手記を書くのに役に立っています。

 

◆2019年の8月(57歳)《胃の痛みが強く長く続いた》ので胃カメラ検査をしました。ポリープはあったものの特に問題なしのためエコー検査をし、胆のうに小さな石があるがたいしたものではないと言われ、念のため初めての大腸検査もしました。結果は感染性腸炎で、検査が終われば痛みは消えました。

 

2020年3月から、所謂コロナ渦が始まり、今までにない世間の状況になりました。初めは感染を怖がっていたのですが、この時期にも様々な話題の核心を仁幸医師に教えていただき、今までも聞いて疑っていたわけではないけれど、次々と証明されることになり、より信頼感が増しました。自分でもいろいろと調べ、少しは物の本質を分かるようになってきたので講義を聞きに行く気分になって通院していました。また有史医師からも食事や生活面のアプローチからの話をしていただき、お二人の治療方針を自分なりにミックスして、自分が作った病気を自分の生活面も改善しながら治療でき完治まであと少しと感じます。

 

 【●治療開始時にあった自覚症状◆リバウンドが現在はどのようになっているか】

●倦怠感が強い 朝なかなか起き上がれない

まったくなし、朝スッキリ起きられる 疲れても寝れば治る

●起床時に(うたた寝でも)手足がこわばる

ほぼなし 冷えすぎたときや食事など生活習慣が乱れているとたまに出る  

朝起きた直後は足首が固まり踵でしばらく歩いていた⇒なし

●手指関節、手首、肘、肩、上腕三頭筋の痛み 手指の腫れあり握れない 握力がない

 ⇒関節の痛みは、かるいものがたまにあるがほぼすぐ治る しっかり握れる

●腕が上にあげられない(五十肩)⇒とてもよく上がる。肩関節が柔らかくなった

●右股関節の痛みが強い そこからの影響で太もも、尻、膝、脛、ふくらはぎ、

足首、かかとの痛み 左股関節もたまに痛む

右の股関節の痛みはまだある 自分でお灸やストレッチをして改善できる

●歩いているときに足の裏に電気が走るような痛みが頻繁にある⇒まったくなし 

●ふくらはぎ、足指が時々つる。⇒まったくなし

●首が凝り、固まっていて真上が向けない 頬杖姿勢などで首が固まる⇒まったくなし

●腰痛 ⇒姿勢などによって痛むことがある

●肩甲骨の間、胸骨付近の痛み、違和感⇒まったくなし このおかげでとても気分がよい

●両目の強膜炎 片方ずつや交互に充血し、痛みが強く腫れることもある

 両目同時になることもあった 屋外で眩しく感じる 飛蚊症 眼が見えにくい

 ⇒強い充血・痛みはなし 眩しさなし スッキリ見える 飛蚊症はまだ少しある

●目がチカチカするとその後視野が欠けその後頭痛(閃輝暗点)⇒まったくなし

●瞼の痙攣⇒まったくなし   

●頭痛⇒以前の頭痛とは違う、こめかみからくるような頭痛がたまにある

●軽い蝶形紅斑⇒きれいになくなった

●口の周りが黒ずんでザラザラしていた⇒黒ずみはなし ザラザラはたまに感じる

●時々キーンという感じの耳鳴り、難聴⇒難聴はなし 耳鳴りはごくごくたまにあり

●歯茎の腫れ、歯のぐらつき、口臭、口内炎⇒一旦よくなったが、噛みしめる癖があり歯が割れて治療をしていたので、現在はまた歯茎の腫れが少し出ている もう治療はしないでおこうかと考えているところ

●喉がずっと痛い 唾が飲み込みにくい⇒唾は飲み込める のどの痛みは少し残っている●胃痛⇒よほどのことがない限り胃を気にすることがない

●ふらつきがある バランスがとれず体が傾くことがある⇒ほぼなし

●時々切れ痔⇒極たまにあり ●あちこちの筋肉痛⇒筋痛症はまだあるが上半身にはなし 

●腹痛(食後に張ることが多い)⇒たまにある

●心臓の違和感、脈がたまにとぶ⇒まったくなし

●体重が半年で4kg減った⇒2kg戻った もっと多い時は4kg戻った時期もあり

 

◆鼻の中のデキモノ、鼻の下の荒れ⇒なし

◆鍼灸後、染髪後の発熱⇒なし  体調不良の発熱も出てもすぐ下がる

◆耳の中の違和感、拍動、痛み⇒まったくなし 長くあったのでなくなって気分がいい

◆足の指先のピリピリ⇒たまにあり

◆背中のぎっくり⇒背中の筋肉全体が柔軟になりほぼなし

◆続く鼻血⇒なし 必要に応じてはある(解毒作用)

◆続く軟便・下痢⇒なし 必要に応じてはある

◆唇のぶよぶよ⇒程度は弱くなったがまだある

◆アトピーのような皮膚の赤味、痒み

狭い範囲の赤味や弱い痒みが出ることがたまにある   今までに数回、顔、首、腕の内側、背中、脛、腹などに何度かせまい範囲で出て1・2週間で消えた

 

これ以外にも、

◇腎臓の値が少し悪くなっていることが有史医師から指摘されて心配していましたが、現在はよくなっています。

◇単純ヘルペスの抗体の値は、最高180まで上がり、現在は37になっています。

他にも、忘れていることもあると思いますが年々体調はよくなっています。現在は仕事も退職したため気持ちにゆとりもでき、これからまた新たなリバウンドが出てくるかもしれません。今回、過去の症状を振り返ってみて、クラススイッチは酷いアトピーがつきもので自分にはまだ来ていないと思っていましたが、少しずつはアトピーも出ていたので、あと少しで完治するという思いがより強くなりました。

 

 

 手記を書くのが遅くなり、大変申し訳ありませんでした。自分にとっても治療のこと以外の「人生を振り返る」と言えば大げさかもしれませんが、それくらいの気持ちで書かせていただきました。治療初期の頃に多くの患者さんの手記と仁幸医師のコメントに勇気づけられ自分は治療を続けられたので、この手記もどなたかの参考になれば嬉しく思います。うまくまとめられず長くなってしまいましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。