「リウマチ性多発筋痛症 間質性肺炎手記」
匿名希望 65 歳2013 年 6 月 23 日
匿名希望 65 歳2013 年 6 月 23 日
「間質性肺炎は治る」
間質性肺炎と京大病院への疑問
他リウマチ性多発筋痛症
タイトルは間質性肺炎が主となっていますが、実は私が松本漢方クリニックを知り 2012年 11 月 2 に初めて治療に訪れたのはリウマチ性多発筋痛症でした。しかし図らずも松本漢方クリニックで京大病院で経過観察中だった間質性肺炎も後から診てもらう事になり、又私自身苦しみに苦しんだリウマチ性多発筋痛症よりもっと怖い思いをし、患者様の手記には間質性肺炎の手記は全く載っていず、リウマチ性多発筋痛症は沢山の手記が有り代弁されていると思われ、また京大病院で受けた間質性肺炎の手術検査に疑問を感じていたのでタイトルをこの様にしました。
松本漢方クリニックで治療を受けられているリウマチ性多発筋痛症を患われた患者様の手記でも書かれていますが、私も、発症した時から同じようにその恐ろしい痛みと苦痛に襲われ、そして医師から一生治らないと絶望的で無慈悲な宣告を受け、そのショックと絶望で人生観は悲惨なものに一変していました。しかし私は、其の時も京大病院の経過観察中だった間質性肺炎に、もっと深刻で不安な思いを抱いていました。
間質性肺炎が見つかったのは四年余り前になり京大病院で検査を受け、その後今日まで経過観察を受けていました。私の程度では症状も苦しさも全く無くリウマチ性多発筋痛症の様な痛みが有る分けでも無く病気は無い様なものでしたが、診てもらっていた京大病院の病気に対する説明からでは、此の病気に対して漠然とした強い不安が残り、気持ちの整理が着かず、ずっと身体に魔物を抱えた様な不安を抱いていました。なにが不安かと言えば肺の方は悪くなれば死に直結し、死な無いまでも病気が進むだけでも悲惨だからです。リウマチの方も(松本漢方クリニックに来る前に行っていた京大病院からの診療所ではリウマチ性多発筋痛症とは言われずリウマチと言われていた)関節の癒着や寝たきりや一生治らず薬で抑えるのだと言うような説明を受けた時のショックと絶望は大変なものでしたが、肺の方がやはり怖かったのです。リウマチ性多発筋痛症を患って苦しんでいても、私の中では第一に間質性肺炎が念頭にありました。医者に掛かる時は、間質性肺炎に悪影響があってはいけないと思い間質性肺炎の有る事を先ず言ってきました。
悲惨で怖く不気味な病気だと思っていたので口にするのも怖く、人には言うのも恥ずかしく、医者の事前調書に書き込むのも恥ずかしくて書きにくいものでしたが、治療の悪影響を受けてはいけないから医者にだけは言ってきました、その様な心理状態でした。勿論、松本先生にリウマチ性多発筋痛症の治療を受ける時、事前調書にも書き込み、先生にも言いました。
この様なわけで、松本漢方クリニックの初診の時、血液検査で間質性肺炎の状態を確認する為、間質性肺炎を調べる KL-6 値も調べられました。私は、間質性肺炎が松本漢方クリニックの治療の範囲に入りそして治療が行われているとは認識していませんでした。しかし皆さん読んでおられる松本先生の論説の中で、間質性肺炎ついて少し触れておれ、リウマチの治療と間質性肺炎の治療が同じと読めるところがありました。そうした事から間質性肺炎にも効果が期待されると、漠然とした感じが有った様に思いますが、あえて治療をお願いしていませんでしたので、検査はリウマチ性多発筋痛症との兼ね合いで知っておく為の一応の検査位に思っていました。検査は初診の時と期間を置いてもう一度行はれ、検査の結果、間質性肺炎を示す KL-6 数値はどちらも基準値以下でした。それで先生は間質性肺炎を無しとされ、以後検査は打ち切られました。
しかし私には気になる事が有りました。松本漢方クリニックに来る直前まで、京大病院から経過観察をしてもらっている診療所で一ヶ月余りですが、リウマチ性多発筋痛症の治療をしていましたが、ブレゾニン(ステロイド)が使われていました。ステロイドは松本先生の理論で学んだ通り、見せ掛けの効果と止めればリバウンドする薬です。そして一般医療では間質性肺炎にも使われる薬です。勿論、松本漢方クリニックでは使ってはならない薬として一切使われません。(知っているなら何故ブレゾニン(ステロイド)を飲んでいたのかと言う事になりますがステロイド等免疫抑制剤の害は松本漢方クリニックを知って以後短期により明確化したのです)
松本漢方クリニックに来る前の診療所でリウマチ性多発筋痛症の治療を始めるに当たり間質性肺炎の状態を見るため2回の KL-6 数値が調べられ、その結果それ程高くは無いでしたがはっきりとして基準値以上だったのです。2回目は既にブレゾニン(ステロイド)を飲んでいた為に1回目の数値より少し下がっていました。以後 KL-6 の検査は無く一ヶ月程が経ち松本漢方クリニックで又行ったわけです。
松本漢方クリニックでのこの検査の結果やはり基準値以下つまり正常値になっていました。此れは松本漢方クリニックに替わるまで診療所で飲んだブレゾニン(ステロイド)が効いたせいだと言う気がしました。そして2回目の検査の数値がほんのわずか上がっていた事も気になりました。これはリバウンドしていて間質性肺炎が治っているわけではなく放っておくことができないと言う気がしていました。
正常値でもありその時はリウマチ性多発筋痛症も一番きつい時でしたので言いませんでしたが、其のまま放っておくことは絶対できませんでした。
二ヶ月程してから松本先生に再度検査して貰う様にお願いし、良く引き受けてもらいました。間質性肺炎の治療はリウマチ性多発筋痛症の治療の継続だけでそれを継続する事が治療で何か治療が変わった分けではありませんでした。
後は KL-6 の血液検査で経過を見ていくと言うものでした。血液検査の結果は大幅ではありませんでしたがやはり完全に基準値以上に上がっていました。完全にリバウンドしていました。私は、リウマチ性多発筋痛症の治療の煎じ薬、鍼灸を今までより落ち度の無い様に行いました。自分善がりですが、特に背中によく鍼灸をしました。肺と背中は近いから効く様に思ったのです。結果は二回目の血液検査の KL-6 値が下がっていたのです。正常値すれすれでした。喜びは大変なものでした。これで下がってき正常値になるのだと思っていました。
しかし三回目の血液検査では又しても上がっていました。検査の無かった二ヶ月余の間の推移から今の此の推移の意味を考え様にも不明ですから其の術もありません。ただもうリウマチ性多発筋痛症の治療の継続を落ち度の無い様に行うだけでした。
そして四回目の血液検査をまつばかりでした。四回目の血液検査の結果は驚きでした少しばかりでは無い鮮やかに余裕の幅を持って正常値になっていたのです。KL-6 の検査が打ち切られ再度測られるまでの空白は分かりませんが結局のところ上下しながらも下がっていて正常値になったのだと考えられました。
正常値だと言う事は間質性肺炎が無いと言うことです。ステロイド等免疫抑制剤により一時的に正常値に戻ったのではありません、松本先生の理論の通り、私自身の免疫により正常値に戻ったのです、完治したのです。あれほど見通しがなく不安だった間質性肺炎から開放されたのです。
私は、松本漢方クリニックで間質性肺炎の治療をし、松本先生の理論を読んで間質性肺炎の正体を知りました。IG -G から IG-E へのラススイッチで治癒していくプロセスはリウマチ性多発筋痛症等の膠原病と間質性肺炎も同じだったのです、間質性肺炎も同じ膠原病だったのです。京大病院で原因が説明されなかった訳も、私が、不気味な不安を持ち続けなければならなかった訳も分かりました。それはリウマチ等膠原病が原因不明とされているのと同じ理由で間質性肺炎も原因不明とされているので当然、原因の説明はできないのです、又、治す方法が分からないから当然、患者から不安も除く事はできなかったのです。更に言うならリウマチが一生治らないとか一生薬で抑えていけくだけると患者の気持ちもはばからずに言われるのは、リウマチは直接命に関らないし直ぐには死なないからです、間質性肺炎には直接的にそう言われないのは直接命に関る臓器に起こっていて死ぬかも知れないから言いにくいいのです、しかし怖い病気ですとか、進行するとか進行せずに済むかも知れないとか、早い場合は日単位や週単位や月単位で進行するとかは言われ、レントゲンや CT や肺機能検査や派生する病気の為とかで MRI やそう言った検査が終りなく続き患者が終わることの無い不安を抱くのです。
しかし松本病院ではこれ等の病気の原因が解明されていて、完治します。松本漢方クリニックの、免疫を高める治療は病気が確実に治っていきます、その回復感の故に、他の病院で一生治らないと言われていたにも関らず治ることが当たり前に思う様になり、返って治癒の速度に不満を持ったりする皮肉が起こらないとも限らない程です。勿論、他の病院で薬害を受けた程度や病気の程度にも因るでしょうが基本的には治癒していく事に変わりないと思います。免疫が病気を治す、此の本筋を反れて病気を治す事はできません。命にロボットを代わりにすることができないのと同じです。松本先生の理論は美しく真実で命の理論だと思います。
松本漢方クリニックの治療を受けて 5 ヶ月余りが経ち、間質性肺炎は消えてしまい、床や畳に座れば絶対に起き上がれず椅子やベッドでさえ大変でしたリウマチ性多発筋痛症も 3 ヶ月程で日常生活を普通に近く送れ、5 ヶ月余り今、完治を目前にしています。これ等の事実を正確に表しているのはやはり血液検査です、以下は其の血液検査の結果です。
此の後に、手記の全体の半分であると言える京大病院で受けた検査手術の経と一般治療の治らないリウマチ性多発筋痛症の治療を受けた事を「京大病院と診療所」のタイトルで載せたいと思います。
先ず言っておきたいと思いすが、此の全体の半分と言える手記を書いた後、いささかプライベートで情念的で人様に見せるべき物で無いと恥ずかしくなりました。しかし載せる事にしました。なぜなら、書いた手記は事実にすぎないのだし、この手術の必要性に付いての疑問が手記の大きな内容の一つなので、以下の理由で、短い言葉で片付けるより大きく載せても当然と思ったからです。
その理由は、此の手術をしてもその後に、治療があるとは思えないことです。
リウマチ等膠原病と同じ見せ掛けの改善とリバウンドを繰返し病気が其のたびごとに悪くなるステロイド等免疫抑制剤が使われるだけなのです。だとすれば手術は不必要だったのです。何の意味も目的も無い手術が行はれた事になります。無駄な手術でも何も害が無ければ見過ごせるかもしれません。しかし後遺症が残ったのです。感触が残り、やや激しい運動をするとアコーデオンの蛇腹を使う様に意識的な呼吸が必要になり、痰も出るようになりました。勿論、取り出された、医師から説明されて知った小さめの餃子二個分程の肺細胞が減少したのは言うに及びません。同じ炎症があるとされていた手術しなかった右側肺は何の感触も無く幾ら激しい運動をしても意識して呼吸するなどと言う事は無く軽快そのものです。勿論、痰も出ません。リウマチ性多発筋痛症に付いても、やはりやってはならない治療が行われた現場なのですから触れずにはおかれませんでした。
京大病院と診療所
四年余前の 2009 年でした。J 市の嘱託職員として勤めていました。その職員の健康診断で肺に影があると言われました。肺は命に関る臓器だけにショックでした。周囲からも健康診断の結果を重く見る響きが取囲んでいました。仕事中、診断用紙が私の事務机に届き、其の日の内に総務だったか庶務だったかから私宛に電話が有り、私はその様な課から電話を貰う覚えは無いと不吉な予感がしました。予感は当たっていました。診断用紙届きましたでしょうかで始まり箇所が肺ですので出来るだけ早く病院で精密検査を受けて下さいとの勧めでした。
私は、医療が進んでいてよく診てくれるだろうと思う京大病院なら良いだろうと選びました。明くる日、有休を取り早速、京大病院に行きました。初診は胸部レントゲン、肺機能検査、医師の診察でした。肺機能検査での肺活量は 4600有りました。高校生の体育の時間に測られた時は 4200 と記憶していたので此の年齢になって更に増えている事になり驚きでした。此の初診の担当のTZ医師は胸部レントゲンを見、聴診器で診察し、そしてパソコンと向き合いながら、住居の変化等身の回りの変化や、鳥とよく接していないか、漢方薬を飲んでいないか、他何か薬を飲んでいないか等、立て続けに質問をぶつけられました。
そしてその間何回も「大丈夫でしょう」と呟く様に私に向け言葉を差し挟さまれました。告げられた診断は間質性肺炎、肺繊維症だとの事でした。私は、職場での健康診断で両肺の下部に影と言う内容を見たときから癌なら両肺同じなどと言う事は有り得ないと思っていたので、やはり合っていたと思い差当り安心しました。そして当然に治療と治る見通しが普通に話されるだろうと思いましたが、そうではなく最後まで治療や治る見通しの話は有りませんでした。
肺繊維症と言う言葉も何か不気味で、不安がつのりました。間質性肺炎専門の担当医に回しますと言われ、其処で CT を撮れば病気がはっきりすると言われ何週間か先の予定日を言われ此の日の診察は終わりました。私は、肺ガンで無かった事で一応安心感を引きずって、帰りの途中少し意を得た様な気持ちで、携帯電話から妻に連絡しました。間質性肺炎と聞きなれない病名に二人は戸惑いながら話し、ネットで調べれば分かるわねと妻は言いました。電話を切った後しばらくして妻から携帯電話に電話が有りネットで調べた結果をきかされ、私は、楽観して良いのか分からなくなりました。
家に帰り、あらためてネットで調べて全てが暗転してしまいました。其処には希望も何も無い奈落へ向かって進んで行く様な深刻な事ばかりが有ったのです。不吉に胸騒ぎが起こり、徐々に絶望が身体の隅々に行渡って行きました。
何処にも絶望からの抜け道は見出せず、ただ希望を見出すとすれば、数週間先の CT 撮影の結果を待つ事でしたが、すでに病名を告げられている以上、頼りない気休めみたいなものでした。
この日以降、地に足の付かない不安と焦りが続き、ネットで病気は進行性だと書かれていたので、兄から、数週間先になる CT 撮影で良いのか何か可笑しいのではないかと言われました。私も、胸部の中が日に日に悪くなっていく様な気になりました。この情況を医師に相談したかったですが、離れれば、あの巨大な京大病院に取り付く島もなく、其の医師も見ず知らずの簡単に声のかけられない赤の他人の様に思え、選んだ病院が間違っていたのでは無いかと思う程でした。しかし私は数日後、診察の医師に電話してみました。超一流で巨大な京大病院の医師の多忙な勤務の中を呼び出して相手にしてもらえるのか気後れしました。まさか患者の相談を冷たく突き放す事など出来ないのは当たり前で、話は快く受け入れられTZ医師は親身に話し、ネットの情報は病気の悪い部分ばかりが書かれているのだと思いますとの返答で、私は一安心したが、私の状態がどの様なのか自分では分からない不安は残りました。TZ 医師は、(病状が)苦しい様だったら何時でも連絡して下さいと言われました。
最初の診断以降、私は毎日の様に時間を見つけてウォーキングやジョギングを交えたり短距離を全速力で走り呼吸の状態を観察しました。全く異常は感じず、全速力での走りの後の呼吸数の高まりと素早い沈静が快く感じられ、俺は何処が如何悪いのだと自問しました。しかし其の後、悪い病気とはこう言うものなのだ、知らぬ間に進行し、放置した為に取り返しの付かない事になるのだと言う思いが返ってきました。そしてガンを例に考え、ガンは痛くも痒くも無いのだ、然し気付いた時はもう手遅れなのだと。結局はこうして不安が拭い去れない落ち着かない日々が続きました。そして CT 撮影の結果を聞く日、間質性肺炎の専門医の HD 医師と初めて会いました。私は、病気は無かったと言う結果が出るのではないかと言う思い込みもありました。
しかし残念な事にそうはなりませんでした。間質性肺炎だと告げられました。
ネットには恐ろしい事が書き連ねられていましたが、それでも治る治療方が言われるものと思っていました。何よりガンで無いとの安心みたいなものが有り、妻もその様に思っていたのだと思います。妻には付き添って貰っていて傍に居ました「主人がネットを見て偉く落ち込みましてね」と気持ち緩めた感じでHD医師に妻が言いました。「実際、怖い病気なのですよ」口数の少なそうなHD医師のやや小さめの声で冷たく怖い返事がただ一言返ってきただけでした。
妻の顔は一瞬にして表情が変りました。勿論、言うに及ばず不気味な怖さが私の胸を貫きました。
さらにショックで異常を思いもせず考えもしなかったとても受け入れがたい話が続きました。今後の処置として肺の内視鏡検査を行い原因の特定真菌やウイルス等が見つからなければ更に、肺組織を取り出す手術を行う事になると言われました。HD 医師の年が若く見えましたので、この様な判断をされて大丈夫かと思いました。手術は空孔手術と言うもので胸に穴をあけ手術道具を入れて行うと言うものでした。昔は胸を開いて手術していたとの事、しかし空孔手術でも大手術だと思いました。私は別の世界に居る様な気持ちになりました。
一転して診察室が無機質で死の表情に変りました。私は身体が何処も悪く無い感じでいましたので大手術の宣告との野狭間で心に解決のつかないしこりが生じました。
この検査は生体検査と呼ばれ、特発性間質肺炎であるか調べるものだと言われました。特発性間質肺炎こそがネットに出ていた怖い病気でした、生存率 5年以内、それ以上でも長くは無く、これと言った治療法が無く、ステロイドが使われるが一時的に症状が治まるが又再発を繰返し死へと繋がって行くと言うものでした。私がステロイドと言う薬名を知ったのは此れが初めてでした。そして私は此の時、ステロイドに特発性間質肺炎の底知れない不気味さが重なり、同じく不気味でややこしい薬だと言うイメージを持ってしまいました。
此の時、先ずは肺内視鏡検査の承諾書にサインを確か求められました。これも受け入れがたい事でした。胃の内視鏡検査と分けが違う、私は今、息が苦しくも身体が弱っている分けでもない、肺に内視鏡を入れるなど健康な身体に重大な損傷を加えるに等しいと思いました。しかし目に見えない特発間質性肺炎の恐ろしさがありました。CT と言う超近代的なハイテック医療機器で、しかも世界にさえ誇る京大病院で病状を指摘されている。しかし此れも医師の傲慢な患者を無視した馬鹿馬鹿しい治療の遣り方だとして、ただただ自分の身体を信じ、せめて他の病院で此の検査で良いのか調べることも出来ました。
しかし私は弱い人間で、そうは出来ませんでした。承諾に戸惑ったが如何する事も出来ませんでした。検査を回避する方法は無いかなどの質問をした挙句、承諾しても検査は先で何時でもキャンセル出来ると考え承諾しました。その後、検査をキャンセルする事はありませんでした。他病院で診直すか誰か専門家に聞くかしなければキャンセルする理由が見つかりませんが、私は他病院を当たらなかったのだし、聞ける様な知識を持っている人も私の周囲にはいませんでした。肺内視鏡検査は夢ではありませんでした、日は刻々と迫ってきました。
漠然とした怖さがはっきりとし、覚悟を決める他ありませんでした。検査日は数日前から検査前入院がありましたが、12 月で冬であることもあり入院日直前に緊張とストレスの為か風邪気味になり、入院してからは休養が取れているにも関わらず返って風邪は進みました。検査が終わって退院した後、風邪は直ぐに治ったので、検査に対する緊張とストレスのため風邪になっていたと思います。
入院中は何人もの看護婦さんが頻繁に体の測定に来られ、それぞれの看護婦さんに、検査に頑張って耐えるように何度もはげまされ、それが、やはり普通の内視鏡検査で無いと言う事を表していて、ただただ覚悟するばかりでした。
検査は HD 医師と TZ 医師の二人で HD 医師が主でした。勿論、補助の看護婦さんも加わっていいました。検査は午後で、まだ病室に居る時、看護婦さんから、苦しみを和らげ、検査中に苦しみの為に暴れない様にする為の注射ですと説明を受けて注射されました。説明を受けたかも知れませんが私は何故か此の注射は筋弛緩剤だと思い続けています。此の注射の為に少し怖い思いをしました。車椅子に乗せられ検査室へ向か途中、注射が効いてくるのが分かりました。周囲の物全てが動かなくなりました。妙な言い方ですが静止している廊下の壁が動かなくなり、窓の向こうの木々の枝が風で揺れているのに静止していました。枝が揺れているのは思考上分かるだけの事でした。此の静止には底知れぬ圧迫感が有り、そしてそれを如何する事もできない無力感との異様さは永久に忘れられません。私たちと周囲との位置関係は常に動いています、自分が動けば周囲との位置関係が変わるからです。そうして動いていると言う事が生きていると言うことで、此の時、完全な静止は死だと言う強い印象と危機感が私を貫きました。
検査には耐えに耐えました。時間は二、三十分でした。恐ろしい時間で苦しみもしましたが、終わってしまえば何事も無かった様に終わり、嘔吐を伴う胃カメラ検査の方が苦しい様に思われました。しかし直接命に関りそして繊細な臓器の肺検査の方が怖いに決っています。そして後遺症も残る様に思います。
後日この検査結果を聞くときは本当に大変でした。検査の結果で原因が何も摑めなければ手術しなければならない。手に汗握り病院の前から足がすくみました。残念ながら原因は出ず、手術せざるを得ないと言う事になりました。
私が別の方法をと、どのような質問しても HD 医師の答えは変わらず、手術しなければ今後、病気が進行して来ればどのように治療すれば良いのか分からず闇雲に治療するしかないとの事でした。この最もな筋の通った説明を受け入れない分けにはいきませんでした。しかし松本漢方クリニックで治療して分かった事ですが、この筋の通った説明にこそ意味が無かった事が分かりました。なぜなら手術で何が分かろうと、病気を更に悪化させるステロイド等免疫抑制剤の使用しか後の治療方法が無かったのですから。一応、手術の承諾をその時でしなければなりませんでした。しかし手術だけは、その場で承諾することが出来ませんでした。再考すると言いました。
しかし私は家に帰ってからが、大変でした。気持ちは強く沈み込み其の状態では今後の生活に収拾が付かなくなってしまったのです。家庭内不和も起こりかけました。他病院で調べ直すか、で無ければ、解決は唯一つ手術を承諾する事でした。苦渋の決断をして、其の日に電話で承諾しました。私の承諾に対して HD 医師は「有難う」と言はれました。私は此れを個人的な立場を超えた命を守る医療の思想から言われた医師の崇高な思いからだと受け止めたが、しかし直ぐに反対の事を考えました。仕事の一貫として、個人の実績として、仕事を取り込めた事の、利己的な「有難う」ではないのかと。大学病院では研究対象としてマニュアル化されているのではないかとも思いました。私は強い侮辱感と怒りのやり場がありませんでした。しかし真意を知る由もありません。
手術は一ヶ月ほど先の年が明けて直ぐと言う事になり、それまでの間、手術の説明や承諾書のサインが有りました。仕事は仕事納めの 28 日まで勤めました。
手術が数日後に控える前入院は 1 月 5 日だったので年が明けた意味は大きいでした。覚悟と諦めが交叉し鉄の重しを負った正月でした。入った病室の病棟は、臓器移植の病棟で、目にしたものは驚きでした。臓器移植は、時々ニュースになっている数程度のものだと思っていましたが、此処で日常茶飯時の様におこなわれていると言うことを知りました。
病室は臓器移植患者の入院で溢れていました。生体検査も臓器手術なので同じ病棟でした。病室には本当に気の毒な大きな臓器移植手術を待つ患者さんもおられましたが、生体検査でもやはり内臓に手を掛ける手術だなと思う事がありました。私の隣のベッドに病人の様な感じのしない普通の青年が新に入って来て、数人の医師に取囲まれ話が行なわれました。聞こえて来る話では胆道か何かその様な病気の生体検査の様で、その様な病気も生体検査されるのかと思いました。後日生体検査から帰ってきた青年は苦痛を訴え完全な病人になっておられました。
最終的な、手術の説明と承諾の確認がありました。夜遅く HZ 医師ともう一人の二人により、控え室で説明を受けました。その中で、手術で取る組織が小さめの餃子二個程の量と言われました。肺が悪いのに更に肺組織が取られるのはショックで不本意を訴えました。それに対しもう一人に強く反論され、私も言い分を言いました。超有名病院で、命にも関る大きな手術を受けようとている患者に悪く強い口調で言い込める事が通用している事が驚きでした。私は喧嘩しようかと思うほどでしたが今にも危ない病人になっていましたから勇気もなく顔色にも余り出しませんでした。しばらくして二人は隣の一室の様な所へ退き何か話し合っている様で会話が洩れてきました。
「此の患者何処から来とんねん」京都の方言言葉で、偉そうな、其の手の人のような口調で主治医である HZ 医師に聞いているもう一人の声が聞こえ、勿論私は侮辱を感じ、先程の事も含め蒸し返し決着させたい強い憤りを覚えたが勇気も力も無く、この様な男に検査か手術の補助を任せてよいものかと思ったり、此処で事を起こせば手術にも悪い影響を及ぼすかもしれないと思ったりし、ちょっとした口の悪さに過ぎない、超有名病院の聖なる医療の場で不正が行われる筈がないと自分に好い様に思い込ませ、このまま何事も無く行けば正常に手術は行われるのだとして、唯々時間の経つのを待ちました。
その後二人が戻り少し用件が続き、そして何事も無く丁寧に別れる形になりました。その後、明くる日だったか二日後だったかに手術がありました。手術は怖さの覚悟も麻痺し運を天に任せるより他ありませんでした。今の麻酔技術は進んでいて手術そのものは眠って行われたのと同じで全く分かりませんでした。手術室の出た所には入った時と同じく妻と娘がいてくれました。寝台が止められ笑顔で喜んでくれる妻と娘に面会しました。
私は身動き一つとれない身体になっていましたが案外気はしっかり戻っていて大丈夫だと言う風に退ける様な態度をとってしまいました。手術は夕方遅くから夜にかけての時間でしたから手術の後、何処かの一室に連れて行かれ其処での夜が明けるまで暗闇の中が大変でした。自分の状態が読み取れません、左の背中から胸の横に鈍痛が有り身体に穴を開けられ傷口が処置されているのだけはわかりました。眠ることもできず宇宙の何処かに吊るされた様に暗闇の中を唯々鈍痛に耐えました。頼りになるのは時間刻みで様子を見にこられる看護婦さんでした。この看護婦さんの様子見が無ければ闇の中、耐えられないものでした。夜が明けると夜の暗闇の中何処に居るのか分かりませんでしたが、やはり一つの病室にいたのです。
身体には管が取り巻いていました。胸の横あたりに体内に一本差し込まれ他に点滴管と尿出しの管でした。此の上強い鈍痛が伴っていたのだから身動きができず、宇宙の何処かの闇の中に宙吊りなっている様だった事がよく分かりました。昼間担当の看護婦さんが来られ、具合を聞かれ、此の後の予定を聞かされました。昼前、手術をされた外科医師が様子を見に来られました。身体の中に差し込まれた体内の出血や体汁を抜くチューブを抜く話になりました。
チューブは出てきた出血等の量を見て普通最低一日そのままするとの事でしたが、私の場合、今抜くと話が進みました。出来るなら身体を自由にした方がびっくりするほど回復がよくなるとの事でした。「○○さんの身体は全く何処も悪くないからね、麻酔もはっきり醒められましたからね、全く健康体だから、もう抜いてしまお、ちょっと早いがそれの方が良いわ、しかしあそこは内科に聞いてャ」と最後を京都の地弁で言われました。「内科に聞いてャ」との言い方を皮肉に感じました。手術の動機が皮肉られているように思いました。手術の必要性を疑いました。そして何処も悪くないのに肺だけが悪くなるのか、ややこしい病気だとも思いました。身体に取り付けられたチューブ類は全て取り外され、午後には、私は全く自由な身体になっていました。
手術から数日後退院しました。後日生体検査の結果を聞きに行くのが大変でした。肺カメラの結果を聞きに行く時以上に足はすくみました。結果は特発性間質肺炎では無く。喜びは大変なものでした。妻にも付き添ってもらっていたので、妻と共に喜びました。
そして以降、経過観察が始まりました。診察場所は示された診療所でした。初めは退院後二ヶ月してからあり、後は三ヶ月に一度の間隔でしたが、相当経ってから私から話を持ち上げ、HD 医師の提案で六ヶ月に一度と言う事になりました。HD 医師は一年に一度とも言われ、それまではよかったが、「何だったら止めますかと」言われたときは絶句し怖くなりました。何が怖いかと言うと、こちらは命がけで手術し、小さ目の餃子二個程もある肺組織を取られ、そして重要だと思って経過観察を続けたが、何の意味ある結果もなく、はい此れまでと言わんばかりに終り、張本人の HD 医師も京大病院の医師かも知れないが、元々そうであった様に永久に無縁の知らぬ存ぜぬの人物になり、此れでは行き摺りの事故に会った様なものでは無いのか、余にも命が軽々しくあつかわれているのでは無いのかと、此れでは怖くてうっかり医療など受けられない、そんな思いからでした。
私は、何時だったか経過観察の間、病気の状態を聞きました。過敏性とも慢性とも言われていましたが此の慢性が理解できなかったからです。進行する特発性で無かった事が手術で分かったのですから、治っていくと思っていましたので、慢性は何なのかと思いました。答えは、まだ炎症が有る言い方でした。
其処までは良かったが、なぜなら治っていくと思っていたからです。しかし私が更に聞くと、今後、進行するかも知れないし、このままかも知れない、現在有る部分は慢性のままで治らない様に聞こえる何とも言えない始末の悪い答えだった。此れでは特発性間質肺炎と何処が違うのかと思い大きな不安をもちました。又或る時、私の肺機能は HZ 医師よりも良いと言われました。肺機能検査やその他の検査を総合してである。HZ 医師は私から見たらまだ若者である。
私の肺機能の方が良いと言われたのだから大変嬉しく思いました。しかし今後病状が進行するなら喜んでもいられない分けで、分けが分からず結局不安が残る認識だけが残りました。幸い変化は全く無いと言われていましたが、何の治療法もコントロールも無く手ぶらで構えている様なものだと思いました。以上が、間質性肺炎を京大病院で診てもらった事です。更にリウマチ性多発筋痛症についても触れておきたいと思います。
三年余が経ち、リウマチ性多発筋痛症を発症したのですが、この診療所がリウマチや膠原病経専門でもあり間質性肺炎との関係で行き違い無いだろうと診てもらっていました。この診療所で使ってはならないブレゾニン(ステロイド)や免疫抑制剤を此の診療所で使用され一生治らないと言われました。
慢性間質肺炎で診てもらっていた医師も全部若かったが、ここでのリウマチ担当の KY 医師は一番若かったです。此の若さに、私は、慢性間質肺炎の様に重大病と思っていなかったためか大丈夫かと思うよりも、大学で最新の医術を学んでいる筈だからと思い期待しました。しかし此れが大きな間違いで、一番古臭くて危ない治療だったのです。そして此れはリウマチ等膠原病の治療とその薬の使用が現代一般医療において、全く進歩していないと考えられました。
実際に飲んだのは先に言いましたがブレゾニン(ステロイド)とプログラフと言う免疫抑制剤で、此の投薬が一番古臭くて危ない治療なのですから。そして此の KY 医師から一生治らないと言われました。私は問い掛けました「治ら無くなったのは発症の徴候が現れた時からか、暫らくしてからか、其れとも相当病状が進んでからか」と。二ヶ月程前は健康だったし普通に生活していたから急に一生治らないと言われる事に納得いかなかったからです。
しかし KY 医師から答えは無く沈黙のあと、99,9%駄目でしょうと 0,1%残した言い逃れの様な答えで、そして唯々、治らない一点張りでした。私が正しい答えを知ったのは、全て松本先生の理論を読んでから分かりました。免疫抑制剤を使用すれば見せ掛けの改善とリバウンドを繰返し薬が免疫を阻害する為、一生治らなくなってしまうのです。だから全ての医師は自分で病気を作るから、自信を持って一生治らないと言えるのだと知りました。此の若いKY医師と世間一般の他の医師も似たり寄ったりだと思いました。それを少し回りながら言います。
私は、此の診療所に行っている中で松本漢方クリニックに移りました。この変化をプログラフが急がせました。此の薬を飲んだら、何と言ったらよいのか体力気力も失うと言うか萎縮感があり飲むのを止めました。其の事を電話でKY医師に連絡しました、KY医師は簡単に承知したが次の診察時に別の薬を出しましょうと得意そうに言いました。ショックでした。気色の悪い薬から開放されたと思ったら又次の薬を言われたのです。碌な薬に違いありません。薬に振り回される事を、一週間余先の其の診察日までには絶対に回避しなければならないと思いました。
此の切迫感が、此の数日前から妻がネットで出していた松本漢方クリニックの患者さんの手記から知った松本漢方クリニックへ行くのを急がせ、そして其の診察日までに既に松本漢方クリニックに行っていた訳です。しかし止めた筈の診療所の前からしていた予定の診察日に行きました。尻切れトンボでは切りが悪いと思ったし、自然完治する松本漢方クリニックを得たことをバックに診療所に何か物言い、復讐心を持ったのかも知れません。しかし実際は丁寧に断ってきました。
私は、手の鍼灸の跡を見せながら、漢方で治す様にしましたと言いました。
前までは一生治らない一点張りだったKY医師に「メリケン粉の様な粉を薬だと言って飲ませても患者は善くなるんですよ」と言われました。此れは自然治癒が有ると言う事に他ならない事でした。なぜなら気分だけで良くなると言っているに他ならないからです。一生治らないと言っているKY医師の口から出るべき言葉ではありません。何故、彼はそんな事を言ったのでしょう。一生治らないと言いながら有るわけも無い其の根拠を当然ながら彼は得ていなかった
から本当の事が意に反して彼の体から飛び出してきたのでしょう。又、「指が曲がってから私の処へ来ても知りませんよ」とも言われました。此れは反対に自然治癒を否定するものです、なぜなら鍼灸のような漢方的な自然治癒を高める治療では治らないと言っているのだし、そもそもKY医師は一生治らず薬で抑えるしか無いと言っているのだからです。結局、KY医師には筋の通った考えが無い事になり、ズバリ言ってKY医師の治療は気違いに刃物の様に人聞きの悪い話になってしまいます。そして世間一般の医師もKY医師と全く同じくステロイド等免疫抑制剤を使う危険治療を行っているのですから、世間一般の医師とKY医師は何処が如何違うのでしょう。
―最後に―
もし私が、松本漢方クリニックで間質性肺炎の原因と正体を知らなければ何時までも不安から開放されなかったでしょう。又、診療所で、それは一般他の何処の病院でも同じですが、免疫を抑制する誤った治療と投薬を続けていれば痛い痛いと言いながら身体が弱って行き遂には廃人となり死へと繋がっただろう事が目に有々と浮かびます。間質性肺炎とリュウマチ性多発筋痛症から助かったのは、松本漢方クリニックに出会い松本先生の治療法である免疫を高めて治す治療をしていただいたからです。一生治らないと言われた事が数ヶ月で完治の目を見ようとしています。松本先生には本当に治療を超えて命の恩人だと思っています。
間質性肺炎とリウマチ性多発筋痛症の治療が重なり、その回復が同時でない為、相当良くなったリウマチ性多発筋痛症の報告が遅れた事になりましたが中間報告とさせていただきたいと思います。
そして松本先生と最近医師として診療に加わられました息子様、及び鍼灸の早田先生、看護婦様、スタッフの皆様に御礼と共に感謝いたします。まだしばらく通院しなければならないと思いますので、宜しくお願いいたします。
以上