「気管支喘息・結膜炎・鼻炎が治る」

67歳男性2004年3月26日

松本先生の書かれた「気管支喘息の意味論」を読んでいますと、私の喘息のきっかけを作ったのは、30数年前の事になります。随分と古い話になりますが、職業上、工業化学薬品を取り扱う仕事に携わっていました。今から思えば、知らず知らずのうちに、体を蝕む環境の悪い所で作業をしていた事になります。

35歳の時、身体の変調に気付き、大学付属病院で治療を受けることになったのですが、その折、主治医の先生から、「診断書を書きますから、一ヶ月程度休みなさい。」と言われ、その通り休勤しました。その診断書には、漢字で「せんかんせいこうさくえん」と書かれていたのを、今でも覚えています。

病院では親切にしてもらい、良くなったと思い込み、治療を受けるのを止めました。その後、松本先生にお世話になるまでの30年間、呼吸器系統の診療科目のある総合病院、退社後の帰宅途中、専門医院に幾度となく通い詰めました。しかし結果は、良くなったような気がしても、良くならずの繰り返しで、病名は、いつも決まりきって気管支炎か、慢性気管支炎でした。ある医者には、「慢性気管支炎なんてものは、一生治らない。」と言われました。私は、呼吸器系統以外にも多種多様な病気を経験し、入退院した事もあり、縫合しなければ傷口がふさがらない怪我も、幾度もあります。満身創痍の30年であったと思っています。

平成15年、お正月も過ぎた頃より、風邪を引いたような気がしてなりません。前年の11月に、インフルエンザの予防接種をしたばかりなのに、と心の中では思っていました。咳も普通の咳ではなく、時々ヒューヒューという音がする咳が出始めていました。

その年の3月は暖かい日が続き、桜の花も、3月20日には満開するほどの陽気でした。そんな事もあってなのか、咳も小出しになり、風邪も治ったのだろうと軽い気持ちでおりました。ゴールデンウィークには、六甲山、比叡山にも登りました。汗は出ますが、冷たい汗ばかりで、外は暖かいのに、私は寒くてセーターを外せません。「随分おかしな身体になっている。一度病院へ行こう。」という矢先、また咳が出始め、人との対話も出来ない状態で、その上悪い事に、わき腹、腹部に痙攣が起こり始め、痛いことも痛いのですが、息が出来ません。この時、酸素不足だと直感、素人の私にも、喘息だと気付いたのです。

そんな折、家内が町内のサークルの会合で知り合った人から、松本漢方クリニックの紹介を受け、「漢方が良ければ、行かれては」と助言を頂きました。漢方の事は何にも知らないのですが、知っているとすれば、「養命酒」と、以前読んだ事のある「有吉佐和子作、華岡青洲の妻」に書かれている麻酔の事くらいです。用法、分量、薬草の混合率が適合すれば、人をも救う良薬となるが、間違えば、害を伴う薬ともなり得る事を実証した青洲の、妻と義母との女の葛藤を書いた作品の中での漢方薬の有効性が、頭のどこか片隅に残っていました。そんなこともあり、何のためらいものなく、松本漢方クリニックにお世話になりたいと願いました。

6月初旬、松本漢方クリニックで治療を受けるべく、玄関の扉を開くと、漢方薬特有の強烈な匂いが部屋に充満していました。別に嫌な匂いでもなく、むしろ体が求めていた匂いであったかもしれません。これは良い兆候だと感じ取りました。待合室には、老若男女の多数の皮膚アトピー患者がおられる事に驚きました。皆、一生懸命、病魔と闘う姿に敬服し、私も頑張らねばと、心に誓いました。

その後、初めて松本先生と接し、「治してあげます。」と言われました。その自信に満ち溢れた一言に、安堵感がみなぎりました。今まで数多くの医師と接しましたが、誰一人として言い得なかった言葉と、松本先生の名前は、生涯忘れないでしょう。

看護婦さんには、毎回、血圧を測定して頂き、初対面の時には、山歩きが好きだと聞き、樹木、草花、山道の事など語り合いました。その日常生活の何気ない対話の中で、私の体の体温調節機能が、十分に機能していないことに気付かれ、松本先生に連絡して頂きました。また、病原菌とIgM抗体、IgG抗体、IgE抗体についての病理を説明して頂き、興味深く聞いておりました。

スタッフの方から、松本先生が処方された漢方煎剤の作り方、飲用方法など詳しく聞き取り、帰宅後、直ちに、第一回目の煎剤を作りました。煮えたぎる熱湯の中から、蒸気に混ざり合った煎剤の匂いが台所に広がり、薬効が逃げていくのではないかと、浅ましい気持ちにもなりました。

指示通りに作った煎剤を飲用した3日目から、多量の痰が出始めました。信じられない程の量で、2番煎じ、3番煎じを飲むことによって、痰が出易くなる事を体験しました。飲み始めてから、2週間目には、随分少なくなっている事に気付きました。

8月(飲用して250日くらい)初旬、鏡に映った自分の顔に、赤味が差している、確かに赤味を帯びている、と確信しました。少しずつではあるが、体が改善されている、その兆しが現れているのだと思いました。家内にその事を聞いてみましたが、毎日顔をあわせていると、そうした小さな変化は読み取れないようでした。しかし、亡き父母の墓参の折、一年ぶりに再会した姉から、「顔色が良くなったように思うけれど、どうしたのか。」と聞かれ、大きく変わった私の顔色を見抜いていたのでした。

ちょうど同じ時期に、新聞や雑誌を読んでいたら、目が痒くて痛みも伴い、十分間も精読出来ない状態から、当たり前のように目を広げて新聞を読んでいる事に気付きました。もう10年くらいは、目薬なしではいられない生活でしたが、目事態が痒いことには理解出来ませんでした。右副鼻腔も、何時もつまり気味で、呼吸しづらかった事も覚えています。松本先生の書かれた気管支喘息の意味論を読んで、アレルギー性結膜炎、アレルギー性鼻炎だと知り、唖然としました。

喘息を治すべく、煎じ薬を飲んでいたが為に、アレルギー性結膜炎、アレルギー性鼻炎が治ってしまうなんて、誰が信じる事でしょう。痛快とは、このために用意された言葉ではないでしょうか。

この3月、喘息治療の最終章を奏でます。松本先生、看護婦さん、スタッフの皆様、有難うございました。