無門関 三十、即心即仏
「如何なるか、これ仏」と大梅が問うて、馬祖は答えて「即心是仏」。
この問答で悟ったならば、法衣を身にまとい、仏飯を喫し、仏話を説き、修行することが即ち是仏となる。大梅はこのような説法で他の人の注目を引っ張って、誤って考えなくてもいいことに執着させてしまった。仏と口にするだけで、三日間も口を洗い、眼を洗い清めた話が分かるはずがない。
無門曰ク、若シ能ク直下ニ領略シ得去ラバ、佛衣ヲ著ケ、佛飯ヲ喫シ、佛話ヲ説キ、佛ヲ行ズル、即是佛ナラン。然モ是ノ如クナリト雖モ、大梅多少ノ人ヲ引イテ、錯ッテ定盤星ヲ認メシム。爭カ知ラン、箇ノ佛ノ字ヲ説クモ、三日口ヲ漱グト道フコトヲ。若シ是レ箇ノ漢ナラバ、即心是佛ト説クヲ見バ、耳ヲ掩ウテ便チ走ラン。
※
「即心是仏」と言って分かる人はそれ以上何もいう必要がないではないか。理に落ちて分からない人には「それ以上考えるな」、「心がどうして仏なんだ」と考えれば考えるほどに迷ってしまう。
もし、「即心是仏」が分かったのなら、雲ひとつない空に日が煌々と照っている心でいられる。「どうしてだ」の疑問の心を抱けば、盗品してきたことを「泥棒」と言えば恥をかかせるようなものだ。
頌ニ曰ク、 青天白日 切ニ忌ム尋、覓(ミヤク)スルコトヲ。
更ニ如何ント問フハ、 贓ヲ抱イテ屈ト叫ブ。
「心は仏だよ」と説く、知っていても、知らなくても。だけど本当にそう思えるのか、思える人はそのままに、何故と疑問を持ったら永遠の謎になる。
謎が謎でなくなるのは言霊で謂えばイ次元で物を見れば「即心是仏」は理解できる。それを理解できる人はまず居ない。説明したところで分からない、残念ながらアの次元では。
仏と分かったのなら、仏の心で物事を観れば、世界中必要のないものはなくなる。全てのものが必要だからあるところにある。これは割りと捻っていない公案ですね。世の中が何の不足もなく合理的に出来ていることが分かれば、自ずと分かります。
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「即心是仏とは世の常情に染まぬ即心是仏であり、諸仏とは人の煩悩に汚れぬ
諸仏である。
詮ずるところ、即心是仏とは、発心・修行・正覚・涅槃の諸仏にほかならない。
いまだ発心・修行・正覚・涅槃せざるには、即心是仏ではない。」
(正法眼蔵・即心是仏)
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如何ナルカ是レ佛。祖云ク、即心是佛。
「如何なるか、これ仏」と大梅が問うて、馬祖は答えて「即心是仏」。
心が仏であるというのを、物の存在を仏とするのがあり、ものとの一体化を仏とするのがあり、あるがままの心を言うのがあり、心の働きを言うのがあり、心を知った者のみ仏を知るというものあり、等々でわたしも分からないのでわたしの意見を述べるという悪循環があります。
仏さんに如何なるかこれ仏と問うのと、自分に如何なるかこれ自分と問うのがない。仏と口にするだけで、三日間も口を洗い、眼を洗い清めたいいますが、如何なるかこれ自分と問わないまま呑気に過ごしています。
仏さんに関しては会ったこともないし文献で教えを知っているという程度で、仏とは教えだという解答ぐらいしか出来ません。ならば自分はに関しては恥ずかしい限り答ができません。
自分に関する教えの聞きかじりぐらいならなんとか書けますが。
いずれの答も則心是仏、則心是自分ですので、心を披露すればいいことですか。
わたしの次元ではごちゃごちゃ仏に関する感想文を書くだけですから、止めときましょう。
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無門関 三十一、趙州の勘婆、五次元の性能。
趙州の門下の僧がある時、ある婆さんに五台山への道を尋ねたところ、「真っ直ぐに行け」と、その僧がそ三五歩進みだしたところで、婆さんが「お坊さん、何処へ行くのかね」と言った。
趙州は婆さんがどうしてそのようなことを言ったのか、「お前のために俺が行って、見破ってこよう」、婆さんに趙州は同じように質問し、同じことを言われた。帰ってきた趙州は「お前たちのために五台山の婆さんを見破ってきたぞ。」
婆さんが禅の問答に通じてそのようなことを言ったわけではい。また、趙州も婆さんが何のためにそのようなことを言ったのかをわざわざ出かけて確かめるなど大人気ない。趙州はどのように婆さんを見破ったのか。
※
学僧は婆さんの何気な言葉尻に迷い、婆さんは趙州の問いかけにいつものように答えただけのことだった。問いかけが同じなら答えも同じことで、日常交わす言葉の中に真理はある。詮索すればするほど真理から遠ざかる、常に「今ここ自分」が生命の活動そのもの。
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はじめに僧が、甚處去、と禅の一般的な言葉を使ってしまったので、お婆さんは 「それならあなたの目の前だよ 」 と、これも一般的な答えを返し、そして言われたとおりにまっすぐ道を行く僧に対して、わかってないなー、と思わず感想を言うお婆さんです。
無門いわく 「このお婆さんは、ただそのテントの中ではかりごとをしながらちょっと立ち上がっただけで、そのとき大事なものを盗賊に盗まれたことには気ずいていません。趙州老人は、うまいこと本陣に盗みに入り、要塞を脅かすほどのはたらきをしますが、またそれも大人の分別とは言えないようです。
頌にいわく
問に一般なるに、答も亦た相い似たり。
飯裏に砂有り、泥中に刺有り。
「問が禅の一般用語なら、答えもまたそのようなものが返ります
ご飯のなかに砂を隠し、泥のなかにトゲをひそませます。」
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これは婆さんの変なからかい道案内趣味にたぶらかされた僧たちの話です。
一般問いには一般解が相応しいということですが、色即是空、衆生則仏、一般語則禅語になりません。
プロの趙州が確かめに行くことになり、からかいと勘繰りすぎであったことになりました。
弟子僧達のせっかくの真面目な気分が吹き飛んだことになります。何を聞いても見ても修行に結びつけ、お婆の言葉にヒントをつかもうとしていたわけですが、金を捜し当てるのを諦めたのでしょうか。お婆ではなく和尚なら、禅語として理解されるものでしょうか。
人の顔を見て、言葉の内容を計るのか、どのような人にも真面目に禅語の意味を見いだそうとするのか、お婆の言う事を聞き返してどこが悪いのか。日常が禅といったのは誰で、日常が仏のなす事といったのは誰なのか。
同じ言葉でもそれが禅語かそうでないかというよりも、禅語として話していてもそれは人の性能のある段階での事ですから、同じ言葉という事を全面的に人の言葉として見る事の方が先でしょう。
例えばここにみかんがあります。人間性能のみかんを了解する姿。
・五感感覚に関心があれば、五感による了解を直ちに得る事に注意が注がれます。今ある欲望を今即得ようとする世界。ウの次元。
・みかんの概念に関心があれば、記憶知識科言語による整理分析によって自分の保持している過去知識に該当させようとすることに注意が注がれます。今あるものを過去のもので得ようとする世界。オの次元。
・みかんの色艶その存在感を感じ絵画的な感情に関心があれば、今保有している感情を損なうことなくそれを追い求め具体化表現して了解することに注意が注がれます。今あるものを保持現有化しようとしている世界。アの次元。
・ここにあるみかんをどのようにするかという場面に関心があれば、そのみかんを現在以降社会的道徳的にどうしたら良いのかに注意が注がれます。今あるものを現在以降未来にも得ようとしている世界。エの次元。
・比較的小さくてオレンジ色で香りが良くて甘くてといろいろ説明できても名前を忘れてしまった時それに名前を与えて了解しようと注意が注がれます。上記四つのどれかに成ろうとする原動力。イの次元。
このように五次元層があってそれぞれ独立しています。
「好箇ノ師僧、又恁麼(インモ)ニ去ル」「りっぱなお坊さんに見えたが、やっぱり同じよう(どのよう、いかよう、そのよう、こんな、そんな)に行きなさる」
この公案はお婆の言葉を高次元のものと勘繰った為に起きたのですが、お婆の次元はただ、わたしの言ったことに従いいう事を聞いて欲しい、そうすればしっかりと目的地に行けますよ、どうぞ、前にもそうしてくれた坊さんと同様真っ直ぐ行ってくだされ、有り難い事だ」、ということです。
道案内の知識は示しましたが、自分のした案内の言葉に従って欲しいとの思いを述べたものです。
そこでギンギンに研ぎ澄まされた悟りへの注意力のある僧はお婆の言葉に自分の基本要求である悟りの目標を得る言葉として聴きました。きっと普段から何事も悟りの種になると教えられていたのでしょう。この事は別におかしなことではありません。
ただ自分の問題として取り入れ解けなかっただけです。
僧は勉強した知識を総動員しても了解できないということは、お婆が言う自分ら僧が無事に旅してくれという思いも理解できず、知識が解したくても理解できずにいたということです。
そうするとそこに出てくるのは自分を超えた了解の世界、悟りの世界からの言葉の様に思えることです。悟りのことしか頭にないといえば褒めていることになるでしょうが、実は悟りという悪霊に捕らわれているだけです。悟りに価値があり自分を越え人間を超えたものがあるように思い込んでいる為、単純なお婆の「達者で行けよ」という思いも伝わらなかったのです。
自分の関心にかまけた聞き違いは世の常ですが、次元を超えた聞き違いは相手を無視することになります。歩きだす前にお礼はしたでしょうが、次の言葉をかけられた時には無視の態度をとっていたでしょう。
自利を見つめるだけの禅僧だったのでしょう。
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無門関 三十二、外道、仏に問う
世尊にある時、外道が、言葉で言わず、無言で示す道を問うた。世尊はしばらく無言で座っていた。それを見た外道は即座に悟って「世尊の大慈大悲は我が迷雲を開き、悟りを得しめて下さいました」と言って去った。
それを聞いていた阿難が世尊に「外道は何を証明して賛嘆されたのですか」と問うた。世尊は「良馬が鞭の影を見ただけで走り出すようなものだ」と答えた。では、外道と仏弟子である阿難の差はどこにあるのか。
※
仏の道に入ったからといって悟れるわけではない、修行を積んだから悟りに及ぶものでもない。世尊が黙って座っている姿そのものが仏なのであって、人生は生きながら仏になれると外道は悟った。
究極の道は一つで、どのような方法でもその道に通じる方法なら各々の工夫をすれば良い、どれでも自分の因縁に応じたやり方でもかまわない。だが、それを外れてはならない、貫き通すことが肝心だ。
救われない考え、救われたい考えを捨てれば、いとも簡単にその道に通じることが出来る。宗教以外の求道を外道というに当らない。しがみついているその手を離せばよい。人の意見、考えをそのまま信じ込んで、道とするのが外道で、他を外道と言う人は自分自身が外道である。
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世尊、因外道問、不問有言、不問無言。世尊據座。
「言葉が有ることを問わず、言葉が無いことも問いません」「有言であると同時に無言でもあるもの」「言葉でも沈黙でもないもの、それはいったいなんでしょうか?」「有言を問わず、無言を問わず」「言葉でもなく、沈黙でもないものは何ですか」「喋ってもよいし喋らなくともよい」
「言葉で言わず、無言で示す道を問うた。」
なんとまあいろいろあります。異教徒が言葉でもなく沈黙でもない方法で説明できるか聞きました。釈迦はわたしを見なさいと「態度」で示しました。ここまでは頓智の一休さんです。悟りは言葉を越えているなんてことはいいません。
外道というのは異教徒らしいですが、解脱がある悟りがある言葉を越える教えがある神はいる仏はいると、信じているのが外道です。釈迦は昔の自分の姿をそこに見ました。異教徒にとっては釈迦の教えは外道です。教えたところで外道ですから語るに及びません。態度で示しました。
そこで大いに迷いを晴らしたといいます。ところが釈迦を奉じるアナンには釈迦の教えはアナンの外道です。幾ら聞いたところで信心からさきへ行くことはできません。
さて釈迦の言葉に面白いのがでてきました。世ノ良馬ノ鞭影ヲ見テ行クガ如シ。鞭打たれて進むのではなく、鞭を見せられて進むのでなく、その影を見てというのです。
敷衍すれば鞭打たれて動くのがアナンで、影を感じて動くのが異教徒でした。
同様に敷衍すれば、釈迦が座禅姿を見せないと分からないのが異教徒でした。この場合鞭の影は釈迦自身でしょうか。
では、釈迦が座禅を示したことは座禅する本人自身にとって、鞭打たれた現象を示したのでしょうか、それとも鞭の影を示したのでしょうか。
無門さんお願いします。悟った人は鞭か鞭の影か、これいかに。
これは先天の鞭の影が鞭になることと、成った鞭が鞭の影を作ることとの二つの過程があるでしょう。
了解の出来上がるその時の場面に関してですから別に良馬でなくともいいので馬のことは略します。
問う。言葉でもなく沈黙でもなく道を示す法をお聞きしたい。
答え。座禅をしてみせますから、答を聞くあなたも言葉でなく沈黙でもなく了解する道を得る様にしてください。
察気というのがあります。気を察するです。殺気というと怪しくなります。
張りめぐらされた気界に何かが引っ掛かり感じることですが、無責任な推測ですが悟りの直前もこんな感じでしょうか。幾度となく繰り返された問いにあるとき同様の構造として悟りの内容がひっかかるのです。
ですので個別的な問いを個々に解くのではなく同じ構造として現れそれが分かるみたいです。公案集の問いはいろいろな場面がありますが、どこにも個別的な解答はありません。ですので無門の解説も特にその公案のための解説でなく全てに通じてしまうようなものです。
これはちょっと考えると禅には個別化する能力がないということです。日常では当たり前のことで、わぁ、綺麗、といわれてもその場にいない限り何を指したものだか分かりません。
これは言葉に表現しようとしまいと同じです。言葉にして綺麗といったから通じないのでもありません。黙っていては更に通じません。綺麗を表現する行為が介在しないと何もないことになります。そのあとにならおおいに以心伝心だとか不立文字だとかいえるでしょう。全く日常のことです。
それでもわざわざ悟りがあるということで修行したり悟りとは何かと勉強したりするわけです。
感情は恣意的で突如として出てきます。解脱の場面も同様です。
感情は自然の流れとしてあり、感情を呼び覚まし喚起創造するのは俳優芸術家たちの仕事であるように、知的対象の感情了解は宗教の仕事です。
小説家は万巻の言葉を尽くして一言を追求し、宗教家は何年も神を叫んであの一時の神秘体験を呼び戻そうとし、画家は何枚も描いてあの時のフォルム色輝きを得ようとし、禅は知性的な思惟作用を尽くして正反統一的な了解を得ようとします。
人間の意識領域の内で禅は直接に思惟作用を扱いますが、禅をやる人にはここが面白いのでしょう。画家なら何でもない視覚現象に本当の視覚を求めるのが面白いようなものでしょう。
鞭の影。後天現象と先天。
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無門関 三十三、非心非仏
馬祖和尚は、ある時、僧に問うた「仏とはどういうものですか」、「それは心でもない、所謂仏といわれている仏でもないものだよ」。
もし、この意味が分かったのなら禅は卒業だ。
※
この仏は経文に書かれていない仏、説かれない仏の意味。つまり生命のことを指しているけれど、じゃあ、生命って何だということになると言霊の学問でないと説明できない。
道を説くときは物事の三分の一を説け、詩人に逢うても最後の一文は言うな、分からないことは生命と言うな。
公案三十の「即心即仏」とどう違うか、生命が仏といっても、心といっても、どちらも当っている。
仏は人間の心が尽きたところにある、心とは何ぞやとなると、考えに考えたけれど分からない、その心。だから心といってもいいし、心じゃないといってもいい。
蛙にキセルの脂を飲ませた、蛙は猛烈に苦しんで胃を裏返して水で洗って呑み込む。それと同じに、仏が生命か、そうじゃないかは、心があるか、ないかではない。
だけど、心がなければ分からない、仏とはそういうものだ。
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アの卒業
今年はアを卒業するのに全力を上げること、生命と同様の力でやらないと。言霊の学問を知っていれば、ガンバレばかならず卒業できる。生命には行き着けない空虚な心がある、言わないで突き進むことが出来ない、禅宗ではね。
親鸞も道元も知らなかった、でも何かあるだろうということは知っていた、日蓮と弘法によって言葉は心を越えたもの、真実に似ている(真似)麻邇ということが分かった。
人間は言葉を駆使することによって、瞬間の最後の光、禊祓によって光の言葉で真実になる。私みたいな凡庸な者が世界中の知識を集めなければならないのですから。みんなお腹に収めて、それで分からないところを求めているわけですから。
逆に考えれば、言霊の学問があるから出来る事。どれくらい言霊の学問が真理であって他は蝋燭の光のようなものであるか。一生かけて追究して修行したら分かるか、そうじゃない、レールは引かれているのですから。
私の本を読んで、「分かる」と思う人、こういうことがどうして「分かるんだろう」と思う人は、少なからず次の文明にご縁のある人。これだけのことを書けるということはわかっているから書けるのでしょうからと感心される。しかも、今までにないことが書かれているのですから。
http://imakoko.seesaa.net/article/114437351.html
http://homepage2.nifty.com/studio-hearty/kototama_ver.1/
-------以上引用です。--------------
馬祖、因ミニ僧問フ、如何ナルカ是レ佛。祖曰ク、非心非佛。
質問は質問者の既得概念知識での仏をもって質問し、質問者のいう仏は経験知識の記憶とこれから教えられ得られるだろう新知識への希望で、質問者の心にある仏です。当面はそれだけが質問者の仏ですが、答を聞いた後には、質問者の心にある仏と新たな知識とのミックスが仏になります。それは既得知識+αというだけです。
解答はそなたの思っていた仏でも、その後に得られる知識による仏でもないものだというものです。質問者が分からないからといって質問する限り心でもなく仏といわれているものでもないということです。
言葉は仏になっていますが何でもいいのです。サッカーとはどう言うものか、猫とはどう言うものか、たまたま僧の関心が仏にあったというだけです。
そこであなたの聞いた知識見た知識読んだ知識で質問されても回答を既得のもので解釈し直すだけです。
これは知識を得る次元での話ならそれでいいので、立派な新知識が得られたことになるでしょう。そこは仏になることを目指す人ですから、知識の内容を悟らねばなりません。そして行動によってそれを示すことになります。
そうすることができるなら当然、無門曰ク、若シ者裏ニ向ッテ見得セバ、參學ノ事畢(オワ)ンヌ。
グッド。
知識で質問して知識を得てもそれだけでは駄目。仏とはどういうものかと質問した時、問いを解くだけなら駄目。
悟って了解してもそれだけでは駄目。それから解脱しても単なる個人の経験でしかない、個人で分かったというだけ。了解したことを何も活かせない、他の人の為にして上げれない。誰にも何もして上げられない、社会に生きられないから駄目。
そこで何かをして上げたいとしても、して上げることを表現できず言葉で示せないのでは駄目。不立文字だ以心伝心だと黙々と行為しても社会性を拒否しては駄目。
また始めに戻って考える。質問をする限り駄目になる。でも質問しなくては何も明かされない。
そこで質問していた自分の心を見る。
知的な関心とそこから得られる回答に頼っては駄目と言われた。分かって悟っても個人のことでしかない、表現できず社会に溶け込めないと言われた。質問内容があるものは駄目になってしまった。
如何ナルカ是レ佛。祖曰ク、非心非佛。
もう何も残っていない。質問内容があると駄目なのだから、質問した自分の心意気しか残っていない。
心に非ずだ、仏に非ずだ。でもまだ自分の問いたい知りたい悟りたい勉強したい意思が残っている。
わたしの生命からする意思があるじゃないか、知識に左右されない意思があるじゃないか、わたしを促すわたしがいるじゃないか。
如何ナルカ是レ佛。えっ、なんだって、もしかすると、ワ、タ、シ。
頌に曰く、「路に劍客に逢わば、須らく呈すべし、詩人に遇わずんば獻ずること莫れ、人に逢うては且らく三分を説け、未だ全く一片を施すべからず」と。剣客に会ったら全力で応じ、詩人を前にしない時には詩を吟じるな、人に出会ったからとて相手が見えてくるまでは三分程度の話をして、決して全部を伝えるな。
公案も和尚も無門も剣客だろう。相手にとって不足は無い、いざ尋常に勝負。
赤ちゃんは何も分からないけどお母さんは何でも話すじゃないか。三分だ六分だと何をケチなことを言っているのだろう。
如何ナルカ是レ佛。と、このようになぜ仏を出して問わなければならないのでしょうか。仏がいなければこの問いは成り立たないのです。仏は心の保証を与える為に出てきました。心の保証を説明した人は他にも多くいて、キリストの教えだったり、神の教えだったり、釈迦の教えだったりするわけです。
要するにある時点で仏なり神なりキリストその他なりに投影し反射してもらわないと自分の心を見いだせない状態がつくらさたということになります。
仏も神もキリストもいなくて心の正常だった時代があって、それが破壊された為に彼らや神と呼ばれるものたちが出て来たのです。その証拠に彼らや神の教えを全部集め統合したものが本来の心であり、心の一部にぴったりくるものとなるからです。
しかし常に不完全感、和、輪では無い思いが必ずこびりついていて信徒と呼ばれる人達にもそれらがどこにでも顔を出してきます。
この不足感の全体と彼らの教え全体とがなければ自分のこころとなりませんが、出来上がった教えが優先されていく為、その教えによって心を計るようにされています。
本来はその逆で、彼らの教えも心の一部でしかないのです。
この公案は仏教の内にいるところから出てきていますから、「如何ナルカ是レ佛。祖曰ク、非心非佛。」も心の中の一部である代りに、質問と答の範囲内に心を押し込むものです。仏教徒ならそれでもいいでしょうが、普通の人間として受けいれると欠陥を押しつけられます。
つまり仏教でいう悟りにまでしか行けません。
分からないから教えがあるのではなく、教えがあるから分からない疑問が創造されたのです。それをわざわざ疑問のない状態に戻そうとするのが宗教です。
そうするにはそれなりの理由があるはずですが、いつか考えてみましょう。
今回は、公案を考察し考えるというのではなく、公案を作らせた教え以前の健全な精神状態があるというところからきています。
如何ナルカ是レ佛と問うと仏の教えから抜け出せません。従って、祖曰ク、非心非佛も、仏の教えの範囲内で答えるのでなく、問いを構成し創造したその心から答えようとするものです。
●
無門関 三十四、智は是れ道にあらず。ワ。
心は仏じゃない、智は是れ道にあらず。
簡潔に言えば、仏は大自然、智は人智、同じようであって同じじゃない。
智は自然から与えられたもの、それは道ではない。
道は人間が作ったものだ。
自然の智を捻出し練ったものが道である。
老人になって禅のことは知っていると思ったのに、南泉和尚よ、恥を知れ。
ちょっと曝け出したつもりでも家のことを全部さらした教えでも、それを有り難いとして実行する人が少ないのは残念だ。
※
禅の教えの真髄は導くという字のように道を一寸説けばよい。
この公案は全部を言ってしまった。もう何も言うことはなくなる。
聞いた人が修行をしようと思わないだろう。
自分の生命が助かりたい、安心が欲しい、と思っている人が仏とはこういうものだと言ったとしても分からない。
http://imakoko.seesaa.net/article/114976354.html から引用。
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南泉云く、心は是れ仏にあらず、智は是れ道にあらず。(心不是佛、智不是道)
無門日く、南泉謂るべし、老ひて羞を識らずと。わずかに臭口を開けば、家醜外に揚がる。是くの如くなりと雖も、恩を知る者は少なし。
じゅに日く、
天晴れて日頭出で、雨下って地上湿ふ。
情を尽くして都べて説き了る、只だ恐る信不及なることを。
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心は仏じゃない。
心は相手対象があればそれに結び付きます。結び着いた相手対象が何でもこころになります。面白いテレビをやっている、かっこいい人だな、ブログでも書くか、何だこれはいい加減なことを言っているな、とかが全て心で、仏を思えばそれも心です。仏を思ってる時は心は仏だけになれますが、仏という文字を打ち出している時は単なる文字です。当然心は仏ではありません。
どこかの坊さんの解で心という言葉に何か意味があると囚われて本性を示していないからというのがありました。
どんな狭量な心で捕えようとそれがその人の心であってその人の仏であることを忘れて、何か偉大な遠大な仏があるようにそそのかしています。
ですので、どんな狭量な人がしようとすることもその人の仏のここから出たことです。ここでその人との見解行為の仕方に違いがあって文句を言ったところで、その人の仏心を否定しては何もならない。
これは犯罪殺人でも同じで、それに至った時も心の仏の行為として犯してしまったということです。彼には犯罪殺人を彼に肯定的なものとする彼の仏がいたのです。どのような人も自分を肯定的に行為させていきます。ここから先はまた別の話ですのでここまで。
心の位置をどこに置くかで変わります。心がまだどこにも結ばれないこれから結ばれていくところを想定するなら心は宇宙、世界全体になり、カレーが喰いたい、悟りを知りたい、金が欲しい、日本を良くしたい、結婚したい、とうコロコロ変わるのがこころです。心が仏という人も四六時中仏といっているわけにはいかないでしょう。しかしコロコロ変わるのが心でそれを仏とするならどの場面においても心は仏です。
こんなことは書いたり聞いたりしているうちは単なる言葉のすり替えでしかありません。
その知的概念的な理性内容を感情内容として実践的に分かることが悟りでしょう。
この公案の前提として前回の非心非仏を前提としているというのもありますが、前提という言葉を持ちだすのが仏非仏の行為でしょう。似ていること正反対のことをいっているからといって参考にしても、もともと無を説いているのに参考にしたい心持ちが無になれないだけでしょう。
智は是れ道にあらず、を仏の智と衆生の智とに分けているのがありましたが、自分たちの商売だけは別だというのと替わりありません。
お釈迦さんは真理を説いたのではなく、自分の教えを説いたのです。仏教の真理、釈迦の真理は説けないけれど自分の教えは説くことができるとして生を終えました。ところが釈迦以降は空や無や教えが真理だからそれを説くという風に百八十度変化してしまいました。
こうした心の構造は人には普通のことですからその動きは説けるから聞きなさいというのが教えです。
教えを真理にしてしまい、つまり心を仏にしてしまい、仏を説けば真理を説いていることにしてしまうのです。仏とは心でもないし、いわゆる仏でもないといわれる所以です。
心の次元の自由自在な動きが人間の素晴らしいところであり、悲惨を不幸を産む原因でもあり、日常行為であるわけですが、お釈迦さんはその心を分析説明してくれましたがその奥にある真理は言葉を超えるとして悟る様に教えたのです。
言葉を超えるというのは、残念ながら当時の言葉にしろ、中国にしろ、彼らには真理を了解する言語体系がないということで、日本でもそれを不立文字などといってインド中国並みに引き下げて喜んでいるようです。そのため荒行やひっぱたくことなどが考えられていったのでしょう。
ところが大和の日本語は全世界のどこの国ともちがって完全な人造言語としてものと心を結ぶ言語として創造されたものです。つまりもともと悟りの内容を表現するために作られた言葉です。ですので悟りを表現するなど簡単なことです。
どんな公案でも構いません。悟ってください。そしてその時口に出していう言葉は、分かった、です。分かったのワは輪であり、和であり、環という当て漢字を該当させます。
分かったという時のワの心持ちには、公案の内容とその了解とその回答とその表現が全てワという言葉の中に含まれています。
公案問いの示すものを、噛み砕き自他とを結び合わせ産まれ生じてきたものに名を付けて現象にしていく、その全過程の表現が分かったのワです。
1+1は幾つですか、分かった、という時その分かったの中には問いと答え了解事項とその表現と相手への伝達言語まで全て、分かったの中に含まれているのです。
もちろん他国語でも分かったという表現はできますが、その表現は表現の内容を示しません。Je comprends. は分かったという訳にはなっても、その綴りからは、1+1は幾つですかの内容は出てきません。
他国の言語では悟りの内容を意味をとったり現象をとったり状態関係とったりで、似通ったことで表現を得ようとします。
古事記を書く時の当て漢字を使用する苦労話がありますが、あれは逆に言と意が同じになっているのが大和言葉であることを示したものです。大和日本語によってのみ表現と内容が同じとなっています。
大和日本語は五十音全部がこのようになっています。それを解説したのが古事記の神代の巻です。神話ではありません。
単音ワは神産巣日の神が配当されています。漢字を日本語にすると、カミムスビ、?み噛み砕いて結び合わせ、蒸し蒸してびがはえ生じて言の葉を産むということです。、
これは心が相手を意識し結びついてあなたですねと了解していくことです。心とあなた相手が一致してそれを現すことができた状態が仏です。日本語で分かったというワの時のことです。
禅は自らの体験を言葉にできないという理由で不立文字を発明しましたが、芸術家たちは懸命に自らの表現を求めています。
こうした禅に不足した態度はその使用されている元のサンスクリット語とか漢語とかからきているせいでしょう。原語に表現する資格がないからといって、大和日本語もそうだとすることはないでしょう。
分かれば分かったと言えばいいだけです。
相似近似の難しい概念など専門家の暇つぶしで分からないから続けられるものです。そうしないと分かったものを不立といって、分からないものを立する自分たちの立場がなくなる恐れがあります。
------以下引用。-------------------------
末法の説法
お釈迦様が説いたこととは全然違う事を説く。しかもとくとくと書いているわけですから、恐ろしいことです。真理でないものを真理として説く。しかも本人はいいことだと思っている。それを又、お坊さんが推奨している。禅坊主が空を知らず、南無阿弥陀仏の本願寺が阿弥陀様を知らず、牧師が山上の垂訓を知らない。その意味さえ分からない。
「幸いなるかな心貧しき者、天国はその人のものなり。」何十年もキリスト教の信者の人に聞いたらとんでもない答えが返ってくる。心貧しきものは心卑しき者と解釈する。卑しい人にも幸いはあるのだ、と説く。
心貧しき者というのは禅で謂う「無一物」のことです。心の中に拠り所とするのは何もない。つまりは空ですよと。その人のことを天国はその人のものだと謂っているのです。
永平寺のご本尊も知らない。そういう世の中を良くしようたって無理なんです。真理を知らないでいて、若い人は賛同していろいろ運動していますよ。でも導く人が真実を知らない。
http://imakoko.seesaa.net/article/23536471.html
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無門関 三十五、倩女離塊
五祖に僧が尋ねた。「倩女は衝陽張鑑の末っ娘、身と魂がそれぞれに結婚したが、どちらが本当の倩女か?」 魂が身体から離れまた戻ってくるということは旅に出て旅館に泊まるようなものだ。 悟らない内は、身と心の関係を云々しているうちは分からないのであって、ここでもってお前が空から抜け出て、現象となった肉体を消してしまったことをよく考えてみろ。 言ったところで蟹が煮えたぎった湯の中に投げ込まれたようにジタバタしても分からないことは解決しない。その時がくれば自然に分かることだ..
雲と月は同じだ
谷と山は異なる
その時折の現象によって違ってくる
だが、真実である
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倩女は中国の故事なんでしょうが、何のことを言っているのか分かりません。
何かの逸話なんでしょうけど。
それは一つのことを言っているのか、分かれた二つのことを言っているのか。どうやらウからアワへの消息を謂っているようです。
http://imakoko.seesaa.net/article/115018094.html
--------以上引用-------------------------
無門曰く、「若し者裏に向かって真底を悟り得ば、便ち知らん殼を出て殼に入ること、旅舍に宿するが如くなるを」と。即ち知るべしである。衆生知は曰く、時に此れを主とし彼を旅舎とす、或いは彼を主とし此れを旅舎とす。斯くの如きを迷界と為す。故に無門は続けて曰く、「其れ或いは未だ然らずんば、切に亂走すること莫れ。驀然として地水火風一散せば、湯に落つる(旁)蟹の七手八脚なるが如くならん。那時言うこと莫れ、道わずと」と釘を刺しているのである。即ち一者は夢中に自在を覚えて妄動す。また一者は夢中に法を見て我れ斯くの如き者なりと思う。もし突如として因縁所生の法界が一散すれば汝また何処に在りとや為さん。故に汝答えを選ぶこと莫れ。ここに道を選ぶこと莫れ。
頌に曰く、「雲月は是れ同じ、溪山は各異なり。萬福萬福、是れ一か是れ二か」と。訳注者の現代語訳にも、そのまま「雲と月とは同じもの、谷と山とは別のもの」と訳されているが、意味が掴み難い。従って心象界を分別して「天に映れば同じもの、地に影差せば別のもの」と詠み代え、本と末を相互に思えば、「身と魂は同じもの、影を分かてば別のもの。それで目出度く収まった。是れ一と言い二と言わん」というような詠みが出来る。
-------以上引用------------------
すぐさま主観と客観の関係を解く問題みたいになりそうです。どの公案もそうですが登場人物は二人、あるいは二つの物事の対比です。
実はこれはそういった見せ掛けを作る仕掛けとなっているだけです。そこには本来の主人公をわざと描いていません。主人公は二つに描かれた以前の姿とか、二つを統一していくものとか、両者間を行き交う姿とか場面によります。そこには問題を解く修行僧、わたし達がいるが、二つのことに係っきりになるように仕組まれています。
この公案は両者間を行き交う話を時代話にしてその両端だけをとりあげたものです。ですので、時代の長さを短縮して今やっていることにしてしまうこともできます。あなたはいまネットの画面を見ていますが、そのネットの画面があるのか、見られてる画面があるのかというようなものです。見る行為にすれば、わたしが画面を見ているのか、画面がわたしに見せているのか、
これらはどちらかの両端に立たされるようになっていて、それに与すれば解けないようになっています。この知性の詐欺みたいな問題は行動することによっに破られます。
知性知識は名目を立てた後にそれの為に行動していきますが、悟りは行動した後に名目を立てていきます。
魂の娘をとるにせよ肉体の娘をとるにせよそのどちらかから出発したものには解に行き着けないし、科学知識、精神医学はそれに拍車をかけていきます。
客観事実は魂幽体の離脱、臨死、金縛り、というかなり広範な体験が能科学で研究追体験されている。目の前にある画面を見て画面があるというと、本当にそこに画面があるのを不思議がって強調したりしています。
そういったことに無門は分からなければ手を出すなといいます。つまり悟ってもその悟ったことが存在していることまで考えても分からないぞというわけです。わたしが悟ったのか、悟りがわたしに来たのかは勝手に「汝答えを選ぶこと莫れ。ここに道を選ぶこと莫れ。」というのです。悟りでどん詰まり来るところまできたから後はギブアップということです。そこから先は宗教の範囲を超えるからです。
一時幽体離脱とかヘミシンクとか良く耳にしたことがありました。いまでもブログなどにもよく離脱とか神体験とかがあります。
体験としてあったものですから否定したって仕方のないものですけど、その体験をみますとどうも個人の体験で個人的な感覚を得るだけのもののようです。
宗教的な我と世界の同一性、自他との間に我与汝同根亦奇特なりということもなく、動物実験の体験記みたいなものばかりです。要するに頭のどこかを突つけばそういったことが生物として体験できるというだけで、人間的な意味はないようです。
長く座禅をしてもそういった体験はできませんから手っとり早くあっち世界を経験したい場合にはいい手かもしれません。
どの宗教も霊界とか幽界とかを語りますが、一度それぞれ始祖を前にして説明して上げたらいいと思います。そうしたら始祖たちは何というでしょうか。
宗教を起こした当時にあっても状況はと同じようでいろいろ質問を受けていたことでしょう。
未だに回答が無く科学万能重視の現在でも霊の世界をどうすることもできません。結局始祖達からは排除されたもので、始祖達自身が教えを求めていたのでしょうか。始祖たちにもそれぞれ先生がいて教えられていたはずですが、自分ではそういった質問をしたことがないのでしょうか。
死んだこともない生きている自分しかいないのですから、死は語りようもないものですが、ひとそれぞれ死んだ様な状態とか霊魂だとかはいろいろコンタクトの例があるのでそれが輪廻、六道とかになって行ったのですかね。
聖書には神の元へ行ける人数制限なんてありますね。
霊界の話はインチキトンチキになりやすいのでこれでお終い。
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無門関 三十六、路に達道に逢う
五祖曰く、「路で空を知った人に逢ったなら、言葉をかけても、黙っていてもいけない。さて、こういう場合、どうしたらよいのか」。
少しでも何か言えば、達人はこちらの思いを量れる、こちらは達人の答え方で何を意味するのかが分かる。
その意味がよく分かったならば、学ぶ心でもいいし、今ここの勉強している真実を語ればいい。達人の日常の言葉、所作に目をつけてみろ。
近づいてぶん殴ってみろ、やってみなくては分からないだろう。
※
無門の公案は「頼もう」と門前で問答に詰まると襟をつかんで放り投げたり、ぶん殴られるくらいの真剣勝負、答えられないと寺を追い出された「喫茶法」と呼ばれる。
問答で真理をつかめたとしても、それが個人の悟りの境地で終えるならば禅の修行はここまでしか到達しえない。
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相手が悟った人だとこちら側が知っている前提がおかしいのです。
それでも、赤ん坊なら、いやな奴だと感じて泣くでしょうし、餓鬼子供たちなら遊びの邪魔をする奴だ早くどけというでしょうし、通勤時にあったならぶらぶら散歩できるいい身分と思うでしょうし、年配なら親しみを感じて挨拶をするでしょうし、無法者は俺に眼を付けるのか気に入らねぇと殴るのもいるでしょうし、朝の法話のお礼をいうこともあるでしょう。
いずれにしても悟った和尚さんということですから、その反応は下の者には理解できません。遊びに興じる餓鬼たちは直ぐ反応を理解するでしょう。
和尚は赤ん坊を泣かすような顔付きに成った因果を思うでしょう、餓鬼たちの遊びを邪魔したことを謝るでしょう、通勤時の勤め人たちの一日の無事を祈るでしょうが理解されないでしょう、年配には先に挨拶されてしまっことを反省するでしょう、無法者に殴られてお礼を言うでしょう、修行僧のお礼にはひっぱたいて示すでしょう。
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無門関 三十七、庭前の柏樹。回答の仕方。
趙州に僧が問うた、「達磨さんはどうして中国に来たのか」
「庭前の柏樹子」
もし、趙州の答えがたちまち分かったのなら、前に釈迦無く、後に弥勒は無い。
※
庭前にある柏樹子、私が見ても、お前が見ても、同じ柏樹子。判断の性能が生まれた時から授かっていることを知らせるために達磨は来たんだよ、とすれば、でも、それは説明しすぎ、聞いた方は「そうなんだ」で終わってしまう。
答えがそのことを詳しく述べることもなく、その言葉がその時でなくては分からないことでもない。その言葉を細かく説明して考えるものは心を無くしてしまう。和尚が言った言葉に迷ってしまう。
柏樹子に意味があるわけじゃない、柏樹子と分かる判断力をお互い持っているじゃないか。
空というものが分かったときにそういう智恵を授かっているんだなと分かる。感謝の念というものが当たり前とする、そういう問答をしなければならないのは禅宗がエとイを説かないからです。
どうして庭前でなければならないのか、何故柏樹子なんだ、となると永遠に分からなくなる。「どうして」があると真実は永遠に見えない。これだからこうだということを言わなくなってしまう。ただあるがままを言わない。
達磨が穴に篭って何年間も出なかったというのは、誰も訪ねる者が居なかったということを比喩した言い伝え。
ウオアエイの天の御柱が粛然と立っている、それによって人間は甘いも、辛いも、それによって判断している。実際にそれ以上の答えがありません。教える方もよく分かっていないから、なんか小難しいことを言って分かったようなことを言うのが禅の問答。
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無門曰く、「若し趙州の答処(たっしょ)に向かって見得して親切ならば、前に釈迦なく後(しりえ)に弥勒無し」。
もし、趙州の答えがたちまち分かったのなら、前に釈迦無く、後に弥勒は無い。
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釈迦から弥勒までは長い長い年月があります。その間に出てくる見解は無数となります。ということはどんな解でも構わないデタラメも正解こうだという言う主張も駄目ということです。
公案と解に共通点を探すわけですが、非常に抽象度が高く、どんな回答もよいどんな回答も駄目というものを探します。
ここで抽象度といっても達磨も庭の木も生物だとか分子や原始で構成されているとか生命の本質を現しているとかいうのは駄目です。なぜかというと、なんだこうだと相手対象を規定して説明しようとしているからで、相手対象の変化に囚われているからです。
ついで達磨と木の生命としての存在は言葉を用いて説明しきれないというようなものも駄目です。何故ならそういった不立文字とかいうものの自分の主張をするからです。自分の喋っている言葉をこんどは説明しなくてはなりません。
要するに答えれば全て駄目です。それなのに庭の木と答えて二重丸をもらったのは何故でしょう。
この答も柿の木だ桃の木だうまそうだ、何属の何種の何科だとか、小さい花とか黄色だとかいう庭の木として答えたのは駄目です。木の説明じゃなく達磨の旅行の目的が質問なのですから、木の説明など必要ありません。
そうすると五感感覚でする判定と、経験知識と、記憶概念での判定は全て駄目ということです。
人にはそれ以上に何があるというのが答えに繋がるものです。
アイウエオの母音は人の性能を五つに分けて象徴化したものです。人間性能をこの五段階にして創造されているのが神道で、伊勢神宮の秘儀となっている短い忌柱は五分の二が地中に埋まっていて、柱は何も支えていないけどその上に判断規範の象徴である鏡を戴いています。地上の五分の三が普通に人に使用されているものという象徴でイエとウオアに分かれています。イエの人間性能は未だ地下にあり隠されていて開花していませんが、ウの五感による判断、オの経験知識による判断、アの芸術宗教による判断だけが通常社会での判断となっているという象徴です。
悟りもこのアの次元のもので、まだ隠されたエイ次元を目指さなければならないのですが、殆どの宗教者は悟りもアの次元も知らないので、ましてや更に上の次元があるなどと夢にも思いませんし、宗教自体がそこに行けないという限界をもっています。
公案は通常社会での最高判断規範を手に入れる事ですが、エ、イの次元までは手がでません。自覚的にエ、イ次元に行くには言霊学が必須です。神道は形だけが残されているので概要を知るには便利ですが内容は開示されていません。
わたしは言霊学の勉強途中で無門関をやっているのですが、仏教も悟りもやったわけではありません。実際に悟ったわけではないのですが、悟りを超える上位規範に照らし合わせていくと宗教とか悟りとかの位置や限界がある程度見えるので、適当なことを書いています。
この公案では庭木じゃないけど庭木である事を説明しなくてはなりません。対象相手に答を出すと駄目になるのは既にみました。すると何がまだあるのでしょうか。
人間、自分の意志、質問を聞き答えようとする知りたいと思う意思があります。達磨はわたしの知りたいという意志に応じてきてくれるのです。わたしは庭前の柿の木が大好きです。達磨はわたしと一緒にその木を観賞しようとして来てくれるのです。わたしは達磨と庭木という二つの単語を知りました。こうして知った所以を達磨は説明しに来てくれるのです。また達磨がいます、木があります、それらを思うわたしがいます、達磨はこうした巡り合わせを教える為に来るでしょう。見えない達磨と目前の庭木この不思議な取り合わせを達磨は知らせるでしょう。
結局観念上のことじゃないか、意識の戯れ想像じゃないのかということも言われます。これを見抜くのが和尚の仕事です。悟った言葉なのか想像なのかそれを判別します。というのも答えるのは下の者でオ次元の知識に縛られた概念で記憶を満たしているだけの者たちの答だからです。
知識の上位次元は感情の世界に突っ込みます。宗教が生まれ芸術が生まれ、愛が生まれ感謝が生まれ、世界との一体感が生まれ宇宙との同時性が生まれ、美の感動、光の感動が生まれる次元です。
それらの中では言葉の詳細は消失して自他、わたしとあなたとの共感が基盤となって共有されています。
和尚さんも相手の顔色を見てホントかよ、おいと、二問三問と問います。知的に確信しただけのものか悟りといわれる知的理性的な対象の感情次元での了解かをみます。
しかし和尚など出てこなくとも自分でもできます。幼稚園程度の問題を用意して、例えばここにお馬さんは何匹いるでしょうか、というような問題に自分で答えてみれば、問いと同時に直覚的にお馬さんは三匹います、と答えられます。その時は自分は理知的に概念的に答えたのではなく一目見た感情直覚で答えています。
公案もそのように直接得られた感情直覚で答えればいいのです。幼稚園児の問題にしてもその後は直ちに知的概念が侵入してきます。子供に教えようとする時はもう直覚ではありません。問題に難易にかかわらず感情で得れるのはその場限りのものです。
幼稚園児の問題では喚起される感情が小さすぎて感じないかもしれません。かといっ公案では難し過ぎるので適当なものを各自試してみてください。
お分かりのように感情の喚起される場面は日常普通にどこでもがそうです。悟りだなどと難しいことを言わず物事、理知的なことの感情了解ととれば幾らでも練習できます。
実社会では了解すれば終りということはなく、その次に選択し実践することが必要です。しかし悟りにこだわっていると行動次元に参加できません。
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無門関 三十八、牛、窓檻を過ぐ
五祖曰く、「譬えば水牛が窓格子を過ぎるように、頭、角、四肢が全て過ぎ去っても何故尻尾の先は過ぎることができないのか」。
無門曰く、「この比喩を逆からみれば、上は三宝、国王、父母、衆生に報い、下は欲界、色界、無色界に貢献することが出来る。しかし未だ然らずんば更に尻尾によって思索することができよう」。
牛の尻尾が意味するのは過去、記憶、言霊ヲのこと。過ぎ去ったことに実体はないのに、いつまでも忘れないのはどうしてか、あなたならどう答えますか?自分ならどう答えるかを思案するのも修行の一つです。
生きているのは実存している今ここのみ、他に人間は生きようがない、思い出すのは、後悔の念、懐古の念等々、それらから離れることができないのは、人間の宿業、輪廻である。
牛の尻尾そのものに善悪はない、もし、その後悔、懐古がなければ、人間は獣に等しい、昨日から今日に生きているのではない、今日が昨日を引き連れている。
http://imakoko.seesaa.net/article/116194301.html から引用。
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この公案は悟るとか悟らないとかの話ではなく、人の意識構造の禅的な見方です。
牛を部分に別けてそれを自分なり何かに配当して残った何かを尻尾にしても駄目です。
頭胴手足が通過しても、尾尻が通過していないということは、頭胴手足が通過したという判断が尾尻同様残っているのです。通過するしないに係わらず牛に対する判断がいつまでも残っています。
例えば、「いかに悟ったとしても迷いというものから完全には抜けきれないということをこの公案は表しているのではないか」という判断があって、悟った頭胴手足部分と完全に抜けていない尾尻部分に分けています。
例えば、「わたしはこういう人間です。といってすらすら答えられる部分が、頭であり角であり、前脚、後脚なのです。ところがそこまで答えて、後が続かないのが「しっぽ」というもの。」というように前後にしてあります。
例えば「私は、何事も完全に分かるということはあり得ない、と解釈したいです。必ず何かが残る。また残らねばならない。」というようにおまけがつくといいます。
例えば「「<窓>ってなんや?そして、その窓で行方不明になった<牛のしっぽ>とは?」「ココロは開けても開けても部屋のない扉。痛い窓」」というように行方不明部分があるといいます。
以上は肯定部分は通過しているから安心して不問にしてしまい、否定的部分を取り上げています。実際は両者共に通過した形か通過しない形かで、肯定的か否定的かの形でそれぞれ残っているのです。
残るという点では同じことなのです。
そこで、無門いわく 「もしこのことについて考え、ひるがえってほとけの第三の目 (一隻眼) を身につけ、さらにその答えを (一転語) 示すことができれば、それをもって上は父母・国王・衆生・仏法僧の四恩に報いることができ、下は欲・色・無色のそろった三有を手に入れることができるだろう。
というように、どこにいってもどこにいても誰にでもいつでも残るものはナーニ、というわけです。
そこから、どっちかになる認識の性質を述べるのではなく、尻尾の使用法を述べたものです。もちろんここでいう尾尻は頭も尾も含めた全体のことです。頭は通過したが通過したという判断が常に残るわけですから、その両者をひっくるめた利用法ということになります。
人間性能のうち常に残るものは何かです。しかも通過したりできなかったり、分解分析したり出来なかったり、焼いて煮て喰ってそれでも全体が残り部分が残るものです。
思いだした話。キリストは腹の空いた民衆に籠から魚とパンを出して与えましたけど尽きることなく与え続けました。いくらでも出てくるトランプカードの手品みたいなものですが、人間性能に誰でも普通にそういったことがあります。
もう分かりましたね。過去の記憶のことです。その現れは概念知識です。
頭胴手足部分は先に過去記憶部分に落ち込み突っ込まれるから、その後に続く尾が通過するとかしないとかが言えるのです。尾は頭胴手足部分の記憶があるということです。通過した頭胴手足が記憶として過去概念としていつまでも残るという例えです。それをわざと尾だけが残るような言い方をしたのです。
出家して捨てきれない因縁があるといった怖い話になるのではなく、日常通常人の性のことです。
わたしは小さな窓を通過していく牛を見てみます。まず百姓が引いていく綱が見えたかしれません。牛の鼻先が現れ眼耳角顔頭が見えるとついで首に引かれた胴体そして前足が動いていき窓を隠すように腹が見えついで云々となっていきます。
ついで後ろ足がきて揺れ動くしっぽとその先にある毛がそれを追うアブと共に消えるのです。当然の映像です。尻尾が切り取られて落ちて残ったのではありません。
誰かが問います。今何かが通ったみたいだけど何だった。答は通った牛の記憶です。牛と認識されて記憶された過去経験の総体から引き出された問いにマッチしたものです。問いに尾を引かれて導き出されたもので、見ていた人が経験した名残りのうち問いに尾を引かれたものです。
この記憶の使用法いかんに依っては精神領域も物質界領域もうまい具合に回転していく。但し禅の公案領域においてはばっさり切り取らねばならない。記憶概念知識の感情的了解を経てまた立ち戻らねばならない。
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以下言霊学からの引用。
『 次に国稚く(くにわかく)、浮かべる脂(あぶら)の如くして水母なす漂へる時に、葦牙のごと萌え騰る物に因りて成りませる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。次に天の常立(とこたち)の神。この二柱の神もみな独神に成りまして、身を隠したまひき。』 (古事記)
「国稚(くにわか)くして」
「心の先天構造の内部がどの様な状態になっているか、まだその内部の実状を明らかにする作業がそれ程進展していないので、」の意であります。「国」とは組(く)んで似(に)せるの意。言葉を組んで、実際の状態に似るよう整えることです。その作業が成熟していないということです。
「浮かべる脂(あぶら)の如くして」
水の上に浮かんでいる脂(あぶら)のように形も定まらない、の意。前に述べましたように先天構造の内容がまだはっきりしていないで、浮遊する脂の如く不安定で、ということです。
「水母(くらげ)なす漂(ただよ)える時に」
水母なす、とは暗気の喩えです。一面がまだ暗くて安定せず、漂っている時、の意であります。
「葦牙(あしかび)のごと萌え謄(あが)る物に因りて成りませる神の名(みな)は、宇麻志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。」
「葦牙のごと萌え謄る物に因りて」といいますと、読者の皆様は先ず何を連想なさいますか。人の心の中で、こういう状態になることを経験した方は多いのではないでしょうか。それは間近に処理しなければならない重大な事で、どうしてよいか分からない問題を抱えた前夜のことなど、床に入っても寝付けず、頭の中は過去のいろいろな出来事が走馬灯の如く駆け廻っている時の状態こそピッタリではないでしょうか。葦の芽も茎の四方八方、上下何処からでも新しい芽が出て来て、何処が始めで何処が終わりだか分からない程入り乱れます。
その様な状態で現出して来るもの、それは宇麻志阿斯訶備比古遅の神というわけです。宇麻志は霊妙な、の意。阿斯訶備は葦の芽のこと。比古遅は男の子の美称、と辞書にあります。全部で霊妙な葦の芽の様な複雑な関連を持った原理の実態、といった意となります。これは一体何なのでしょうか。一言でいえば人間の心の中にその様に現出して来る経験知識であります。この経験知識が畜させされている心の宇宙、即ち言霊ヲであります。人間の経験知識は他の経験知識と複雑・密接に関連しながら、言霊ヲの宇宙に収納されているのです。この言霊ヲに漢字を当てはめて、その内容を説明すると、緒(を)や尾(を)などが考えられます。生命(いのち)の玉(たま)の緒(を)と言えば、それは記憶のことであり、尾では「尾を引く」の言葉もあります。また言霊ヲを端的に表現する文章が仏教禅宗無門関に見ることが出来ます。
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無門関 三十九、雲門の話堕
僧が雲門に問うた、「光明寂照河沙に遍し。」その句を言い出したところで雲門がすかさず、「これは張拙秀才の詩か?」僧は「そうです」と返事した。雲門は「つまらない話だ」と言った。
後に死心がこの話について「この僧の話のどこがつまらないのか」と言った。
禅の問答は真剣勝負、もし、この僧が張拙秀才の詩かどうか問われた時に、その詩の最後まで読んでから「自分はこう思いますが」と修行の一端としてこの詩を引用して、質問すれば雲門もそれに答えることができる。
だが、学僧が「そうです」と答えてしまったが為に、挙句を論じる話のための話、「話堕」になる。禅の問答はあくまでも自己の魂の解決の道であって、話堕は悟りとはほど遠いところにある。
自分の発言に責任を持たぬのが「話堕」、発言に責任が持てないのならば懺悔する他ない。言ってしまった事は修正がきかないのですから、謙虚に聖賢の書を独り工夫して勉強することです。ところが自己の因縁や経験知で解釈しがち。
しかしながら、禅も含めて宗教はあくまでもア止まり、それ以上は求めても何もありません。靴の上から痒いところを掻くような、道を照らす月の光でしかないですから、自覚したのか、自覚していないのかは、「問いに答えあり」です。
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雲門、因みに僧問う、「光明寂照遍河沙(こうみょうじゃくしょうへんがしゃ)」一句未だ絶せざるに、門遽かに曰く、「豈に是れ張拙(ちょうせつ)秀才の語にあらずや」。
僧云く、「是」。
門云く、「話墮せり」。
後来、死心拈じて云く、「且く道え、那裏か是れ者の僧が話堕の処」。
無門曰く、「若し者裏に向かって雲門の用処孤危(ゆうじょこき)、者の僧甚に因ってか話堕すと見得せば、人天(にんでん)の与に師と為るに堪えん。若也(もし)未だ明めずんば、自救不了(じぐふりょう)」。
頌に曰く
急流に釣を垂る、餌を貪る者は著く。
口縫(こうぼう)纔かに開けば、性命喪却(しょうみょうそうきゃく)せん。
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「是。そうです。牛の尻尾です。」「話墮せり。つまらない話だ」
元気よく一言返事するのも禅世界では大変なことです。「話堕」、ぴしゃりです。
誰もがアンチョコとして今現在ここにある心を示せばいいとは知っているけど、すぐ話にひっかかります。禅ではこの応答の社会性の外へ出ろというのですから悟ったところで社会からは隔離したがるわけです。
悟った心を持って社会に戻り実践行動を普通にしていくことを教えられません。禅の精神構造を超えてしまうからです。この実践社会行動次元での悟りがなければ何の役にも立たないもので、実際には出来ないのに、そんなことはしないと強がりを言って引っ込むだけです。
何でもそうですがそのものの上位次元に立たなければそのものは見れないのに、禅、公案では下位の知的な経験概念世界を超えたことをいいことに、ひっぱたくのです。
ひと度社会に出て選択行為をして生きていく場面に会うと、悟ったという了解だけでは何も進行していきません。禅、悟りの上位次元から行動の原理を示して悟ったものを社会みんなの中で実践していかなくてはなりません。禅はあまりにも大口を叩きすぎた為、メンツを保つには山上に居続けるしかないのです。
そこで禅より下位次元の者にはむにゃむにゃと言って教えをたれ、希望を与え未来への力を添えるのです。
概念世界に落ち込まないように解説することをしないので、下の者にはいつまで経っても大様で居られますが、ひと度そのからくりが知れ渡れば禅の技術はもっと公開されるでしょう。またそうすることが世界の発展に寄与することになるでしょうし、真剣勝負の伝統も新たに蘇るでしょう。
今回は怪しいところから始まりました。続けましょう。
「はい、そうです」と返事をしてしまいました。
「いいえ、違います」だったかもしれません。
どちらの返事をしても「つまらんことだ」といわれます。それじゃどうするのか。
学僧は詩を読み上げてから何かを問いたかったのです。どうしても聞きたい心の疑問が湧き出てきていました。その心の疑問の持続が学僧の今現在の姿でした。
そこで和尚に引っ掛けられ自分の今現在を放棄して、問いの答である過去の結果概念を探しに行ったのです。幸い作者を知っていた為にそうですと答えましたが、そこにあった自分、詩を読み上げていた自分を失いました。
いずれを答えても詩を読み上げていた現在の心境とは関係の無い記憶知識の当たり外れのクイズ問題としてしまったのです。作者は誰だ、何時の作品だとかの過去の記憶に関する問い返答に組みしてしまいました。
このトリックにひっかからないように自分の心境を持続していくには自分の心が持続していく方法を講じればいいのです。作者を問う和尚の質問には答えないで詩を読み続ければいいし、読み上げた詩を再読してもいいし、読んだ詩の言葉を取り上げてもいいし、読んだ詩の内容を聞いても、全部読み上げてから聞き返してもいい。
自分の心のある場所が詩にあることを示せばいいのです。
考えている途中で人から質問を受けたりそれに答えたり、考えていることが雑音で中断されたり、するのはどうしてでしょう。意識を逸らせるともいいます。駄々っ子にも政治にもよく利用されている手です。
もし禅の技術をもってすればこのようなことがコントロールできるでしょうか。
泣く子には乳を与え、駄々っ子には欲しがるものを他のものに誘導します。知識には他の概念をあてがって翻意させます。
そこまでは禅でできます。
禅自身をより高次の次元に導き、禅を行動へと赴かせ実践社会で行為として役立つようにさせるにはどうしたらいいのでしょうか。これは禅を超えた立場を得ないとできません。悟ってもいないわたしにはできませんが、考えることならできるでしょう。引きこもりや思い込みから来る諸問題の頑固さも禅と似たところがありそうです。
でもこれは今のところは力不足で、やったところで死心和尚か牛窓れいを過ぐ、でしかない。
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無門関 四十、転倒浄瓶
イ山は百丈和尚の典座である食事係りだった。百丈が衆僧を集めて答案を競わして、大イ山の寺の主人を選ぼうとした。自らの浄瓶(手洗いの瓶)を置いて「これを浄瓶と呼ばずに何と呼ぶ。」
首座が「木の杭とも呼べないし」と言った。そこで百丈はイ山に同じく問うた。山はいきなり瓶を蹴倒し出て行った。百丈は「首座はイ山に負けたな」と言った。開山の寺の住職はイ山が命じられた。
イ山は百丈のところを出て行ったように見えるが、百丈の徳の域からは出られなかった。
※
「浄瓶と言ったらいけないとしたらお前はどうするか」の問いです。言霊の学問に通じる問い、浄瓶と呼ばなければ、それは浄瓶でなくなる、名は体を表わす、だから蹴倒して出て行った。
例えば、湯のみ茶碗、土で作った器と言ってはいけないぞ、これは何だ、その名前でなければ、蹴倒してもないのと同じことです。分かってみると成る程な、ということですが、私も無門関を読み出した時にさっぱり分からなくって、なんでイ山の方が勝ったのか。
浄瓶が浄瓶と呼ばなければ、何の意味もなさないもの、ゴミを捨てたっていい、だけどそれは理屈のところまでの分かり方であって、自分の気持ちを表わすには、文字を越え、言葉の道理を越え、その道理がそのまま蹴倒す行為になった。
そういう発想が頭から出ないと和尚の足かせが外れない。蹴倒す方が勇気いりますね。何でもいい、自分の意思と言葉を行動として出せれば、諸法空相から諸法実相にならない。
アの境地に踏み込まないと機知が出てこない、アでありながらエでもある。その場に適当な言葉がフっと出てこない、でも、言葉として限定されてしまいますと、束縛から躍り出ることが出来ない。
百丈の教えから出て行くということは、良いことも含めた百丈の檻から出て行くということです。アの境地は百丈の弟子であっても同輩になる。オの立場なら和尚さんですけど。
同輩ならば、どんなに忌み嫌う相手でも「有り難い」と受け容れられる。それを自覚しているかどうかは、自分に一番辛くあたった人が一番有り難く思えた時です。
私は初めて自分の書いた本の文章を読み直しています、気力充実していないともう書けないです。神様に大祓祝詞をあげている時代ですから、たいへんな間違いをして神様を拝んでいる、訳も分からないのに国家を唄う日本民族は、もう、そろそろ分かってもいい時です。
学者は粗探しが得意ですから、「そうですね」と頷ける人にならないと。この間禅宗を教えている人が「人差し指一本立てる意味は何ですか?」、もっとも誰も教えてくれなかったからでしょうけど。説明しますと「へえー」って感心してましたけど。
----以上は http://imakoko.seesaa.net/article/116282106.html より引用。-----------
悟りの構造。
禅は個人的な感情、心の持ち方を行動に依って現すのが限界ですから、どのような問いにも心を込めて思った行為をすれば全て正解になります。理屈の悪循環を断ち切り和尚の言葉を切り、そこに物があれば蹴飛ばせばいいのです。もちろん正解を与えたからといっても山頂の住職になるだけで、相変わらず社会に出てくることを知りません。
芸術家なら懸命に自己を求めて表現を探し新たに問うことをしていきますが、直接に知識理性概念を扱う禅では口に出すことがチンプンカンプンになるのが恥ずかしくて社会に出るより、ムニャムニャを固執する方向を選びました。
禅は悟った自己を表現することを知りません。覚醒して直ちに座禅に向かう話がよくあります。悟りを座禅で表現しているわけですが、座り込んでしていることは、行動に依って未来将来に建設的に向かうものではなく今を忘れないように現在を維持確認しています。
理性認識は進歩を求め前進することが特徴ですが、過去の記憶概念が基盤です。
悟りは現在の心の持ち方が基盤ですが、今あるものを現有保有することで、世界との同一性を保持するだけで未来へ向かうことはありません。
悟りには何故行動が無く、社会性が無く、どうしていくのかを選択するものがないのでしょうか。悟って自分の本性が世界宇宙でありその自覚を得ます。しかしその自覚の出発点は老病死苦因縁有無空色の自分の持っている疑問からです。
悟りの自覚が向こうからやって来るにも係わらず、それをそのまま受動する立場ではなく、自分が悟りを覚醒を得る立場打ち立ててしまいます。ここに主体性の主張がでてきて、得られた物を主体的に得るものとして、自分の関心事に結び付けます。つまり悟りを主体的に得たという逆転現象を起こします。
自分が悟りを得たという主体側に立つ限り、得られた悟りの内容は自分のものとして自分の中にあった比較対象相手と結ばれることになります。
こうして続けられる座禅に依って自分の中の過去へいく対象相手を探してそのことに心が囚われるので、未来へは眼が向けられません。
悟りの次の次元へ。
ここから自分の心しか関心事が見つからない悟り宗教ができていきます。
同じ出発点同じ悟りを得たとして、この狭い悟り宗教を超える道を探してみましょう。
悟りの自覚を得ました。忘れまいと座禅を続けて主体的に努力していきます。自分への関心事を力一杯引きつけ自分の過去に該当させそれを一致させ表現しょうとします。この過去に向かうことが伝統的な悟りとその後のことでした。行動をないがしろにできると自負する悟りでした。
この変な悟りをいよいよ乗り越えるのです。
いずれにしても悟りは向こうからやってきます。全体的に一塊としてどかっとやってきます。何が何だか分かりません。そこにすぐ出てくるのが分かろうとする自分の心ですが、この心は二つの方向をとれます。
一つは自分の持っている関心事テーマと結ばれることです。
一つはそのまま受けいれてしまうことです。
前者は今まで述べてきたことです。水泳を覚えようとして水に入り、その水の温度や鉱泉度流動性、手足の動きと抵抗等々自分の関心のあることを持ちだして状態状況を了解しようとすることです。
他方は素直にそのまま入っていることで、始めは沈んでしまうかもしれませんが抗わず自分を木の葉として水と一体化してしまうことです。
前者は悟った内容を自分の過去経験へ落とすやり方ですが後者は自他、水と自分の一体性つまり新たな悟りの実質を得ることです。
いろいろと変な言い方が出てくるのはわたしが悟っていなくて精神規範のアンチョコで話しているからです。どうせ聞いている人も実質は分からないはずですが、もしかしたら言葉は通じているものがあるかもしれません。つまり以心伝心を超えてるかもしれません。これも変な言い方ですが。
水との一体性が得られますとこの両者が表現の花開く対象となります。座禅を続けて捜し物をすることがありません。水に沈んだ浮いた自分が相手対象です。それがそのまま行動となり、つまり、水と自分との一体性が結論結果として現れてきます。
浄瓶を蹴飛ばせば壊れるかもしれず水が部屋を汚します。禅世界なら個人行ですから猫を切ってもそれでおわりです。浄瓶はこっちへイ山はあっちへです。実社会ではそうはいきません。
「これを浄瓶と呼ばずに何と呼ぶ。」でイ山は蹴飛ばして出ていきましたが、イ山はイ山、浄瓶は浄瓶でバラバラにしたからです。問いの答えを悟りとして了解できても、一体化できず自分の関心事である蹴飛ばし行為で心持ちを現しました。
もしここで浄瓶と彼とが一体であるなら誰が蹴飛ばすでしょうか。元の場所に戻し、今はなにもない浄瓶の置かれていた空間を蹴ればいいのです。
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無門関 四十一、達磨の安心
達磨が坐禅している所に、雪中に立った二祖慧可が「悟れないのでどうか悟らせて安心させてくれ」と言って、自分の腕を斬ってしまった。
達磨は「安心させるから心をここに持って来なさい」と言った。
二祖曰く、「心を持って行こうとしたけれど、その心が何か不可得だ(心が見付けられませんでした)」、
それを聞いた達磨は「お前に安心させたよ」と答えた。
無門曰く、「歯の欠けた老師、印度より十万里を経て中国に来て、仏教界に風も無いのに波を起こした。本来の面目は達磨の教示なくても各人具足のもの、最期に門人を接得したが、その門人も腕を切り落とした不具者だったが、達磨は不立文字の四字を識らず。」
※
心を求めても分からない、心というものは分からないもの、実体がないもの、分からないことを分かろうとするから悩む、コロコロと変転止まないものに安定を求めても不可能なこと。
それを知るには修行の途中で答えを出そうとしても無駄、分かろうとして努力したけれど、どうしても分からない、迷ってもそれが当たり前だと知る、その時に初めて解脱できる。
空は求めなくては分からない、求めている内も分からない。
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赤ちゃんは乳を呑みウンチおしっこをすればすやすや、算数の宿題も漢字の読み書きも全部やったし安心して遊ぼう、これらは実現してしまえば安心できるものです。
二祖慧可も佛教の勉強の疑問は全て解いて安心していたのです。
現在所有してしまえば終わるもの、欲望や知識等は得てしまえば安心して終わる物です。知識の捜し物も繰り返してまた出てくるものですが見つかった時点で前の問題は終りです。
安心できない心も概念と照らし合わせて知性的に説明できれば終りです。
二祖になる慧可が学問的には説明できないものはないのです。心の体系も安心の構造も皆分かっていることです。その二祖慧可が分からないというものは知識でないものです。概念記憶に比類がないものです。それがたまたま公案では安心でした。好きでも愛しているでもどんな感情でも同じでしょう。
安心も不安も愛も大好きも学問的には、静的でなく固定的でないとし、架空のものとし、本当はお化けとし、等々と解説にあります。はたしてそうでしょうか。悟り、師匠の教えは、静的でなく固定的でないとし、架空なもの、お化けだよと言われて納得するならいいでしょう。教えが分かったところで心持ちが分かったわけじゃないし、理屈を納得しても心が納得したわけじゃない。
しかしそこには知的に分かる安心というものがあります。分かるとか分からないとか相変わらずいい加減なことを書いていますが、公案のように次元の違う話を混ぜるとこうなります。人の心は意識的にも無意識的にもこうした次元の混ぜ合わせや自由な上下の行き来や飛躍ができます。ウの欲望次元の話をオの知識次元の話にしたり、オの知識次元の話をアの感情宗教次元の話にしたりすることです。
公案は全部アの感情、宗教次元のことをオの知識次元で話していてオの次元にるものに解答を示せといったり、知識了解から知識の感情了解への道を問うものです。心の次元には上下の低位から高位に向かう五重の塔、五層の重層構造ですからその構造を無視して答を要求する形をとるものです。
心の構造はウ-オ-ア、となっていますが、禅の悟り、宗教等はこのアの次元にいます。こころは更に広いものでまだその上に、エ-イ、の心の世界がありますが、下から上位を窺い知れないようにアの悟りからはエ-イ、の次元は知り得ません。
しかし心は別別の次元を作っているのではなく底辺にあるイの想像意思の心によって連結しています。
この自由意志の行いがあるため次元の違うことをわざと取り違え自由に取り違え、わざと聞き違え自由に聞き違えることができます。
理知的な安心の問題を二祖慧可は既に解決していて誰にでも話解くことはできますが、その次元から上位の感情での安心を得られないというのです。それは上位のものを引き下げて理知の次元にあるとしているからから、もともと無いもので、幾ら探したところで勉強したところでこちら側にはないものです。
達磨はあっちにあるものをここに示せといったのですが、最初から次元世界の違うものをごちゃごちゃ言っているだけだといえば腕を切ることもないのです。しかも次元世界ごちゃごちゃ言うことは日常生活で普通のあたりまえのことで、取り違えや自由解釈などは誰の会話にもあることなのです。
こういった当たり前の人の普通な性質を教えて上げないで腕を切り落とさせるまで待たせるのが座禅宗教です。最初から知的な了解と感情の了解の仕方は違うことを教えて上げればこんなことにはなりません。分かる心の次元がありその部分から、別次元の心を見ていると、下から上の心は見られないけど、上から下は、知的理性的も下の次元である欲望充足を求める心とか社長、大臣になりたいたべたい金が欲しいとか言う心は見え見えで直ぐわかります。
ところが感情的な知的理性的でない心は幾ら知性を持ってしても解けずに分からないものなのです。感情が知性とは同じ次元にないからです。たったそれだけのことです。しかし、感情は好き勝手にいつでもでてきますが、出てきてくださいとお願いしても言うことを聞きません。もちろん修行を積んだところで変わりありません。
そういった感情の性質をわざわざ悟りだとか大げさに決死の覚悟がいるとかいってきました。しかもその上がまだあることを棚に上げて見ない振りをし、見ることができないから無いとし、自分の位置が最高だとして人生の目標にすり替えてきたのです。
既に悟りの構造はわたしのように悟らなくとも誰にも分かるようになりました。もう悟りという言葉にびくびくすることもありません。日常生活が毎日悟りの連続となっています。ただ自覚していないだけです。その実践悟りの自覚する方法は宗教が千年以上も蓄積してきました。人類のため日本のため早く公開してしまえばいいと思います。
感情は自由自在に勝手に振る舞うようですがそれなりの経過があります。突然に出てくるように見えますがそれ自身の持続の先に開いたものでしょう。持続した意識の先に出てくるものでそのままにしておくなら生成消滅も自然過程になります。
そこで自覚的に持続を作り出し自足した意識を保持していく方法を適応して主体的自覚的に悟り感情へ導くのが座禅ではないでしょうか。公案には言葉のやりとりの途中で悟るということがよくでてきます。これも常日頃から持続させた意識が師の教えによって触発され開いたもので外見上は突如と見えるだけです。
『 心を求めても分からない、心というものは分からないもの、実体がないもの、分からないことを分かろうとするから悩む、コロコロと変転止まないものに安定を求めても不可能なこと。
それを知るには修行の途中で答えを出そうとしても無駄、分かろうとして努力したけれど、どうしても分からない、迷ってもそれが当たり前だと知る、その時に初めて解脱できる。
空は求めなくては分からない、求めている内も分からない。』
「不安の種」をもってこい。それは不安の種を見つけてくることです。不安の元探しを始めてください。
達磨が「その"心"をここに持って来い」と言ったのに対して、二祖が「心不可得」
(心が見付けられませんでした)と言いました。
その「心不可得」の一言にこの公案の答えが秘められています。
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無門関 四十二、女子の出定
昔、ある時世尊の所に文殊菩薩がやって来て、丁度諸仏の集会が終わって、各々帰るところだった。その時一人の女人が仏座の傍で禅定三昧に入って帰ろうとしなかった。
文殊は世尊に「何故、女人は仏座に近づくことができて我々は出来ないのか」と問うた。世尊は答えて、「汝が女人を三昧から覚まして直接聞くがよかろう。」
文殊は女人の周りを三度巡り、指を鳴らすこと一下し、梵天に連れて行き神力を尽くしてみたが、出定させることは出来なかった。
世尊が言った、「たとえ百千の文殊を集めても出定させることはできない、下方十二億恒河沙の国土を過ぎた所にいる罔明菩薩が女人を定から出すだろう。」
直ちに罔明菩薩が地より湧出して世尊に礼拝し、命ぜられた通りに女人に指を鳴らして一下すると、忽ち三昧から出た。
文殊は智慧の仏として有名ですね、であるのに定から出すことができなかった、仏の位からすれば下の位の罔明菩薩が忽ち定から出すことができたのは何故か。
世尊は遊び心で文殊に言っただけで、女人を定から出そうが出まいがどうでもよいこと。ただそれだけの話ですが、何のための公案なのかよく分かりませんね。
よくよく読むとどうやら、諸法空相、諸法実相のことを謂っている、諸法空相は人間の知情意が起ころうとしている状態で、智慧の文殊が働く所は空相から現われる実相の方。
人間の業縁は知情意の働きではどうしようもないことで、女人とご縁があったのは罔明菩薩だった。実際の世の中のことは縁者しか解決することが出来ない。家族間の問題も縁のある者でなければ解決しない。
どんな叡智であっても分からないことは解決しようがない。そんなことは当たり前のことですけど、文殊が出来ず罔明が出来たのは単に因縁の違いだけであって、それが文殊の個性であり面目であるからそのまま風流だということです。
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文殊は『七仏の師』といわれる尊いホトケ。
罔明菩薩というのは菩薩修行の初心者にすぎない。
いわば上の上に問題解決ができなくて、下の下に出来てしまう物語。
女人をして妄位の禅定、寂滅禅定という疑似禅とさげすまない方がいい。自分を数量物量単位で考えるとこういうことを言い出す。
ラーメンを食べている人に、ラーメンの話を持ちかけた時と、偉い坊主が悟りの話を持ちかけた時の違い。実相での次元の違いは話にならないということ。偉い坊主も馬鹿にされる。
山に登るのもふもとから登って来たのを忘れて、自分が高みにいても下を見られない例です。せっかく修行して下位次元を脱してもなんにも役立たない。眠りの一つも目覚すこともできません。公案での話は女性の禅定ということですが何でもいいことです。
下の下と上の上がいて上の上が無知無能蒙昧をさらけ出しました。馬の耳に念仏というのがありますが、かいばや人参も上げられないのです。これが最上の知識を持った者のあり方です。
どんな例を引用しても構いませんが、もう一つ、つまり理性知識一辺倒、不立文字信仰、無門関は不滅の公案集、等々が禅定になることだってあるでしょう。下位次元から見れば煮ても焼いても喰えないものをというところです。同次元の話ならば、論争議論我が見解こそが一番、こういった主張になります。
では悟った人はどうするのか。ラーメン食べる人を横目で見ながら知者へのお説教です。
下の下の菩薩はどうやったか、指を一回鳴らしただけでした。座禅中で眼をつぶっていますから音に訴えたわけで、ラーメンの香りでも構いません。五感感覚次元と同じ次元となら簡単に折り合い接触交渉ができるからです。
下の下ができた理由と上の上ができなかった理由
罔明菩薩は最低喰って生きていくだけ、欲望の充足があればいいだけの菩薩。文殊は最高の智恵を持った菩薩。それぞれウの次元の五感感覚による欲望の取得を目指し、オ次元の知識記憶理性による概念の取得を目指す。
この二者の登場人物に対応する女人がいることになります。
五感感覚の欲望次元にいて罔明菩薩に応答する女人と知識概念次元にいる女人です。一応別別の次元にいる女人がいるとしておきます。
こうすると文殊が眼をさませなかった意味がでてきます。
違う次元でのは話し合いはできないというのは既に示しました。ここでは同一の土俵にいる時に噛み合わない場合です。
文殊、女人ヲ遶(メグ)ルコト三匝(ソウ)、指ヲ鳴ラスコト一下ス、乃チ托シテ梵天ニ至ッテ其ノ神力ヲ盡セドモ出ダスコト能ハズ。
女人を理解しようと外面内面分析し帰納演繹、総合正反合等あらゆる理知を繰り広げました。しかし眼ざませることができませんでした。何故でしょう。簡単なことです。女人の現在に到達していないからです。文殊のもってしたことは過去記憶概念による操作でした。それによって現在の女人を計ろうとしていたに過ぎないのです。
これは一般的な解ですが女人が文殊することを理解していたとすると、文殊に答えないという形になります。同じ土俵上で相手に答えない時は、文殊のそれぞれの問いに同調がとれないからです。
文殊はを見て疑問を感じても女人はその行為の中にいるのですから疑問を受け付けません。
次に文殊は自分に蓄積された知識全体に問いますが常に過去概念に問うことなので現在の女人の後を追いかけるだけです。
次に知識全体に照合して今に統合されるような理論考えをしようとしますが、女人は女人の経験にあるのでその経験までカバーできません。
次に文殊は表現できるもの相手に知らせられるものを自分に探し組み立てますが、女人は聞く耳を持ちません。香水なら気を変えるかもしれませんが。
次に文殊は表現できるものが相手に到達するものと心に決めていきます。しかし女人は禅定にいることが女人に決められたことなので文殊ことなど見向きもしません。
次ぎに文殊は決めたものを実行する名目を自分に立てます。女人には文殊の名目など彼のものというだけです。
こうして文殊は行動します。「もし、女人よ。おい、女人や。やい、女人」女人はその言葉の意味が伝わりません。
こうして文殊は次の手を考え探しますが、女人はもう殆ど眠っています。うるさい文殊にうんざりしています。あるいは同意せず反対のこと、ろんぱくはんぱくすることなど、あるいは単に自分の態度を保持することなどを思っています。
ここで文殊はいろいろなことを次々考え知性を傾けますが、女人には通じません。
あんまりいい例じゃないですね。
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無門関 四十三、首山の竹箆
首山和尚が竹箆(竹べら)を掲げて衆僧に示して言った、「これを竹箆と呼めば、名称に囚われる、竹箆と呼ばなければ名称の無視になる、さあ、お前たち何と呼んだらいいか、言ってみろ。」
無門曰く、「言うわけにいかない、言わないわけにもいかない、さあ言え、さあ言え。」
※
第四十則のてき倒浄瓶と同じことを言っていますが、あちらは足で蹴飛ばして答えましたけど、こっちは「言え、言え」と。どうしようもないから「渇!」とでも言ってしまうか、横っ面をぶん殴るか。
こういうのを「両刀を裁断すれば一剣天によって寒し」、言ったらどうなる、言わなかったらどうなる、それで迷ってしまう。それでどうにもなるものではなかったら、パッと切ってしまえば両方とも。そうすると真ん中に天地に通じる大刀が立っている。
竹箆(しっぺい)と言う言葉に縛り付けている、お前も縛られている、汝言え!とでも言ってもいい。そうしましたら相手もこいつは知っているな、ということが分かる。
どうしてこういう言葉が言えるか、自分が自分を縛っているものを払い落とせば、ぜんぜん面識のない人に「こんにちは」と声をかけられたら、「こんにちは」と返しても、「誰だったかな」と一瞬いぶかしく思うはず。
竹箆(しっぺい)だから、竹箆(しっぺい)と答えたと同じこと。そういう時に自分が知らない人に対して、何の疑問も感じずに答えることが出来るか、それを心の中で見つけなければならない。
それが禅なんです、「こんにちは」と戸惑いの返事は心の中に迷いがある。道すがらに突然知らない人に挨拶されたらね、誰だって頭の中を駆け巡るでしょ、それが言霊オ。知った人でも知らない人でも大きな声で「こんにちは」って答えられるのが言霊エ。
だから問答は斬ったか、斬られるかの真剣勝負です。禅は剣を交えての勝負ではなくて挨拶一つで勝負するのですから、一瞬にして悟りがどの程度進んでいるのかが分かる。
---- http://imakoko.seesaa.net/article/117436328.html からの引用でした。---------------------
禅は禅体験を最高としてしまうと自分の体験を表現することができません。悟り体験を説明しそれを名付ける命名という言葉の創造行為が上位になってしまうからです。
しかしこれも悟り体験者たちの変な地位独占というか地位保全欲から起きているもので、不立文字などという言葉を発明してまでも自分を守りたいからにほかなりません。
不立文字というのは単に悟り体験の下位次元に向かう時に不立になるだけのことです。不立に意味がもたらされてるのは上位からきています。
日常生活経験では悟り体験と同じ構造を持つ、感情の表現が普通に行われています。
朝日の昇り立つのを素晴らしく綺麗という時、自分の感情を言葉で説明できませんが、過去概念経験記憶知識で現在を説明できない悟りを得るとかいうことと同様のものです。では日常ではその後どうするかといえば、社会的な共同的な行動を呼び覚ますのです。
例えばこの呼び覚ます為に文字、言葉を使用します。その時は自分の心の説明できないものを分かりつつ直接得られたものの共有を相手に選択させるように働きます。その場にいる人には声をかけ指で指し示し、手紙でなら相手が同じ行動を選択するように自分と一体に成った行動の喚起を綴ります。
これは禅などのように単なる自分の心説明ではありません。自分の心を主眼としたものではなく、体験した一体性を主眼として相手に行動喚起を呼びかけるものです。自分の心を説明するには不立文字ですが、相手の行動を喚起するには共立文字です。
「見て見て、キャアーきゃあーワーワー」というのは自分の心の説明でなく、共感を共有しようというもので、以心伝心を誘うものではなく、その人なりの言語表現となるものです。
これを逆に見ていき、公案を分かる方向に了解しようとするのを、分からないことを分からないとして共有共感してもらうようにすることもできます。この場合も分からないということを説明するのでなく、分からないという感情そのものを共感してもらうことです。
子供はこの事を天才的に了解していますので詳細を語りません。大人はどこがどうしてどんなふうにと時間場所限定された状況を知的に欲してきます。もし子供が限定された部分を示すと大人の関心はそこだけで終りになります。うまくいかなければ次の限定部分に移ります。子供の智恵はそれを見抜いていますから甘えるには不明瞭な全体状態でいることにします。こうして子供は勝ちます。
公案は分かる方向にしか見ませんから、子供の実践の智恵がありません。これは悟り禅に限らず、宗教全般にも同じことが言えるようになります。自分の心、自分の宗派教団の教えだけしか見ず、全体の共感共有を求めて社会性を選択させることが宗教にはありません。子供の智恵はそこにいるどのような大人も引きつけます。
子供はわけの分からないことをそのまま表現して成功させるのです。自分を説明しようとする不立文字など必要としていません。
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無門関 四十四、芭蕉シュ杖
芭蕉和尚が衆僧に示して言った、「汝にシュ杖子が有るなら、我汝にチュウ杖子を与える。汝にチュウ杖子が無いなら、我汝のチュウ杖子を奪うぞ。」
無門曰く、「このシュ杖子にたすけられて橋が落ちた河を渡り、月の無い暗闇の村へ帰ることが出来る。シュ杖子に形が有ると思うなら、たちまち矢の如くに地獄に堕ちるぞ。」
※
マタイ伝に同じことを言っている箇所がある、「この故に汝ら聞くことを慎め、夫れ持てる者は与えられ、持たざる者は持てりと思うものを奪はる。」
たすけては、それを思っていればという意味、そのシュ杖子を以ってすれば。シュ杖子とは判断力のこと、その判断力というのは自らが身に付けたものじゃなくて、生まれた時から授かっている、それが無いと見つけられないのなら、もっと奪ってしまうぞ、有ると思っている人にはどんどん与えよう、有無を問えば、有って当り前、でも無いとすれば、どんどん奪われてしまうぞ、ということです。
シュ杖子は根源の力ですから、世の中にこれ以上頼りになるものはなく、これのみが頼みとするに足る唯一のもの。人が判断をする是非善悪、利害損失、愛憎好悪、経験知で判断せずに、それをも活用して運命を切り開いていく。
逆から説明しますと、シュ杖子は無ければならない、然し有ってはならない、無ければならないのは人間先天本具のシュ杖子、シュ杖子とは杖のことですから、有ってはならない杖に頼るのは、信念、主義、信仰、教義などの経験知。
そうした杖に頼ろうとして何も用をなさないものだと分かった時、頼るべきは自主自律した無ければならないチュウ杖子だと分かる。持っているとしても借り物であればその杖を奪われ、持たずしてひたすら求める者に与えられる。
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まるで金銭、肉体みたいだ。
利用使用するもの、所有するものはこういった運命。
だから知識も同じことで、有用性、使用価値を得るものは全部そうなります。
無地無色透明が維持できればそういうことにはなりませんが、少しでも反省の心が付加されるとそうなります。白紙に何かを書けば書いたことは増えるが余白は狭くなります。爾に杖有ラバ、我レ爾ニ杖ヲ与エン。爾ニ杖無クンバ、我レ爾ガ杖ヲ奪ワン。
これが知識になると、概念記憶がどんどん増えていきますが、その得た概念に規定されて頭の融通をさを失います。絶対これだこれしかないという塊しか出せなくなります。
赤ん坊は白紙でいられる間は無限無数に得ていきますが、ものの判別が付いてきますと、その判断に禁止が加えられます。好き勝手なことができず、その家風、社風、集団、国の習慣の中に落ちていきます。不立文字だなどといってそこから抜け出せないのも同じことです。
禅の勉強をしてそれを極めても山頂に座るしかなくたまに下界に降りてきても分からないことを言うだけです。
この理性知識は偉大なものです。今までのどのような問題も解決してしまいます。
ただこれから起こる現在ある問題に手が出せないというまるで駄目なものでもあります。今これから起こることに何もできないので木偶の坊といわれていくでしょう。
さて使用できない知識ならとっとと奪われて早く身を軽くした方がいいのです。
では金銭を得たい、肉体を鍛練したい、知識を得たい、悟りを得たい、という欲望そのものはどうでしょうか。
欲望は所有されるかされないかが問題です。利用価値だとか有効性だとかを問いません。今ある欲望が今あればいいのです。欲望がどこからきてどうなるかに何も自覚はありません。
知識は欲望の内容を知ることです。関心に応じてシュ杖子はなんであるかを知ることで、過去の概念で説明できればいいだけです。知識がどう出てきたかの自覚もなく、得たものがどうなるかの行方も知りません。
過去の全歴史を引き連れて何であるかは分かりましたが、現に保持実在しているのを示してはいません。欲望は現在だが知に関心はなく、知は現にあるものに疑問を持つが過去からしら見ることができません。
そこで現にあるものを現在のままに見ることが感情次元での了解になります。現在は過ぎ去り行くものですから、現在あるものを維持保持して現有化し続けることになります。現にあるものの保持ですから現在の自覚があります。
欲も知識も常に前へ進むことによって獲得する性質がありますが、現時点に立つ感情領域の保持は了解した途端に過去へと引きづられてきます。そこでこの次元の特徴は後ろへ、退歩して現時点を維持しようとするものです。座禅悟りもその一つになります。
ここまでで何とか現在をつなぎ留めておくことができるようになります。以上の三種はそれぞれ勝手な自己主張によって自分の存在を現します。これが生存競争の社会となって増大と不幸をもたらしてきました。
しかしここには未来がなく、これから何をどうしたらがありません。ものを落とさないように保っているだけです。それが宗教悟りの与えられた役割です。
次ぎに生きてあるものを如何にどうするかの次元がきます。宗教、悟りにはない次元です。
前三つ次元を総合し方向を指示します。前三者の勝手な個人主義性を社会共同性の中で選択方向を与えます。無自覚な現れでしかありませんが今までの政治、道徳が仮に牽引してきていました。
信念、主義、信仰、教義などの経験知などの勝手な主張の元に世界が廻っていたのです。それらの間には相剋協調疑惑葛藤が起こり、その時々の状況によって肉体武力によるか、知識陰謀欺きによるかで問題を解決してきました。
近年はそれらの解決法では何の力もないことが広範に知れ渡っています。
三千年続いた武力による歴史も既に終わったという予感が誰にもあります。
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無門関 四十五、他は是れ阿誰そ
東山演師祖曰く、「釈迦弥勒は他人に過ぎぬ、然らばこの他人とは一体誰なのか」。
無門曰く、「もしこの他人が誰なのかが分かったなら、十字路で親父に出会ったようなものだ。他人に向かって彼が親父かどうか問う必要はない」。
頌曰く、「他人の弓を引くなかれ、他人の馬を駆るなかれ、他人の非事を気にするなかれ、他人のことをしるなかれ」。
※
自分が釈迦弥勒なのであって、それじゃあ、他人の釈迦弥勒って何だ、それを求めるのは次元オの釈迦弥勒、勉強している釈迦であり、弥勒であり、教えられたもの、それに頭を下げて何になるんだ。
お前自身が釈迦であり弥勒であると自覚するまでは追究をゆるめるな、砕けて言えばそういうことになる。他の釈迦弥勒がハッキリ分かったならば、他人に聞いて釈迦はこう、弥勒はこうと聞く必要はない。
知ってしまえば、自分の心に問うて、弥勒だの釈迦だのと区別することはなかろうに。なかなかそのように聞かれると「釈迦は俺だ」と言えないでしょう。断言出来るまではあーでもない、こーでもないという。
知識で釈迦や弥勒はお前にとっての釈迦弥勒じゃないだろうと言う事です
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東山演師祖日ク、釈迦弥勒ハ、猶ホ是レ他ノ奴。且ク道ハ、他ハ是レ阿誰ゾ。
わたしを中心にすると、
欲望、知識、の釈迦弥勒までがわたしの家来
感情、の釈迦弥勒はわたしの友達
選択、の釈迦弥勒はわたしの分身
意思、の釈迦弥勒はわたし。
釈迦弥勒は過去現在未来のことでつまり何時でもということとすると。
欲望、知識、の釈迦弥勒・何時でも・がわたしの家来
感情、の釈迦弥勒・何時でも・がわたしの友達
選択、の釈迦弥勒・何時でも・がわたしの分身
意思、の釈迦弥勒・何時でも・がわたし。
もう一つ
釈迦弥勒の欲望、知識、までがわたしの家来
釈迦弥勒の感情、はわたしの友達
釈迦弥勒の選択、はわたしの分身
釈迦弥勒の意思、はわたし。
最後に、「他」からみると
釈迦弥勒の欲望、知識、の空相は私と同じ「他ノ奴」
釈迦弥勒の感情、の空相は私と同じ「他ノ奴」
釈迦弥勒の選択、の空相は私と同じ「他ノ奴」
釈迦弥勒の意思、の空相は私と同じ「他ノ奴」
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無門関 四十六、竿頭、歩を進む
石霜和尚曰く、「百尺の竿頭からいかに歩を進めるか」、
又、古徳曰く、「百尺の竿頭に座って悟りを開いても未だ真ではない、百尺の竿頭から歩を進めて、十方世界に全身を現せよ」。
無門曰く、「竿頭から歩を進め、身を翻し得たなら、何処であろうと嫌う処はない。尊くない所はない、だが、いかに歩を進めるか」。
頌曰く、「大自在の第三の眼を見開くと、却って百尺の竿頭が禅の定盤星如くに思えるが、身を捨て命を捨て、衆人を指導引率し誤まりなくことを期することが出来る」。
※
どの公案も同じことを言っております。一つの公案が分かればすべての公案が解けますから。
百尺竿頭に胡坐をかいたところで悟ったとしてもまだ本当じゃないよ、東西南北上下の十方世界、ということは全宇宙にその身を現ずるようになりなさい。それには竿頭から歩を進めなければならない。
眼をつぶって覚悟して飛んだとしましょう、即、和尚さんに「渇!」とおっぽり出される。何故なら、飛ぶ勇気があるとかないとかじゃなくて、飛ぶ時に「おっかない」と思うでしょう。
ここで言葉を足さなければならない、何にもしないことと同じですから。竿頭とは何か、「竿頭なんてないじゃないか、それは自分の観念でしかない。だから歩を進めることもない、即ち今ここが竿頭なり」と答えたら。
今ここ、常に百尺竿頭なし
偉いお坊さんに答えたらどうなんでしょう、ぐうの音も出ない、そのように答える人は誰もいないでしょうから。飛び降りる、飛び降りないということは仮定に過ぎない。
坐禅の勉強をしてきて、常に今ここの百尺竿頭に居るじゃないか、今ここから離れることは出来ないことを知ったならば、飛び降りることもない、百尺竿頭もない、常に歩を進めているだろ?ということです。
それをどう表わすか、今言ったように答えるか、「須らく竿頭なし、翻ることもなし、何をふざけた問いを出すのか」、そう答えたなら誰からも尊と呼ばれるよ、百尺竿頭に登ってしまえばこのように言われる他にない。
でも、百尺竿頭は悟ろうが悟らなかろうが「今ここ」なわけです、百尺竿頭というのは「今ここ、常に百尺竿頭なし」と答えたら、飛び降りることもなし。同じような場面でそれを言えるかどうか、明日になるとケロっと忘れる。
その竿頭どこにある?
私は小笠原先生から教わったことはないですけど、自分で「わかった!」としても、自分が理解できたのはどういうことだったのか、次の日にはまったく分からなくなる、それは今ここの心を閉ざす何か。
それは百尺竿頭って何だとする心、問いに限定されてしまう。問いに対しての答えですから、33m上の棒の先から飛び降りろと言われても答えられないのが当たり前。死ぬこと承知で飛び降りたら馬鹿ですよ。
でも、そこで足元を見て、人間というのは昨日から今日に来て明日に生きるというものじゃない、常に今ここに生きている、昨日も明日も今の思いにだけにあるもの、飛び降りる、降りないは関係ない。
竿頭なんてありゃしない、でも和尚さんに言われるとあるように思う、所謂、固定観念からあるんだろうなと思い込んでしまう。和尚さんに歩を進むべしと言われたら、カラカラと笑って「その竿頭どこにあるの?」と答えたら、そういうことかと分かる。
経本を読んでしまうと、そこに書いてある字を星と呼ぶ、その星を認めるということは書いてある内容を勉強することになる。それは理屈なんですから、そこに頼ってしまうと身を捨て、命を捨てることになってしまうよ、真実はなくなってしまう。
禅の教えから一番遠いところに行ってしまう。何か本を読んで書かれている内容に自分が感服して自分の考えとしたら、人間はその時から眼が眩んでしまうよということです。
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「百尺竿頭、というのは修行者の登りつめたところ、サトリの境地のことと考えるらしい、可能だと思うことの限界、まわりには空間しかない、竿の先にしっかりと座り、全てから自由な自分を得た、講習中の旗竿の先、講習内容の全部分かったその先のこと、、、」、
なんて言うのがありましたが、無門関は悟った人を相手にまだ先があるよなんてそんな野暮なことは言いません。というよりわれわれ相手です。
東京タワーの上から飛んでみろというと実際登れるものですからそんなことは言えません。さお竹の先っぽに設定が変更になっています。旗を立てるかパンツを乾かすぐらいのものです。嘘をホントらしく聞かせるのがコツとなっています。
真面目に本当に行為することを言っているのでしょうか。禅には行為の世界などないのに疑ってしまいます。
頌に曰く
頂門(頭の上)の眼を瞎却(かっきゃく。目が見えず、くらくなること。)して、錯(あやまって)って定盤星(じょうばんじょう)を認む。身を拌(す)て能く命を捨て、一盲衆盲を引く。
これはもう無門関という書物を指したものとしてしまうほうがいい。金科玉条はここにもあります。無門関ナンバーワン。不立文字ナンバーワン。以心伝心ナンバーワン。ナンバーワンアズナンバーワン。
無門関を玉条本にしてしまうことを戒めています。
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無門関 四十七、兜卒の三関。今ここ。
兜卒(とそつ)悦(えつ)和尚は三つの関門を設けて勉学者に問うた、
一、すべての迷いのもとである煩悩を祓う人間の悟りの根源に入るには、ただ自らの性を見ることにある。只今の君の性は何処にあるのか。
二、自分が何かを知ったならば、眼をつぶって死んだ時、如何にその生死を脱し得るか。
三、生死がどういうものか分かれば、死んだら何処へ行くのかが分かるか、地水火風(心身を構成している)の四大要素が分離して何処へ向かっているか。
無門は曰く、「もし、三つの問いに答えることが出来れば、随所で主となり、縁ある宗派に従って宗師になるだろう。答えを未だ然らずんば、粗末簡素な食事は飽きやすいが、よく噛み砕いて食べれば飢えることはないだろう」。
頌曰く、「今ここの一念の中に過去や未来の全てがこもっている。今ここに於いてそれを見破ることが出来たなら、自分が無量永劫に立ち、同じく永劫に立つ者の心が分かる」。
自分の本性が何であるかを知ることは勉学者にとっては同じことの繰り返しで飽きやすい。それでも噛み砕くように勉強していけば、修行の種は尽きずに悟りの道を行くことになるだろう。
この三つの関門は無門関の総結論、これが解けたら無字の卒業ということになります。
あえて、説明いたしません。ご自分ならどう答えるか・・・ヒントを申し上げるなら、無門関に共通しているテーマはただ一つです。
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頌に曰く、一念普く觀ず無量劫、無量劫の事即ち如今。如今箇の一念を観破すれば、如今観る底の人を観破す。
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人の精神性能が五つに分かれていることを示したのがアイウエオの五次元で、その教えを受けたのがインドの五大、中国の五行、聖書の五天使などになっていきました。それらの大本は古代大和に定着したフトマニ思想(現在は言霊学といわれている)ですが、フトマニもどこかの(チベットあたりの)高原地帯から八千から一万年前あたりに伝えられたようです。
佛教思想も五行思想も古代大和のフトマニ思想から学んだものですから、人の心を知るにはフトマニを学んだ方が早道で、わたしみたいに悟っていなくとも大体の悟りの構造と悟りから上の次元があるということは分かるということもあります。
しかしフトマニ学は現在教える先生も人も本もありません。わたしの知っている限りでは、古事記の神代の巻がフトマニ学の正式の教科書で、それを解読された方が島田正路氏で、その教えは言霊の会に継承されているそうです。
それら一切をひっくるめた大本が八千年前のスメラミコトで、神武崇神による原理の隠匿の開始より、フトマニ原理の形だけを真似た神道、天皇家による伝統の維持という形にして現在に至っています。
フトマニの原理とは現在で言えばアイウエオ五十音図のことですから、速い話天皇というのはアイウエオ五十音を理解使用できる人のことをいいます。全て神道と天皇の思想、行事、存在等はアイウエオ五十音図の理解を示唆したものです。
しかし崇神以来フトマニ原理は隠されていますから、島田正路氏お一方がそれを蘇らせ、
http://homepage2.nifty.com/studio-hearty/kototama_ver.1/
に発表されています。
つまり、現神道、天皇は形骸だけを保持維持しているので、スメラミコトの内容は無いのです。
そこで、天皇へのかえりごとが行われるというアナウンスがネットにありました。フロントページ。
http://wiki.livedoor.jp/niwaka368/
さて、三関を答えなくてはなりません。
答は、今ここです。正確には今です。より正確にはイです。
今ここというと現在では時間意識が今で、空間意識がここというように分離してしまう可能性があります。昆虫探しをしている子供が叫びました、かぶと虫がイタぞ。友達と遊んでいる内に物を壊してしまいました、お前が謝りにイケ、二人でイコウよ。刺を踏んで足がイテェ。わたしはここにイマス。これらのイを含む表現でのイは、時間的には今、空間的にはここであることをイの一言で示しています。
不立文字も以心伝心もすっ飛び越えて、はっきりした言語表現でもって、自分の全存在全時間イマココの自分を表現しています。
これは言語学の言うようにイという発声表現が何かを指し示しているのではありません。自分の精神世界そのものの表現なのです。自分の存在と自分の時空と相手の存在と相手の時空とが一致していて自他ともに一言で実在とその内容を現す最高の言葉です。あなたは今ブログを読んでいます。読んでいるあなたがイマス。このイの中に何がある試しに探してみてください。
イ。
イの表現は古事記でもやはりイで伊耶那岐、妹伊耶那美の一対で表現されています。
イのサナギ(蛹)がイザとイザナわれて出て来るということになります。
イのサナギはイの間(居間)にいて、イマ(今)まさに繭を開けるところです。
繭の奥にはサナギがイますが、サナギはサのなぎ(凪)でお声がかかるまでは凪です。とはいってもいつもいつも怪しい誘う乙女であるイ・さなみの誘う状態です。
サは一定の方向に向かって浸透していく音、実体現象、み(実)、実体内容、き(気)を示していますが、イザナわれるまでは凪(なぎ)状態です。何かが向こうからやって来て聞き取り得た分かったという時、自分の中にあるものの表面が更に先(サキ)を目指し(サス)自らの性(サガ)を咲かそう(サ)かそうと指して(サ)いく意識がサで、イのサがうごめいてはいても治まっている状態です。
ナは現象となるものの自己主張である自らに名(ナ)を持つことでそのことによって自らを現象化させます。イの内容を、今の内容を、サの一定方向へ、いざなわれる方向へ、表出現象化しょうと選択されたものに名を付けて、中身を綯い(縄をなう)、鳴き、成り、流れ、名となるのです。
禅でいう不立文字というのは本来は嘘で、過去経験概念次元での名が無いだけで、その知識知性をもっしても下位次元では説明できないことで、悟った次元においてはその体現内容をサトルという言葉で発せられます。
下位の知識経験概念次元からは説明しきれないけど、悟り、サトル、サを取るというはっきりしたサの自他との実体と内容は得ているので、(サ、精神、意識において、一定方向の実体験、理知の感情的な了解の世界) それをサを取る、と表現しています。
伊耶那岐は主体側の働きですが、自らの内に受容側の自分の実を得る実質を含んでいます。ですので伊耶那岐は自らの動く根拠を自分内に抱えているから自分を実現できます。
伊耶那岐のイは自分であり相手であることと相手の内容が自分であることを自覚できるイです。
自分がイマイルという言葉の感情感覚を得ることが答ですが、問いに応じて所作であったり言葉であったりになるでしょう。
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無門関 四十八、乾峯の一路
乾峯(けんぽう)和尚にある僧が問うた、「十方の仏(薄迦梵=バガボン)の中に涅槃に到達する道(悟り)はただ一つであると言うが、一体何処にその道はあるのか」。
乾はシュ状を拈起して空中に一字を書いて曰く、「ここにある」。
後にこの僧が雲門和尚にも問うた、門は扇子を拈起して曰く、「扇子が飛び上がり三十三天に上って、帝釈天の鼻腔に当った。また東海の鯉魚を打つこと一棒すれば、雨が盆を傾けるが如くに降るようなものだ」。
無門曰く、「乾峯は深々たる海底に行って高々たる山頂の道を示し、雲門は高々たる山頂に立って白波を天に掲げた。共に宇宙の中に大現象を起した。仏の道に入ることは、高い山頂に立ち海底の水をばら撒くことが出来るし、海底にいながらその砂を天にまで吹き揚げさせることが出来る、共に宗乗の意義を立てたが、この二大老未だ涅槃の一路を知らぬ」。
頌曰く、「未だ足を揚げないうちに到っており、未だ舌を動かさないのに既に説き終わっている。だが、たとえ着々と人に対して先手々々と制していっても、この涅槃の一路に透入するには更に向上の要関があることを知らなければならない」。
禅を含めて仏教、キリスト教、儒教は教えを説いていますが真理を説いているわけじゃない。真理を言ってはいけない時代の教義なので当たり前なのですけど、だからア止まりの修行でしかないわけです。
涅槃への一路を辿っていく過程の道でしかないので、涅槃とは何ぞやには至らない。
※
無門関の最終公案四十八則は悟りとは何処にあるのかと訊いたら、乾峰和尚が地面に一文字を書いてここだと示した。その時は分かったつもりだったが、雲門和尚にも同じ質問をした。
そうしたら扇子を投げたら須弥山の帝釈天の鼻の穴に突き刺さった、その扇子でバシャっと水を打ったら、東海の鯉が飛びあがって盆を逆さにしたような雨が降ったようなものだよと答えた。
お前が願えばちゃんと通じるものだよと。どんなことをしても仏様はお恵みを下さるよ、無門曰く、「両和尚が言っている事は一緒のことだ。だが、ここにあると者裏に言った事をくさした」。くさしたとは禅宗では誉め言葉にあたる。
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何でそんなややこしいことをするのかって、真理を知らないから、アより上の境地があるということを。でも偉い坊さんが知らないというわけにいかない、現代人に百尺竿頭一歩進めなんて言ったって落っこちて死んでしまうじゃないかって。
無門関の禅箴(ぜんしん)を「島田君、君が説いてみなさい」って亡くなる少し前に言われて、訳してお見せしたら「こんなもんでいいでしょ」って。何が書かれているかっていうと、禅の心得みたいなもので。
規に循い矩を守るは無縄自縛・・・規則や仕来りをただ遵守しているだけなら縄がなくとも自分を縛っている。
縦横無碍なるは外道魔車・・・かといって放縦に振舞うのは外道というものだ。
存心澄寂は黙照の邪禅・・・自分の心があると思って動かなくしようと念を入れ心を鎮めようとする、黙っているだけが禅とは言えない。
恣意忘縁は深抗に堕落す・・・思いつくまま縁を忘れてしまえば深い抗に堕ちる。
惶々不昧は帯鎖担枷・・・目を爛々として道理に暗くならないようにするは自分の首に枷をはめるようなものだ。
思善思悪は地獄天堂・・・善い、悪いを思惑すれば地獄に堕ちる。
仏見法見は二鉄圍山・・・ただ有り難がっているだけでは二つの鉄圍山を見て須弥山見るを得ず。
念起即覚は精魂を弄するの漢・・・念を起して即、自覚したと思うは自分の心を弄ぶ者。
兀然習定は鬼家の活計・・・思いついたことをやったり、習ったことを反省せずにやりつづけるのは地獄に行くやり方だ。
進む時は即ち理に迷い、退く時は即ち宗に叛く・・・進もうとすれば理に迷い、退かんとすれば宗にそむく。
進まず退かざるは、有気の死人・・・進まず退かずならば息があっても死体の人。
且く道え、如何か履践せん・・・さあ、如何に禅の道を踏み行なうことが出来るのか。
努力して今生に須べからく了却すべし・・・努力してこの一生の間に卒業せよ。
永劫に余おうを受けしむることなかれ・・・永劫に迷いを受けることなかれ。
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諦めることは明かに見ること
概念で物事を捉えようとするとこういうことになる。今の時代に適応しないのですね、もう禅てい自体が。矛盾だらけになってしまってね。禅だけでは世の中治まりませんから。
治まらないことを知っていてするのはそれだけで慢心です。ということは禅宗そのものが陥ってしまっているということです。禅をある程度マスターしたら諦めたらいい。禅なんてものはあてになんないなと知れば。
ただ今ここに自分が住んでいることを有り難いと受け取れるかどうか、それだけのことなんです。受け取れないとしたらどうして受け取れないのか、自分の暗いところに意義を認めてしまうから、その考え方はダメということを知ればいい。
そんなこんなでウロウロしていてもここまでこれたことが有り難い、それか、もう色んな思いを捨てて、今ここにいるということがどんなにありがたいことなのかを知る。禅を一応こういうことかということは必要ですけど、それに準ずることはしない。
------------- 全て引用です。 ---------
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無門関、感想。ありがとう。
仏教の難しい言葉づかい、禅公案のチンプンカンな書き方、それらを分かったような顔して説教する坊主たちの哀れな顔付き、繰り返して喋っていれば知らなくとも年季が入った言葉を使うようになる。99%の高僧もそんな調子のようです。
だからこそ悟りは生半可じゃないとうまい具合に応援を引き入れる。
年季が入って下っ端の羨望の目つきが分かるようになると、悟りは日常に転がっていると言い出す。
ここまでくれば悟った積りで大きい顔をしていれば後は下のものが引き上げてくれる。現代の心理学で言えば、分からないものを有り難がるとか高いものを嬉しがるとかいうものでしょう。
何も分からなくとも一言言っておけば下が勝手に考え唸っている。こうして数千年間が流れました。
これがわれわれ分かっていない者から見たほんの少数の開祖達を除いた真の仏教の歴史です。
人は何故このような心の詐欺みたいなものに気が付かなかったのでしょうか。あるいはこれは歴史の必然だったのでしょうか。お釈迦様でも手が出せず、大衆を社会を世界を導くことが許されなかった歴史の必然ということでしょうか。
本当は分かっていて、教えたくとも教えてはいけない事が悟りの上にあったのでしょうか。それを分かるものが数百年に一人出て、確認だけしていればいいとういうように仕組まれたものなのでしょうか。
これは単なる思いつきの歴史観でしかないのでしょうか。そうであったとしても、ここには全人類的に明かすことの許されない心の秘密があるということのようです。
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それが分かった時ありがとうというのは、これに触れることができ明らかとなり、有り難いと成ったからでしょう。
そこで、ありがとう、ありがたしは、本来「有ること」が「難い(かたい)」、すなわち「滅多にない」や「珍しくて貴重だ」という意味であったということです。
古代大和言葉でありがとうを探してみましたが、有ることが、難いというところまでしか行けません。有ることの説明が無いのでそれ以上進めませんので、わたしの考えを加えておきます。
ありがとう。
ありがとう、有り難し、有り得難し、有り得ない、有り得ることが難し、有りというのはアのことわり(理)のことで、アのことわり(理)が得難し、あき(明)らけしアのことわりを得ることができた、ということで、五感感覚、知識理知概念をアの感情次元にて了解できることをいいます。
当然悟りもその一つです。
あきらけく吾知ることを〔出典: 万葉 3886〕 とあるごとく、明き心(あかきこころ)を得た時の感動の情緒が基盤となって、五感感覚(ウ次元)、知識理知概念(オ次元)をアの次元で得た自覚をいうものです。
アのことわりを得ることが難い、というのは最初からそうであるのではなく、まずは何が何だか分からない前段があります。有り難いというのを知ることは既に有ることが分かった時で、それが有るか無いか朦朧とした不明な状態が前提されています。この状態がなければ何も問題は起きません。ですのでここに意識の芽生えが誘われる有り、の兆しが産まれます。
感情、情緒、悟りなどが突如と出現しますが、現代的にそれらを潜在意識とか前意識、集合的無意識、等の心理学等で説明しますと肉体組織上のあるいは頭脳内経験上の性能、機能と結びつけられて、意識の活用と機能操作による思いの獲得のような、経験領域の操作のようなものになっていきます。
座禅もその一方を担いでいるので、精神統一とか肉体操作法が発達していますが、アの理を得ることとは別のことです。無門関には座禅中に悟った例がありません。
ありがとうの有り、アの理、を得るということは頭脳内肉体経験上の現象を獲得することではなく、宇宙世界実在が自他との共有情緒感情として結ばれた時に出てくるものです。これは自覚的な後天現象として操作できるものではなく、先天領域に属しています。
人の手におえない先天領域なら自然にほっておいても起きていくことかというと、それは自然過程内にいる動植物ならそういうことになりますが、この先天構造は人の意思の上に乗って揺り動かしてきます。これがアの前提となるものです。
これは人の意思の上に乗っかかるものですから、人の意思のはるか上にいます。
ここから先を話すと霊界とか幽界とか怪しいことになるのでここまでです。
ですが古事記の範囲内で話すなら、ここの領域を扱う神の名は高御産巣日の神と名付けられていて、タカミムスビ(言霊ア)をよく見ると、高みにいるものが、高みの見物によって選ばれた者、物と?み結ばれるという精神宇宙をその構造通りに現した名前になっていることが分かります。
自分の自我だ意志だなどといったところで、その本体は高みの見物をしているわけの分からないものなのです。これがアの理ですから、もともと得難いものであり、それが自分に降り降りかかってくることになれば、有り得ないことが有り得た有り難いこととなります。
これが後に、ありがとうになりました。
高みの見物をしているものが自分の先天構造内降りて来るのですから、自分に降りて来ることで、それは先天的なできごとでも、自分の中で起きた自分のできごとという形になります。それが自分なり自我なりという思いや主張、行為となって、自分がしている積りになっていきます。
こうして個人の自覚という形を借りた恰好の上に成り立つもので、自他ともに了解する共有性社会性が欠如していて、ありがとうの心を社会的に表現しようとするといつもひっかかります。
ありがとうも悟りも感情も、自分が得た、自分から作った、自分の所有している、自覚内でのできことのようにみえます。心の底からありがたい思い、悟り、感情が湧き出て来るように思われ、
古事記で言えば
『 次に国稚(わか)く、浮かべる脂(あぶら)の如くして水母(くらげ)なす漂(ただよ)へる時に、葦牙(あしかび)のごと萌(も)え騰(あが)る物に因りて成りませる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。』
の状態です。
葦芽の生命力という説明ですがそうではなく、精神、心内の自我という形になるその出所を語ったものです。
高みにいるものが降りてきて自覚という形をつくるので、その結びつきを形成しなくてはなりません。それが記憶概念との結びつきになります。その時はオの知識の次元が形成され、欲しい欲しいの欲望に結ばれるとウの次元になり、感情情緒に結ばれるとアの次元になり、悟りもこの次元にあります。更に実践選択行為を導くエの次元があり、イの次元の自由な命名創造の世界となっていきます。
それが相手側と?み結び付いて来ると神産巣日の神となって、葦芽のごとく次々と湧きい出るようにという表象の、宇摩志霊妙摩訶不可思議な萌(も)え騰(あが)る物となってでてきます。
無門関には分からなければ座禅してまた出直して来いという、相手に時間を与える場面はありません。座禅し直すことなど一切要求されていません。瞬間的なその場の応答ができなければ全てバチンです。何故でしょうか。
瞬間といっても前後の無い抽象的な数学上のゼロみたいなものではなく、分かったという現象言葉で表現されるまでのことですから、意識内の時間経過も含めた瞬間です。その心は上記五つの次元段階を自由昇降していますが、底辺のイ次元で全てが結ばれているからです。
その時人の心は今有るものを有るとしたいウの欲望世界、今有るものを過去のもので説明して得ようとするオの知識世界、今有るものを今保持現有化使用とするアの世界、今有るものを今以降も有るものと選択するエの世界、そしてそれらを統括して創造表現に導くイの世界、のこの五重の層が(五大、五行、五重の塔等五の思想に結びつくものの起源がここにあります。)一斉に無自覚化、自覚的にか働いています。
そういった観念的な詰まらない詮索は置いといて、公案を出されて何だこれはと分からないのが普通ですから、この分からないという表現をしたことが悟りであるということにしてみましょう。逆立ちしてもえれば悟りとならないこともないとなればいいだけのものですので。
分からないという瞬間的な判断を下した場面をみてみます。そういった類の判断の中にもうっすらと有り難いという思いがあるのを感じてみてください。そん公案分かるか、馬鹿野郎と言う時自分にこっそりひっそりとありがとうを言っていないかみてください。
つうじょうは分からない事はあまり口にしませんが、公案が分かろうと分かるまいと、そういう態度を示す時には何も違いはなく同じ事なのです。ピカソの絵画を見て、現代音楽を聴いて、政治討論会に出席して、十代青少年の行為を目撃して、禅坊主はどうするかといえば分からないのでそこを去ります。
分かった事だけが不立文字、以心伝心ではなく、分からない事も同じでことなのです。子供などを見ていますと、分からないというや否やさっさと投げ出し他の事を始めます。この変わり身の素早さは分からないということの回答になっています。分かったという時も同じ構造です。
公案を出され、抽象画を見ているとします。何だか分かりません。
直接的にも直覚的にも分かりません。
そこで何であるのかと相似や類似や記憶や知識を探すことをしないことにします。通常はここで知識欲が起きますので理知的概念を得ようと頭が回転しますが、概念知識を得ることを拒否します。分からんものは分からん、と開き直ります。
その時の相手対象と自分の全体とが一塊の宇宙世界となって、何も解説規定されるものがないままで現れます。
現れたものは自分の対象となりますから、自分の経験に沿うような対比が行われます。言葉の端々を捕えたり色形に理解できるところを探したりします。
ここでは最初に開きなおった心持ちでいますから、与えられたものを追求規定しようとするものではなく、どんなものにでもくっつき解釈は膨らんでいき、制限されることがありません。
ああならこうで、こうならああでと自在に解釈ができ、分からないのは分からないとはっきりしてきます。
そこでとうとう心の中では分からないという確信が出来上がり落着きます。
そこで回答なり感想なりを述べることが自分に納得されてきます。
ここからは態度、行為、言葉、で自分を表出していけば、分からない、という言葉になり自分に納得された了解している回答は、分からないで有ることが示されます。
これで抽象画や公案で要求された返答を明瞭に回答することができました。
この分からないという自分の明瞭な意識が正解となり悟りとなります。
分かったという了解を得た時と同じことですが、分かったとと言おうと分からないと言おうとそれは単にわたしと公案、抽象画との関係だけのことで出題者、読む人、聞く人等他人、がそれを忖度し判断する事とは別のことです。
きっと、分からないと明瞭な言葉を発するのも命がけとなる公案がどこかにあるかもしれません。
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十牛図 「十.入てん垂手(にゅうてんすいしゅ)」。今後の世界。
即今底の人は跡形が無いから、諸仏祖師方と雖も計り知ることが出来ない。
洒々落々自由自在だ、祖師の教えには無いが法のために敢えて凡情三昧をする。
瓢箪をぶら下げて酒を買いに市へ行き、棒切れを拾うたので杖にして還る。
一杯飲み屋で法談に花が咲き、発心させて悟らせた。
[頌]
胸をはだけて裸足のまま店に出入りする。
野良仕事で泥だらけ、汗顔に灰がべったりだがお構いなく、而も喜色満面。
この徹底した境界には仙人の神通力も秘伝も全くご無用、ご無用。
いきなり仏性であることを悟らせて大安心を得させる、これが本当の仏道である。(井上希道訳)
このように再び、本にかえり、万物が豊かな色を示す世界に、私は何事も起こらなかったかの如く帰ってゆく。脚を現し、腹をむきだし、一見愚者の如くに、町にさすらい歩き、物にあえば物に親しみ、人にあえば人と笑い、見知らぬ人の間で、慈悲を世界にふりまいて生きている。(ネットから)
(鈴木大拙の解説)
この入てん垂手ということがなかったならば、禅宗も宗教ということは言えないのである。
自利はやがては利他でなければならぬのだ。これが(大乗)仏教の眼目であって、仏教徒は人の中に入って、本当に救済の事業をしなければならぬのである。政治家でも金持ちでも、金持ちは金という力を動かし、政治家は権力を行使するのに都合のいい位置にある。この好位置にあるものが、どうしても宗教というものに対して、もっと理解がないといかぬと私は思う。学問のある人、金のある人、それはその人のみのものでない。その学問、その富の力というものは、ただ自分のために使うべきものではなくて、人のために使うべきものだろうと思う。そうなると、ここにじっとしているわけにはいかぬ、外に出て働かなければならぬことになる。
宗教だからといって、ただ個人の安心にのみ資すべきではなかろう。そんなことだけに安んじては、本当の菩薩行はできぬ。自分はこれでいいというところから、街頭に出てこなければならぬ。
それで十牛図というものは、この点について、よく人間の精神の発達ということ、人格の円満ということなどを、まことによく図解で示しているのである。
----以上は引用です。-----------------------
禅も宗教も人間精神の宇宙世界との一体感の獲得を保持し、整理整頓していくだけのものです。
十牛図の最終十番目の段階だけを取り上げます。この物語の主人公も鈴木大拙も得て保持したものはあっても、活用運用するものがありません。赤提灯へ行って話し相手が見つかれば意気投合するというだけです。たまたま見つかった大きな魚に喝を入れればいいのですが、もともと街中の飲み屋などにはそんな魚はいないし、行くだけ無駄なことなのです。それをあたかも数万人に一人の才智を探しているような恰好をしているだけです。
一.尋牛(じんぎゅう) にはこうあります。
[頌] 果てしない煩悩を払い除けては仏性を探す。
探せば探すほど遠くなり、全く方向すら分からなくなった。
疲労困憊して如何にすればよいか途方に暮れる
牛を尋ねる、捜すということが修行の第一歩にたとえらるる。ところが、この尋ねるというのが、そもそも誤りの本で、種々の面倒はこれから始まる。実はなくしていないものを、なくしたと思って捜しているのである。(鈴木大拙の解説)
引用に「実はなくしていないものを、」とありますが、禅や宗教にとっては自分が世界であるという一致経験が保持されていて、そのために自分の存在が前提されています。無い無いといっているのは無いと思っている自我意識、「なくしたと思って捜している」自我意識のことで、自我意識そのものも本来は無いと言い切るところまではいきません。
そんなことを言ったら無い自我でどうしてブログが書けるのだ悟れるのだと言いがかりを付けることができるようになってしまいます。要するに本来の自己が内にあると信じているのです。そのため十牛図を自己捜しの旅というようなよみかたもあります。
この本来の自己が自分にあるとする限り、禅の悟りは自分から出ることができないのですから、社会性はもともと無いのです。引用では、政治は宗教に理解が無いなどといっていますが、政治の下位部門としてどんな宗教もいいように利用されています。
禅も宗教も自我、本来の自己、初発心から出発していますから、行き着く先、そして戻る先は自己にならざるを得ません。政治道徳意識による選択実践行為の共同社会感覚が抜けていきます。せいぜい宗派、セクトという教義で括られた集団を形成するだけになります。
二千年間、悟りや宗教意識が人間最高の規範と思わされ、そういった状況の中にいましたから、当然のなりゆきに為す術がありませんでした。しかし言霊学が復活した後には同じことを言っていられません。日蓮でさえ、この大法が出現したら自分の教えなど陽が昇った後の蝋燭の光だと感じられていたものです。格別言霊学を持ちださなくとも、始祖達は既に宗教の真理、悟り等は日常にあると言っています。ただそれを説明できず行動に移せないけれど、くちでは大乗というだけでした。
今や勉強すれば信者に成ったり、悟ったりしなくてもそれらの構造を話せるようになりました。悟った人や宗教に覚醒した人がこの原理を手にすれば更に偉大な方向へ導かれることでしょう。
宗教は引用されているものが色々とはあっても、師祖の教えです。師祖が神と係わろうと神の言葉を語らされたものであろうと、師祖の口から出たもので、真理を語ったものではなく、師祖の受けいれた教えとなっているものです。教えを勝手に真理と言っているのは取り巻き下っ端連中のしていることです。
師祖の教えとその伝統に沿った教えももともとは悟りとか神を認識体験するとかするだけのもので、この社会、この世界を導こうというものではありませんでした。そのための世界交通、精神的物質的情報面でまだ充分な発達が見られなかったからです。
しかし、現代は全ての条件が整いつつあります。いまや地球単位の時代で、国という殻にしがみついているだけとなりました。一つの地球を指導する頭脳の出現が全人類の願いとなっています。今までにそれに成功しているのが、ウ次元の欲望世界で、端的に金を儲けることが全人の希望となっています。
ウの欲望次元は世界は一つを実現してしまいました。ウ次元から発展した世界は産業経済界となって体制などと勝手なことをいわせながらまもなく一つになります。
ついで科学知識、過去情報の言霊オの次元も国際化されました。知的理性的環境はウの欲望産業次元を引っ張るのに誠に便利にできているので、知識の世界は一つになっていきます。次にくるのはアの感情から沸き起こる宗教次元、感情主張次元の世界化です。
いまのところウ、オの次元世界に都合のよいようにならされようとしています。共産世界アラブ世界未開発国世界での自由、民主の要求などがその例です。アの次元は元々ウ、オ次元の奴隷ではありませんから、まもなくキリスト教関係での目覚めも起きてきて、宗教世界全体がアの体験という眼を持ったところから世界的な反省がはじまります。各宗教でのアの体験は共通ですから自然に世界は一つに向かいます。
このウとオの次元世界を越えるのが宗教であり、悟りであるわけですから、地球規模においてウとオの次元世界を超克しなくてはなりません。個人の世界では色々の時代でポチポチと出現してその伝統が残されています。しかし、世界地球規模でそれを指導する師匠が未だに出てきません。悟るだけでも大変なことですから、それを地球規模で考える頭脳が待たれているところといっても、今までの大宗教の師祖たちでは今の世を作ったのが精一杯のことでした。
政治世界では常に国際会議を開いていますが、世界を指導する頭脳がありません。経済と科学知識領域で一番になろうとして、その為にうまいこと宗教感情を自由とか民主主義とか平等いう形で取り込もうとしています。
世界の政治家に欠けているのは自分らは無能であると白状することです。本当は神にもすがりたい気持ちで世界会議は進められています。自らの無能を白状したところで誰も指導できる人がいませんから皆黙っています。だから白状すくこともありません。自国とか国益とか言ってれば時間がきて会議が終わります。成すすべを知りませんからそこまでするのが精一杯です。
ここで本来は霊の本、日の本、日本の出番となるのですが、霊の元にも指導する言霊学という原理は解明公開されましたが、実際の指導規範がありません。日本には一応数千年間の伝統だけは背負っている家族がいますが、未だに動こうとしません。唯一世界を指導する精神規範を隠し持っているままです。
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