時量師(ときおかし)の神。1。「身禊」。5。
以下全文引用(一言メッセージ欄参照)です。
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次に投げ棄つる御嚢(みふくろ)に成りませる神の名は、時量師(ときおかし)の神
古事記の或る書には御嚢を御裳(みも)と書いてあるものがあります。そこで誕生する神名が時量師の神という事となりますと、御嚢より御裳の方が正しいように思われます。また時量師の神を時置師(ときおかし)の神と書いてある書もあります。これはどちらでも同じ意味であります。そこで御裳(みも)として説明して行きます。
裳(も)とは百(も)で、心の衣(ころも)の意となります。また裳とは昔、腰より下に着る衣のことで、襞(ひだ)があります。伊耶那岐の大神の衣である天津菅麻(すがそ)音図は母音が上からアオウエイと並び、その下のイの段はイ・チイキミシリヒニ・ヰと並び、イとヰの間に八つの父韻が入ります。この八つの父韻の並びの変化は物事の現象の変化を表わします。そして物事の現象の変化は時の移り変わりを示す事でもあります。時量師の神とは現象の変化から時間を決定する働きという事になります。
現象の移り変わりが時間を表わすとはどういう事なのでしょうか。「梅一輪 一輪ほどの 暖かさ」という有名な俳句があります。冬の厳しい寒さを耐え忍んで来て、或る日、ふと空を見上げると、庭前の梅の木の枝の先に梅の花が一輪蕾を開かせようとしているのが目に止まりました。まだ寒さは厳しいが、梅の花が咲こうとする所を見ると春はもうそこまで来ているのだな。そう思ってみると、朝の寒風の中にも何処となく春の気配の暖かさが膚に感ぜられるような気がする、という感じの句です。つい先日まで枝の先の梅の蕾は固く小さかったのに、今朝は一輪が咲き初めて来た。「あゝ、春はもう近いのだ」と季節の移り変わりを知ります。物事の現象の変化が時を表わすとはこの様な事であります。「桐一葉 落ちて天下の 秋を知る」の句は更に強烈に秋の季節の到来を告げています。
以上のように物事の姿の変化のリズムが時の変化だという事が出来ます。物事の姿の変化という事がなければ、時というものは考えられません。実相の変化が時の内容であると言う事であります。人間が日常経験する大自然の変化、また人間の営みの変化にも、それぞれ特有の変化のリズムが見てとれます。このリズムを五十音言霊図に照合して調べ検討する働きを時量師の神というのであります。私達がアオウエイ五次元相に現われる現象の変化のリズムを八父韻の配列によって認識する働きの事です。
ここでウオアエイの各次元に働きかけ、適合する時量師(時置師)の父韻配列を列挙して置く事にしましょう。
言霊ウ次元 キシチニヒミイリ 天津金木音図
言霊オ次元 キチミヒシニイリ 赤珠音図
言霊ア次元 チキリヒシニイミ 宝音図
言霊エ次元 チキミヒリニイシ 天津太祝詞音図
言霊イ次元 チキシヒミリイニ 天津菅麻音図
宇宙から種々の現象が現われて来ます。その現われて来る現象を唯一つの現象として特定化するのは、宇宙の内容を示す五十音言霊図の中の縦の母音の並びによる次元、横の父韻の変化に基づく時間、両者の結びによる空間の場所、即ち時・所・位(次元)の三者によって行われます。それ故現象(実相)には必ず時処位が備わっています。
古事記には時量師の神しか書かれてありませんが、実際には処量師、位量師もある筈であります。その事から時間とは空間の変化であり、空間は時間の内容という事が出来ます。時間のない空間はなく、空間のない時間はありません。
そして時間も空間もアオウエイと畳(たたな)わる次元の中の一つの広がりについて言える事であります。時間と空間は次元の一部であるという事です。これ等のことは、宇宙の全容を示す言霊五十音図表について考えれば一目瞭然であります。その時間と空間の畳(たたな)わりが次元宇宙なのです。
---------続けて引用。-------
阿字本不生
「ア」という次元は、そこでものごとを見ますと、そのものや人の実相が一番よく見える次元なんです。「阿字本不生(あじほんふしょう)」という真言宗の言葉がございます。真言宗には、この「阿字本不生」から始まって日本の言葉の音50音の一音一音を、弘法大師が説明した本があります。その中のひとつです。
「アという言葉はもともと生まれないよ」っていう意味なんです。「生まれない」っていうんですから、「人間が生まれる前からあるんだよ」っていう意味です。「宇宙があるかぎり、いつでもある。消えることはない。それがアだよ」っていうんです。
どういうことかといいますと、宇宙そのものを自覚した心を「ア」というんです。だから、自分の五感意識ではとらえることができないことを自覚すると「アーッ」って言いますね。
言葉では言い尽くせないことを体験するときは、かならず人間は「アーッ」と言います。不思議で不思議でしょうがないっていうときは「オーッ」って言います。「あの野郎をブン殴りたいけれどもブン殴れない、我慢しろ」っていうときは「ウーッ」。欲望の次元ですから「ウーッ」って言います。
実相
母音というものから即言葉が出てくるのは、日本語だけなんです。日本で「アという一字はなんのことだ」って言えば、「アーッ」っていう、それは自分の能力では表現することができないことを体験するときの言葉です。
表現することができないってことは、広い広い自分の心のもとの宇宙を自覚した姿。これを「ア」といいます。ですから、「ア」というのは「宇宙の心」ともいうのです。
「あ、きれいな花が咲いてるな」って見ますけれど、これを新幹線の中から超スピードでピューッと見たときに、「きれいな色だったな」「きれいな花が咲いてたなあ」とはわかるけれど、じゃあなんの花だったんだっていえば、わからない。
わかるには、こっちが動いてちゃだめなんです。動かない心で見ると、ものごとの実相といいまして、ちょうど宇宙からこう見る心です。
宇宙の目で見ると、いつわりのない実相がわかるのです。
「言霊 言霊学・コトタマノマナビ」
http://imakoko.seesaa.net/article/9421755.html
--------------以上ここまで引用。
時量師(ときおかし)の神。2。「身禊」。6。
余りにも平易な文章なのでわれわれはスーッと読み流してしまう。なるほどと言って終わってしまう。人類の意識の秘密が明かされているのにもったいないことだとは思っても、宇宙との縁が無ければ、あるいは宇宙との縁が鳴らなければ致し方ないことです。わたしにも鳴るものは無く、知的な好奇心が続くだけでしかない。
多くの人達が気づき始めているように思えます。しかし誰も実体を知りません。また知っていても公言出来ない、ちょうど日蓮が自分の教えは真の教えが明かされたとき、自分の教えは太陽の昇った後の蝋燭の光りでしかないとまで言ってるようなものです。
好奇心があってもその理解はまた別のことで、知的な理解はあってもそれを実践する智恵とはまた別のことです。実践智恵を得ても個人内主体内自証を終えただけでは、社会内、政治まつり事、そして人類へ係わることは出来ません。
前に引用してコメントと上記の引用からも分かるように、われわれは人類共通の意識構造をもっています。古事記はそれを証明し整理して使用法を説明し「大く歓喜び」を得る道筋を明かしています。禊ぎとは汚い(気田無い、気=魂=言霊の田=五十音図を持たない)意識構造を改造することですが、そう簡単ではない。
● 衝き立つ船戸(つきたつふなど)の神。-判断の基準、精神の拠り所を斎き立てる。全体判断。
1、道の長乳歯(みちのながちは)の神。--物事の関連性、連続性を調べる。
2、時量師(ときおかし)の神。------物事の実相の変化のリズムを見極める。
3、煩累の大人(わずらひのうし)の神。--不明瞭さを排して言葉の意味をはっきり確認する。
4、道俣(ちまた)の神。---------物事の分岐点を明らかにする。
5、飽咋の大人(あきぐひのうし)の神。--事物の実相を明らかに見てそれを言葉に組んでいく。
現在、時量師(ときおかし)の神の時点にいます。といっても分からないことと思います。私自身も分かってはおりません。
時量師の神は変化のリズムを明かす神とあります。時処次元全部の変化に関することです。変化しないものは無いので存在を変化に関連させるものということでしょう。ブログを書くにしろ読むにしろその行為は視覚上の変化、理解に関してなら経験知識上の変化、読んだり書いたりしてどうするのかなら実践智恵の変化、もっと読みたい書きたいでたらめ言うな殴りたいと言うなら欲望次元上の変化、等々がでてきます。
この変化のリズムを五十音言霊図に照合して調べ検討する働きを時量師の神という。
例えば、『記紀と聖書が似ていることは不思議ではありませんよ。元々1つの話なんですから。
人類が誕生して間もない頃、ある特定の地域で神から人間に与えられた知識を口伝えで受け継いだものを、各地に広がった伝承者が伝え、文字を使うようになって、陶板や書物に残したものです。』というコメントに対して、『。記紀、聖書、各地の神話に似てる話があることはとりもなおさず全人類の精神構造に共通点があるということです。』と応じたことを取ってみましょう。
両者ともある経験知識記憶上概念上の主張をしています。ここでは意見の内容の相違は取り上げず主張の発生に関することだけにします。
主張の発生。
下0、両方とも何かしらの知識源があります。これは自分で読んだり探したりしたものであるにせよいわば与えられたもので自分の創造したものではありません(主張の内容ではなく主張の発生についてで内容は取り上げていません)。
1、自分に与えられた現象行為によって、疑問なり関心なり同調なりが沸き起こり自分と結び付きます。
2、新しい知識とのコンタクトは当然今まで蓄積されてきた経験知識の全体との照合が行われます。
3、それは混ぜられ統合変容され気にいった主張を目指します。
4、それらに成功すれば自分の言葉なり他人の言葉なり本人の気に入り具合により表現を得ます。
5、その表現が正しくと決まり、あるいは正しさは別にして自分が喋ると決まり、表現元が自分であると自分に納得していき、
6、表現するぞ、書くぞという名目を立てます。
7、その行為に支障が無ければ、手持ちの経験知識概念等を使用し実行します。
8、表現は自分の心に拡げられいき拡大していき次の事態を待つようになります。
上0、しかし、結果、結論は事実として確認完成されたものでなく、事の始まりが自分から出たものではないので、主張、結論が次の主張、疑問の初発の時となっていきます。
大体、意見主張の発生はこんな感じになるでしょう。両者がこのまま主張を続ければそれぞれがいつまでも勝手なことを言い合うことになるでしょう。そこで禊ぎとなります。
問題は両者の主張のどこをどう取り上げ矯正すれば正しい方向へ導けるかと言うことです。古事記神代の巻全体がその教本ですので、まだ読み終わってもいず理解もしていないのにここで取り上げることは出来ません。覗き見た範囲で少しだけ試しに自分のためにやってみましょう。
きたなき国(生田無きものを組(く)んで似(に)せたもの)の発生。
下0、まず下0の出発時点がよろしくない。両者とも自覚的な創造意志からはじめていない。主張に自覚がないのでそれが他との関係、自分の意見が向かう方向、自由な発展が見えていない。又聞き聞きかじり拾い読みしたところから始めてしまっている。始めが良くなければ終わりは無いが、そこで両者とも情報源を放棄するどころか取り入れてしまっている。
ここでは情報源の取捨と自覚が問題でしょう。
1、取り入れかたが個人的な好み、当人の人生経験に依った選択、当面の利害関係によって行われていきます。知的な量を誇りたいとか、新知識を見せたいとかもあるでしょう。それらの中から自分にお気に入りが手元に集められ価値を増大させていきます。
ここでは恣意的なものを選択しているに過ぎないことを自覚することでしょう。
2、そのまま進行するなら、知識は記憶となりますので、自分の全過去との照合が起きます。全過去側が自分の主体でしたから、それに合わせて新しいものが入れるかどうかがが決められます。またその度合いも、過去を交換してしまうものか、継ぎ足しか、一時的か等が検討されます。
ここでは全過去も借り物であることを自覚するかしないかが問題でしょう。
3、それにも係わらず意識は進行していきます。せっかく学んだ新知識です。理解しようと時間も費やしたことでしょう。混ぜられ過去の主体性を犯さないように実を結び大きくしたいと思うことでしょう。
ここでは虚構の上に虚構を築いていくのを自覚するかしないかの問題となるでしょう。
4、でも人は留まることをしません。概念は概念を呼び、抽象度を挙げて進みます。自分の過去との整合性が取れていくと、それを表現しようとします。科学概念とか理性とかが応援に駆けつけるようになっていきます。
ここでは抽象概念の一覧表を拡げているという自覚が必要でしょう。
5、ところが返って抽象概念による自覚と称するものが自分を縛るようになってきます。自分の落ち着く先は概念理性にとって変わられます。一般性の中で安住し、個性は一般性の後に隠れていきそれで安心する意識を得ます。
ここでは個性的な主張が一般性に取って代わられていることを自覚することが必要でしょう。
6、しかし、一般性とこ別的なものを取り違えたまま主張の名目を立ててしまいます。立てた名目は自分の物ですから愛着と所有意識を持つこととなっていきます。
ここでは虚偽の所有欲望に支配されていることを自覚しなくてはならないでしょう。
7、そうなると、自らを獲得意識が芽生え自己循環の輪に飛び込まざるを得なくなります。
ここでは獲得物は単なる自己循環で得た物であることを知ることが必要でしょう。
8、こうして得られたものが目標達成となり基本となって次に進む準備段階となっていきます。
ここはでは、最も良くて自己確認できるだけで、他証、他との関係、全体へ向かうこと、そして何よりも自己完結することなく結論は時の経過、他物他人に委ねられていることを自覚するべきでしょう。
上0、それでも人は結局、結論を、自分の主張を提出していきます。意識の進展がこのようなものである以上どうしようもないということでしょか。
始めの時において(天地の初発の時)意識において(高天原)成立してしまったのが、上記の「1」でそこから始める限り仕方ないことでしょう。(「1」は角ぐいの神が采配を振るう領域です。)
ここで禊ぎが必要になります。
以下導入部分。
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静的
○衝き立つ船戸の神の全体判断の俯瞰図がきます。
確かな父韻の働きにより、母音から半母音へ渡るため一つ一つの戸を開けて全体を通過する。(五十音図の横列)八父韻の中で一番強い父韻が支配的となるでしょう。
●道の長乳歯(みちのながちは)の神。○お・過去経験○御帯
-判断を据えてそれと他の物事との関連性、他の事物の連続性のどこの時点にいるかを調べる。
●時量師(ときおかし)の神。(処、位。)○え・変移と選択のリズム○御嚢
-判断を据えてそれが他の物事の実相の変化のリズムのどの時点にいるかを見極める。
●煩累の大人(わずらひのうし)の神。○あ・心に響く実体○御衣
-判断を据えてそれが他の事物を不明瞭さをもたらすことなく自身の不明瞭さも排して言葉の意味をはっきり確認する。
●道俣(ちまた)の神。○あ-わ○御褌
-判断を据えてそれが出てきた自分と他物の分岐点を明らかにする。
●飽咋の大人(あきぐひのうし)の神。○明らかにむすび○御冠
-判断を据えてそれが他の事物から実相を明らかに見て取れそれを言葉に組んでいく。
動的。
●奥疎(おきさかる)の神。○途上(現在位置)のもの(父韻)を始めへ○左の御手の手纏
-自分を主張しようと物事の発端に無理にまとい、結び付こうする
●奥津那芸佐毘古(おくつなぎさびこ)の神。○父韻の途上のものを第一父韻へなびかせ繋げるものを探す○左の御手の手纏
-自分を主張しようと他物を利用して事物の発端につなぎ留めようとする。
●奥津甲斐弁羅(かいべら)の神。○現在位置と端緒への差異を縮める○左の御手の手纏
-自分の主張と客体間の端緒との間を取り去り減らそうとする。
●辺疎(へさかる)の神。○途上(現在位置)のもの(父韻)を終わりへ○右の御手の手纏
-自分を主張しようと物事の終端に無理にまとい、結び着こうとする。
●辺津那芸佐毘古(へつなぎさびこ)の神。○父韻の途上のものを第八父韻へなびかせ繋げるものを探す○右の御手の手纏
-自分を主張しようと他物を利用して事物の終端つなぎ留めようとする。
●辺津甲斐弁羅(へつかいべら)の神。○現在位置と端緒への差異を縮める○右の御手の手纏(最後の身に着けた物を脱ぎ去る)
-自分の主張と客体間の終端との間を取り去り減らそうとする。
ついで純粋主体内に一歩踏み込む。
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残念ながらこのブログそこまで到達していないので書けません。