古事記に伊豆能売は次のようにして登場してくる。
ここに詔りたまはく、「上(かみ)つ瀬は瀬速し、下(しも)つ瀬は弱し」と詔りたまひて、初めて中つ瀬に堕(い)り潜(かづ)きて、滌(すす)ぎたまふ時に、成りませる神の名は、
八十禍津日(やそまがつひ)の神。次に(ア)
大禍津日(おほまがつひ)の神。(イ)
この二神(ふたはしら)は、かの穢(きたな)き繁(し)き国に到りたまひし時の汚垢(けがれ)によりて成りませる神なり。
次にその禍を直さむとして成りませる神の名は、
神直毘(かむなほひ)の神。次に(オ)
大直毘(おほなほひ)の神。次に(ウ)
伊豆能売(いずのめ)。(エ)
次に水底(みなそこ)に滌(すすぎ)ぎたまふ時に成りませる神の名は、
底津綿津見(そこつわたつみ)の神。次に底筒(そこつつ)の男(を)の命。(エ)中に滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、
中津綿津見の神。次に中筒の男の命。(ウ)水の上に滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、
上津綿津見の神。次に上筒の男の命。(オ)
古事記にあるイヅノメの漢字表記には何の意味もなく、「イヅノメ」と大和語で音読させてその意味を悟らせようとするものです。天地をアメツチと読ませ、吾(あ)の眼(め)を付(つ)け智(ち)となすとして、吾の眼(自分の意識)が付いたものがその人の天地世界であるように、「イヅノメ」も言霊学の意を取って表記し直すと、『出(い)づの芽』となります。「出づ」は意識が出(い)でて相手客体に付(つ)くことで、言霊「イ」の世界が出てくることの芽という意味です。
「イ」は創造意志の世界を示し、イの世界が選択されて様々な世界となって出てくる芽となっているのがイヅノメです。
「売」をメと読むのは中国呉音読みにメがあるらしい。ここでは書き下しに芽の漢字を宛てていますが、大和の日本語の「め」の意識を持って「め」というのが一番いいのですが、古事記の上巻は謎々で書かれるようにされているため平仮名を使用できません。芽でも眼でも女でも雌でも目でも構わないのですが、中国語表記にしてしまいますと意識の範囲が現象の範囲となり、固定され狭まります。古事記解釈の失敗は漢字意識に閉じ込められているとこら来ているのが多いので要注意です。
「め」は、言霊要素神の妹速秋津比売の神が言霊メで、考えが言葉に組まれる直前のイメージとして一つに集約されるものを速やかに明らかに渡す港(集積所)にいるようなものが「め」です。芽にはそのような意識が取れますが、「芽」という漢字を使用すると成長する植物の芽のイメージに災いされてしまいます。そこには黄泉国を出て自覚反省した姿がなかなか投影されてきません(禍を直さむとして自己意識を集積してる様子)。
普通の日常語でいえば、喋る作り表現することの集約された威力の現れの初めの「め」(芽)です。今まで主体主体と言ってきましたが、確かに主体側が能動的に働き掛けて現象を生みます。しかしその能動主体に働きを許す宇宙の権威がなければ、働き掛けることはできません。イヅノメはその権威の芽、みいづの芽です。この権威に依らなければたとえ主体があるというだけでは何も動かないのです。
自分が病気から回復した時を思い出してみれば、普段何気なく立ち座り物を持つ何でもないことに、自身の力がみなぎっているのを感じます。
古事記の心の原理論、認識論が宇宙の権威を振りかざすのはおかしなことのように見えます。主体というのは自分で思って自分でやる能動性を持っているものという積もりでいます。しかし既に見たように、おのれの心の島(オノコロ島)の段落のはじめに、「ここに天津神もろもろの命もちて」とあるように、天津神の宇宙の権威の発意によっておのれの心ができてきたのです。
この論考では精神原理としての伊豆能売が出てくるところを検討するということをやってみましょう。
しかし、伊豆能売が出たということを知るには伊豆能売の上位規範がなければ了解できませんから、それを前提させてもらいます。
神とも命とも神号が付けられていないのは、言霊エの世界のこれから成ろうとする瞬間の意識で、芽という実体(神)になろうとすると同時に成る働き(命)を持っている両者が含まれているものだからです。今あるものが成ろうとする働きと実体を同時に持ったものの息吹の状態です。働きが無ければ状態ともならず、従って神にはならず、だからといって働きだけで実体に付かなければものとしては命としての存在も出てこない、そういったことの成ろうとする立ち位置にいるのがイヅノメです。
神名に「メ」が付いてるので女神というのは間違いで、神道にはもともと女神も男神もいません。神道は意識内の働きの主体能動側と客体受動側を男女の漢語を配当しただけですので、天地をあめつちと読み、伊豆能売は出づの芽とするように、大和語に戻した意味を取る必要があります。漢語表記時点での意味以前に戻ることです。ですので「メ」の原理的な意味が了解されているなら、どの漢字を使おうと自由です。(古事記序文参照。)ですので使用された漢語から類推するのは、大和語の単音の意味が了解されているのならかまいませんが、要素となっている元々の意味を捉えないで、表記されている漢字その他から出発しているのなら、その主張の根拠は十分ではありません。
伊豆能売の伊豆は音読表記は「いず」ですが、古事記の謎々内容は「イヅ」です。出る出ずるという内容を持っていて、「さあ、出て行こう、出ることになる、あちら側に行こう」の言霊エを示します。言霊学は意識のイマココの瞬間を百の神に見立てて述べたもので、イマというイエウオアの心の柱が、エの今から未来へ向おうとする今の時点を伊豆能売と底綿津見、底筒の男で示しました。
伊豆能売は今出ようとする(今いずる)宇宙による権威を体現し、底の神たちはその内容を示しています。
従って、底の神たちの内容を理解したときに伊豆能売も了解でき、何の権威(みいづ)により、何を内容としたものかが了解されます。
伊豆能売はそれ自体二つの性質を持っています。(他の神々も同じですが。)一つはイエウオアそれぞれの神、その他もいずることになりますから、それら全ての原理としての伊豆(出づ)能売であり、他は子現象を創造していく時間の流の中では言霊エという特殊個性の生成を主張するものとしてあるという、このような二面性です。
神名は単音の組み合わせ区切り方で様々になります。「イヅ」は斎くや厳やミイヅとなり、いずれも「イ」の単音の意味合いが大和語の言霊として捉えられていなければ、それらの解釈はそれらが取り入れられた時代までの知識から始められた解釈に過ぎません。(言霊学の成立は一万年前といいます。)
イヅノメの「イ」は息して生きている意識の威厳から出てきた、生きて居る存在と行為のイザ出て行かんとする、心の五つの次元世界を作る意志の元となるものです。
動いていく今の瞬間に伊豆能売がいるのですから、何処のどの時代も問わず普遍的にイヅノメがいます。
どんなことでもどんな時でもよいですからなんでも好きな例を上げてください。例えば歩き始めようとする第一歩なら、歩こうとする思った方向に足が出ます。この一歩を出すことが出来、その方向を温存し保障して歩く行為をさせてくれる、その権威を与えてくれるのがイヅノメです。ですから歩こうとすることに間違えがありません。歩こうと思ったことがその通りになります。
書くことでも同じことです。書こうと思っていることが文章になっていきます。書き出し書きつつ書いたものは自分のものとしてでてきます。誰が決めた訳でもないけれど、また、創ろうと思って作った訳でもないし、計画して起承転結を決めた考えを書いた訳でもないけれど、書き始めていく片っ端からその瞬間の全てが自分のものとして書かれた成果となっていきます。正誤善悪などはありません。書けば自分のものとなっていき自分を創造していきます。
歩くときでも同様で、行き先も決めず分からなくとも、立ち上がり歩きだしていること、右足を出し左足を出していく一歩一歩には正誤善悪はありませんが、自分の意識の成果現象を感じています。ここにイヅル芽があり、この芽の活動するがままに任せていると自分の行為の現象が現れます。
イマココに動いて活動している場面では自分は天津神の意のままに自分を表出していますから、何らの悪も影も無く、導かれるがままに自分が創造されていきます。
ところがその動きを一瞬でも止め結果が出来たことを確かめようとすると、瞬時に影と闇の黄泉の世界に入り込みます。
「イヅノメ」という単語を表記しようとする場合にも、イヅノメケメケかゴモクノメかイヅノメかと考える暇も無く「イヅノメ」と出てきます。読む場合でも同じで、イツクモノノメガツーットデテクルイヅノメの「いづのめ」のことだなどと思うことも無く「いづのめ」と読むことができます。これら知的反省疑問などが無くても、また検証などしなくても、芽が出てくるときは意識と行為は保障されています。ここにも正誤善悪影日向は無く、光に導かれたみいつ(御厳)だけです。
動くからあるので、時間の流れ意識の流と共に自他があります。
何かが始まろうとするとき、働きと実在が同時に生まれます。一歩歩き出す時に働きだけ見るならロボットの動きと同じです。ありがとうのアと言うときも題目を唱えるだけならば繰り返し再生された物理的な音波です。伊豆能売とは何だろうと考えずに言うだけなら固まった過去概念です。このように実在か動く働きかの一方だけを表現することもできますが、両方揃っていなければ黄泉国での得意な行為となります。
古事記の冒頭を見てください。『あめつちのはじめのとき』とは、「アの眼・メを付・ツけて地・チに成る初めの時」、つまり私の意識を相手対象に付けて智恵とする初めの時」です。地に着かない意識は単なる概念で、吾の眼の無い意識は物理的な作用反作用です。心の現れは「イの意識が付いたものが意識の芽となる(いつのめ)」ので、イの意識が付かないものは命の無い物理世界内の作用です。
在る有り方(瞬間の在る有り方)にはいくつかの有り方があり、その内イヅノメの有り方は「いざ、出ずる」という今在るものがこれから在るだろうものになる瞬間を現わしています。イヅノメというのはその初めのことです。言霊エの次元で代表されています。
というのは言霊循環から見ていけば、イヅノメが「出ヅ」ことを代表すると同時に、「出ヅ」ること自身がイヅノメであり、エ次元のイヅノメでもって「出ヅ」の原理を示しています。つまりアウオの次元世界にもそれぞれ「出ヅ」の原理が当てはまっていきます。ウ次元の「出ヅル」こともイヅノメだし、オ次元の「出ヅル」こともイヅノメになるし、他も同様です。
ただし各次元世界によって「出ヅル」仕方は違ってきます。
ウ次元の「出ヅル」は在るものが現に持続していくというありかたで、
オ次元の「出ヅル」は在ったものが今に在るというありかたで、
ア次元の「出ヅル」は在る全体が一挙にあるというありかたで、
エ次元の「出ヅル」は在るもがこれからもある事になるというありかたで、
と、それぞれの世界が出現してきます。
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イヅノメに神、命の神号が付かない理由。
イヅノメは「禍を直さん」として出てくる、出ることそのもののことですが、禍を直すための規範規律をもっています。それらがなければ直しようがありません。
御身・おほみまの祓えせむと黄泉国から出ました。祓えは黄泉国の汚さを払うと同時に、払うための規範規律に斎くことの両者をもっていますから、これまでにイザナギは様々な意識の角度からの規範を提起してきました。
そこで、汚さの客体側を落すのは手切れをすればことが済むわけですが、手切れをする事戸を渡すという主体的な意識行為そのものの中に、黄泉国で引きずっていた汚さがありました。当然客体側を禊祓した後は主体側にこびりついた認識方法の汚さも落さねばなりません。
その徹底した形が道の長乳歯からの禊祓五神で、五神が主客を行って帰って来る経過をたどるうちに生成してしまうのが主体内での汚い黄泉国です。
例えてみれば、あいてに同意なり批判なり賛否を与えてしまうのが、主体内の黄泉国を作ることになります。
そういった禍を直そうと八十禍津日と大禍津日による一般全体的な認識ややる気や意志からの判断だけでは、それ自身が禍に成ることが発見指摘され訂正され導かれました。ついでとうとうここに出てきたのが、禍といわれるものの何を何処をどれをどのように直せるものがあるのかということを示すのが、イヅノメです。
その内容は底中上の三神で明かされます。
ですので、イヅノメの時点では明かされた内容による禍を直すことはまだ実行されていません。そこにあるのは「直さん」という意志・認識だけです。
ここで注意してください。
直前に出てきた大直毘において意志による認識行為はそれ自体に「禍」を産んでいるということが自覚されています。つまり、禍を直そうとして禍を産んでいくのです。そしてそのようなことであるならどうして「神」や「命」と名付けることができるでしょうか。「直さん」と思って行為、認識してしまうと「禍」をうむ張本人となるのです。
よし直そう、どのように直すのかと出てきたのに、そのままでは出られないのです。だから名無しなのです。
ということは、ここに、前承する意識の言霊上昇循環が起こらなければならないということです。
「教えたくても教えられない」という神の言葉を降ろされた出口直さんという方がいます。文盲でしたが不思議なことに大量の降ろされた「お筆先」を残しています。その名前をいじると、直毘の出口になりますから、神直毘、出ヅの芽の出口で古事記の一段落が人の一生になっているような不思議な一致を見ているようです。
この例からは、字が書けない人が書かされたというところを受け取ると、言霊循環を起こすというよりそれを受け入れ起こさせられることのようです。
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「津日」から「直毘」を通って「津見」へ。
イヅノメが働いていないのなら、アメツチ(吾の眼を付けて智となす)が成立しません。イヅノメがいても働きをしていかなければ出ずるものが出ません。
一方、言霊オウの神直毘と大直毘は無自覚的に自己を出してきます。欲望も知識概念も勝手に出てきます。出てきますからその働きによって神とか命とかになることができますが、言霊エの選択する意識、認識はそうは行きません。自動的な選択があるように見えますが、それは物理的な作用反作用で、黄泉国から戻ってきて「禍を直さん」とする意志を持った現時点の話ではありません。
記憶や概念は意志を持とうと持つまいと、意志とは関係の無い話題について勝手に出てきたりします。禊祓をしようという意志をもっていても言うことを聞くものではありません。
「禍を直そう」とする意志をもった選択のエの言霊次元ではそのようなことはありません。意志の現れそのものが選択となるからです。その代わり選択されるものが無ければその行為はなく、選択する行為が無ければ選択されたものもありません。このあり方がウオの次元とは違うところです。
ところがそういったことを放りっぱなしにすることなく、ウオ次元の恣意性もすくい上げるのが「イヅノメ、出ずる眼」です。
イヅノメは禍を直そうとして出てきたのですから、イヅノメ自身の禍だけでなく自他全部の禍を直すものです。イヅノメはその内容を了解していなければなりません。
その意識の経過は常に神名に示されています。
「津日」から「直毘」を通って「津見」へ行くことです。
ここまででは神名を追っていくことがそのまま意識の成長を受け取っていくことでしたが、ここからは自覚に伴う言霊循環の上昇反転を得なければなりません。普通に言えば飛躍ですが仏経の用語で言えば「悟り」の次の次元体験になるでしょう。「悟り」の多くは単に一般解を得て一般解で応答するだけですから、そのままで「禍」を現わしている八十禍津日となっています。分かっていて伝えたいけれどその応答は一般的ですから個々の了解にまで降りてくることができません。
そこで悟りという「禍」を直さんと「直毘」を通過して「津見」へ行こうとしているところです。
相変わらず漢字で表記されていると分からないのでひらがなにします。
「つひ」から「なほひ」を通って「つみ」へ、になります。これを書き下して少しは分かったような気になるように書き換えます。
津日の津は集荷した荷物を渡すことで、日は霊で働き側のこと、意識にあるものを働きに渡すになり、
直毘の直はナホ、名穂で、穂は名を付けられ現れた実体側で、実質的に形に取れるもの、言葉となって出てきた意識で名付けられた客体になり、働きの載った名の付いた霊(ヒ)となった実体側で、そのように直されたもの、
津見の津は同じく渡す、見は実、体を現わしますから、働きとしての霊(ホ)を実体(意識実体)になったものを再度日(霊)に渡すことです。
ヒがナとなり、ヒとナが一体となったものがミとして出てくることになります。
この三者を接続すると、主体側の意識を現わすにはまず、その働きを現わして実体側と結ばれ働きの名を現わし、その名をもって元の働きを示す、というでんぐり返しをすることになります。
そしてどのような内容を持ったでんぐり返しなのかが、次に出てくる「筒」で、つつーっと筒の中を渡り行くことになります。
以上の経過は子音現象の発生と同じ構造で、ここでは言霊エの自覚意志による選択のあらわれとなっています。精神意識が物象の形を取ることが意識的に、つまり、黄泉の禍を取ろうとして行なわれます。
「出ヅの芽」の項目おわり。