古事記には身禊の具体的な描写はありませんが、「ここを以ちて伊耶那岐の大神の詔りたまひしく、「吾(あ)はいな醜(しこ)め醜めき穢(きた)なき国に到りてありけり。 かれ吾は御身(おほみま)の禊(はらへ)せむ」とのりたまひて、 竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはぎはら) に到りまして、禊ぎ祓へたまひき。」と宣言して汚き国からの禊ぎ祓えを行ないました。つまり、黄泉国でしてきたことを身禊していくのです。
これは言霊循環が常に貫徹しているという原理に則って行なわれますが、このホーム⑥では、主観の主観による主観の身禊ですから、前段の身禊とは次元を異にしています。
神名で言えば八十禍津日から底中上の三神による身禊の形を取ります。引用した原文の中で指示します。
黄泉国でやってきたことを、主体の活動そのものの世界として、主観が黄泉国を作る主観世界の黄泉国を身禊します。
(八十禍津日の領域とそれによる身禊)、ア。
ここにその妹伊耶那美の命を相見まくおもほして、黄泉国(よもつくに)に追ひ往(い)でましき。
ここに殿の縢戸(くみど)より出で向へたまふ時に、伊耶那岐の命語らひて詔りたまひしく、
イザナギの性急な感情は主体の立場を越えて主体の力で客体側を動かせるのかと思うようになりました。愛しさは自由奔放に振る舞いますが、主体の感情で相手対象が動くのではありません。主体が自らの全体を捧げたからといって何かが変わるわけではないのです。
実際の現象世界での出来事では何かは起こっていると思われるようですが、それは時の流れに応じた現象変化の一場面をいうので、今ここにある主体側の愛しい全体的な思いとは別のものです。今ここでは現象が起ころうとしている以前に、愛しさを出すことが相手より愛しさをイマココで得るのではないかという、錯覚を得てしまうことが問題となります。
また、感情を前面にだし感情だけで押していきますと、その感情の中に自分の全体は含まれていて自分を表現しきれているような思いを得てしまうために、相手対象も自分の思いに応答していると勘違いすることです。
そこで自分をよく見ますと、自分のもつ全体規範があるにもかかわらず、逸脱を以て相手に向っていることに気付きます。それでもうまくいったとかいかないとかは今ここの話ではなく、後の現象を指しています。
ですので、ここでの主体側の身禊は、自ら持っている規範からでないことです。しかし黄泉国に出て行くことは必然的な成り行きです。出てしまったものが必ずあります。
出て行くのは一般的な語り口になります。それでは相手に嘘をつき、和を得られず自分の全体をただ全体的に提供するだけになります。だからといって自分の全体的な感情は変化せず維持されていきます。そこで主観内の身禊神が登場します。
「殿のくみ戸」とある、五十音図の殿、家を組み換えればいいのです。
単なる全体表示でなくその全体に含まれている時処位をその通りに割り振ります。愛しいのは、欲望として知識として選択として愛しいのか、今の今、過去の思いが今、今これから愛おしくなるのか、それらの時処位の組み合わせはそれぞれの形であります。
そこに自分がありそういう自分として相手を見ていたのですから、そのような「殿のくみ戸」を相手に与え、了承されば相手と一緒に出てくればいいのです。
(大禍津日の領域とそれによる身禊)、イ。
「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命、吾と我と作れる国、いまだ作り竟(を)へずあれば、還りまさね」と詔りたまひき。
ここに伊耶那美の命の答へたまはく、「悔(くや)しかも、速(と)く来まさず。吾は黄泉戸喫(へぐひ)しつ。
然れども愛しき我が汝兄(なせ)の命、入り来ませること恐(かしこ)し。かれ還りなむを。しまらく黄泉神(よもつかみ)と論(あげつら)はむ。
我をな視たまひそ」と、かく白(もお)して、その殿内(とのぬち)に還り入りませるほど、いと久しくて待ちかねたまひき。
ここではミの命は相談に行ったまま返ってきません。
作っている国が未だ完成していないというのは、ギの側の言い分です。ミの方はちょっとした出来事でもそれなりに構わなくてはならず忙しいのです。作りかけだから早く帰れというのは、イザナギ側の主張です。取り上げるまでもない強制力もない次元の違う、気と身の通じていない、まるで弱々しい主張です。その主張はまだ完成していないからでもよかったし、赤い色に染め直そうでもよかったのです。
イザナギの意志は意志として、ミの方は黄泉の釜の飯を食べていて、黄泉国の研究消化にいそがしいのです。そこでミのいうにはちょっと待ってほしい、あなたのように出たり入ったりする方法を聞いてくるからといいました。とはいってもミの世界は出来上がった現象世界(子現象、子音)です。
出来上がった現象から出るには、分析分解細分化、つまり破壊しかありません。科学技術によって組み合わせ総合化もできますが、元々あるものの分析を新しく組み合わせただけですから、物の変化変形はあっても、イザナギの気の世界、主体意識の世界に戻れるわけではありません。
当然イザナミが懸命に時間を費やしても、客体世界が主体世界の芽をふくことはないのです。
幾ら討論しようと幾ら待ってもイザナギの主体の世界には近づきません。出てこないわけです。
イザナギの意志に答えるにはその意志と同様のことをして、同様の次元に立たねばなりません。しかし、意志は形に現れず形で教えることができません。
イザナギは意志の押し付けをしましたが、元々返事など無いことを失念していました。
もちろん、意志がある御蔭で事が動きます。イザナギは自らの意志を実行します。
主体意志を形に現そうとします。
イザナギが形を現そうとするそのイザナギの形とは意志を現わす言語規範です。
イザナミは「黄泉神(よもつかみ)と論(あげつら)はむ。 我をな視たまひそ」と、かく白(もお)して、その殿内(とのぬち)に還り入り」込んだまま返ってきません。
イザナギが「殿」から出てきたのに、ミの方は「殿」に入っていったのですから、行き違いです。「いと久しくて待ちかねたまひき。」になります。
ではイザナギにとってミの「殿内に還り入り」とは何でしょうか。
殿は五十音図言霊規範です。イザナギは主体側ですから、あ行とマグワイして
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(神直毘の領域とそれによる身禊)
かれ左の御髻(みみづら)に刺させる湯津爪櫛(ゆつつまくし)の男柱一箇(をはしらひとつ)取り闕(か)きて、
一(ひと)つ火燭(びとも)して入り見たまふ時に、蛆(うじ)たかれころろぎて、
頭(かしら)には大雷(おほいかづち)居り、胸には火(ほ)の雷居り、腹には黒雷居り、陰(ほと)には柝(さく)雷居り、左の手には若(わき)雷居り、右の手には土雷居り、左の足には鳴(なる)雷居り、右の足には伏(ふし)雷居り、
并せて八くさの雷神成り居りき。
(大直毘の領域とそれによる身禊)
ここに伊耶那岐の命、見畏(みかしこ)みて逃げ還りたまふ時に、その妹伊耶那美の命、「吾に辱(はじ)見せつ」と言ひて、
すなはち黄泉醜女(よもつしこめ)を遺(つかわ)して追はしめき。
ここに伊耶那岐の命、黒御縵(くろみかづら)を投げ棄(う)てたまひしかば、すなはち蒲子生(えびかづらな)りき。
こを摭(ひり)ひ食(は)む間に逃げ行でますを、なほ追ひしかば、
またその右の御髻(みみづら)に刺させる湯津爪櫛を引き闕きて投げ棄(う)てたまへば、すなはち笋(たかむな)生りき。
(伊豆之売の領域とそれによる身禊)
こを抜き食(は)む間に、逃げ行でましき。
また後にはかの八くさの雷神に、千五百(ちいほ)の黄泉軍(よもついくさ)を副(たぐ)へて追はしめき。
ここに御佩(みはかし)の十拳の剣を抜きて、後手(しりで)に振(ふ)きつつ逃げませるを、
なほ追ひて黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本に到る時に、
その坂本なる桃の子(み)三つをとりて持ち撃ちたまひしかば、悉に引き返りき。
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ここに伊耶那岐の命、桃の子に告(の)りたまはく、
「汝(いまし)、吾を助けしがごと、葦原の中つ国にあらゆる現しき青人草の、苦(う)き瀬に落ちて、患惚(たしな)まむ時に助けてよ」とのりたまひて、
意富加牟豆美(おほかむづみ)の命といふ名を賜ひき。
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最後(いやはて)にその妹伊耶那美の命、身みづから追ひ来ましき。
ここに千引(ちびき)の石(いは)をその黄泉比良坂に引き塞(さ)へて、その石を中に置きて、
おのもおのも対(む)き立たして、事戸(ことど)を度(わた)す時に、
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伊耶那美の命のりたまはく、「愛(うつく)しき我が汝兄(なせ)の命、かくしたまはば、
汝の国の人草、一日(ひとひ)に千頭絞(ちかしらくび)り殺さむ」とのりたまひき。
ここに伊耶那岐の命、詔りたまはく、
「愛しき我が汝妹の命、汝(みまし)然したまはば、吾(あ)は一日に千五百の産屋を立てむ」とのりたまひき。
ここを以(も)ちて一日にかならず千人(ちたり)死に、一日にかならず千五百人(ちいほたり)なも生まるる。
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かれその伊耶那美の命に号(なづ)けて黄泉津(よもつ)大神といふ。
またその追ひ及(し)きしをもちて、道敷(ちしき)の大神といへり。
またその黄泉の坂に塞れる石は、道反(ちかへし)の大神ともいひ、塞へます黄泉戸(よみど)の大神ともいふ。
かれそのいはゆる黄泉比良坂(よもつひらさか)は、今、出雲の国の伊織夜(いふや)坂といふ。
(身禊の完了)
ここを以ちて伊耶那岐の大神の詔りたまひしく、「吾(あ)はいな醜(しこ)め醜めき穢(きた)なき国に到りてありけり。
かれ吾は御身(おほみま)の禊(はらへ)せむ」とのりたまひて、
竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはぎはら) に到りまして、禊ぎ祓へたまひき。
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