妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。 言霊リ。
対の神様は意富斗能地(おほとのぢ)の神。 言霊シ、
大斗乃弁とは
大・おほ・大量の、
斗・と・秤、基準、
乃弁・のべ・述べる、提供する、伸びていく、
弁・べ・花弁。
意富斗能地は、心の中心に向かって収束していく働きと考えられますが、ここではその反対です。
多くの花弁を持つ花が開き拡散していく様子が見えます。
花は蕾でした。蕾は開花する環境を自分に受け取らねばなりませんでした。
蕾自身にはまた成長発育するはずみがありました。
条件を受け入れ自分に成長力を確認して、
蕾であることから脱していかねばなりません。
蕾と花となって開花するしかその将来はありません。
養分や気温を支えとして蕾の殻を破らねばなりません。
ここで中止したならば枯れ死が待っているばかりです。
さあ、いざ、開けよ、と最適の条件を選択しなくてはなりません。
この最後の段階で蕾が強いられる律動が大斗乃弁です。
蕾は植物ですからその選択肢は限られていますが、意識活動の門前は無限の空間が開いています。ここでの蕾は何らかの問題が意識されたものとという前提になっていますが、自然の春を謳歌するような条件下にあるのでしたら、その配列は若干変化します。
最初と終りだけを示すと、
蕾自身には成長発育するはずみがありました。
蕾と花となって開花するしかその将来はありません。その授かった自然の営みを花として完成させる、
となります。
条件を選択するにせよ、自然の営みを謳歌するせよ、後に結実して次世代に備えねばなりません。
本来的に種は保存されなくてはならない。
そのための自己保存の条件をかき集め、
自分自身の成長過程に結びつけ、
外部条件と内部状態を結びつけ、
次の世代の足場として、
自分の結実への成長を目指し、
持続発展していき、
結果として結実をもたらす。
蕾が開花するまでに多くの条件があるごとく、結実までにも多くの条件をクリアしなくてはなりません。
ここでは時間の流れの条件となっていますが、意識内での動きはゼロコンマ何秒かの瞬時に全世界が詰め込まれている感じです。
そこで、妹大斗乃弁(おほとのべ)の神とは、
自己を取り巻く大量に提供せられた選択肢の花弁の中から、自分の種の保存と伸張に都合よく述べられているものを選択する律動とする。
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12。意富斗能地(おほとのぢ)の神。13。妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。
言霊シ、リ。父韻を示す神名の中でこの父韻シ・リの神名からその父韻の内容を理解することはほとんど不可能に近いと思われます。意富斗能地は大きな斗(はかり)の働きの地と読めます。物事を判断し、識別する大いなる能力の地という訳です。人はある出来事に出合い、その事を判断・識別する事が出来ず迷う事があります。あゝでもない、こうでもないと迷いながら、次第に考えが心の中でまとめられて行きます。そして最後に迷いながら経験した理が中心に整理された形で静止し、蓄積されます。蓄積される所が心の大地という訳です。この働きから学問の帰納法が生れて来るでありましょう。
大斗乃弁とは大いなる計りの弁(わき)まえと読めます。意富斗能地と作用・反作用の関係にある事から、心の中にある理論から外に向かって発展的に飛躍していく働きと考えられます。父韻リはラリルレロの音がすべて渦巻状、螺旋状に発展していく姿を表わしますから、父韻リとは心の中の理論が新しい分野に向かって螺旋状に発展し、広がって行く働きであることが分ります。この様な動きの理論の働きは演繹法と呼ばれます。学問ではなくとも、多くの物事の観察から人の心の中に一つの結論がまとまっていく過程、また反対にひとつの物事の理解から思いが多くの事柄に向かって連想的に発展して行く事、その様な場合にこの父韻シ、リの存在が確かめられます。
12。意富斗能地(おほとのぢ)の神・父韻シ、13。妹大斗乃弁(いも・おほとのべ)の神・父韻リ
意富斗能地・大斗乃弁の両神名を指月の指として本体である父韻シ・リにたどり着くことは至難の業と言えるかもしれません。けれどそうも言ってはいられませんから、想像を逞しくして考えてみましょう。意富(おほ)は大と解けます。斗は昔はお米の量を計る単位でした。十八リットルで一斗でした。斗とは量のことであります。北斗七星という星は皆さんご存知のことでしょう。北斗、即ち北を計る七つの星ということです。大熊座のことです。意富はまた多いとも取れます。沢山の量り、即ち大勢の人の考え方、意見が入り乱れて議論が沸騰する時とも考えられます。そんな議論がやがて真実の一点に近づいて行って、その働き(能)が議論の対象である地面(地)にたどり着いたとします。沸騰していた議論が静まります。多くの議論の内容は消え去ったのではなく、出来事の真実を構成する内容として一つにまとまった事になります。まとまった状態は言霊スですが、まとまって静まることは父韻シということが出来ましょう。
理屈ポクって理解し難いと言う方もいらっしゃると思います。そこで平易な例を引きましょう。毎週月曜夜八時、6チャンネルと言えば、直ぐに「水戸黄門」と気付く方は多いことでしょう。このドラマの前半は悪家老、代官が悪商人と組んだ悪事の描写です。後半はそろそろ黄門様一行がその悪事の真相に近づいて行きます。ここまでは毎回新しい脚色が工夫されています。けれど最後の数分間は何時も、数十年にわたって変わらぬ結末が待っています。
最後に悪人一味の悪事が暴露されると、悪人達は老公一行に暴力を行使しようとします。すると御老公は「助さん、格さん、懲(こら)らしめてやりなさい」と命じます。善悪入り乱れてのチャンバラとなり、老公の「もうこの位でいいでしょう」の言葉と共に、助さん(または格さん)が懐の三つ葉葵の印籠(いんろう)を取り出し「静まれ、静まれ、この印籠が目に入らぬか」と悪人達の前にかざす。そこで一件落着となります。
この印籠の出現の前に、事件に関わったすべての人々の意志、動向が静まり、御老公の鶴の一声によって結末を迎えます。この一点に騒動がスーッと静まり返る韻、これが意富斗能地の父韻シであります。この大きな入り乱れてのチャンバラが、御老公の三つ葉葵の印籠の一点にスーッと吸込まれて行くように収拾されて行く働き、それが父韻シであります。水の入った壜(びん)を栓を抜いて逆(さか)さにすると水は壜の中で渦を巻いて壜の口から流れ出ます。父韻シの働きに似ています。この渦の出来るのは地球の引力のためと聞きました。水は螺旋状に一つの出口に向って殺到しているように見えます。父韻シの働きを説明する好材料と思えます。
次に妹大斗乃弁の神・父韻リの説明に入ります。大斗乃弁とは、漢字の解釈から見ますと大いなる量(はかり)のわきまえ(弁)と見ることが出来ます。また神名に妹の一字が冠されていますから、意富斗能地(おほとのぢ)とは陰陽、作用・反作用の関係にあることが分かります。この事から推察しますと、父韻シリは図の如き関係にあることが分かって来ます。五十音図のラ行の音には螺理縷癘炉(よりるれろ)等、心や物質空間を螺旋状に広がって行く様の字が多いことです。そこでこの図の示す内容を理解することが出来ましょう。
「風が吹くと桶屋が儲かる」の譬えがあります。風が吹くという一事から話が四方八方に広がって行き、最後に桶屋が儲かるということに落ち着くのですが、ここで落ち着かないで、更に諸(もろもろ)が発展して行き、永遠に続くことも可能です。人の考える理屈が野放図に広がって行く譬えに使われています。これも父韻リの説明には不可欠の理屈の働きと言えましょう。また噂(うわさ)に尾鰭(おひれ)がつく、という言葉があります。一つの噂に他人の好奇心による単なる根も葉もない推察が次々と加えられ、当事者や、または全然関係のない大勢の人々に間違った情報が伝わって行くことがあります。時にはそれが社会不安を惹き起こしたり、大きな国家間の戦争の原因になることがあります。これ等の現象は人間の心の中の父韻リが原動力となったものであります。原油価格の高騰が伝えられた数日後、スーパーマーケットの店頭からトイレットペーパーが姿を消してしまったという話をまだ記憶に留めていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。
父韻リの働きを説明するために悪い影響の話ばかりして来ましたが、父韻リには善悪の別は全くありません。人間誰しもが平等に授かっている根本能力の一つであります。発明家といわれる人は、一つの発想、思い付きから次から次へと新しい発明品を発表して行きます。これも父韻リの原動力によるものであります。この根本力動の韻律によって人類は現在ある如き物質文明を建設して来たのでもあります。
お気付きになる方はお気付きになる。お気付きにならない方はお気付きにならない。最後にこの真実が成された時にお気付きになられたらよろしいのです。実にいろんな考え方を持ってこられますが、「そうでございますな」と肯定する。馬鹿にしてそのように申上げているわけでは御座いません。
日本の歴史上でそういう考え方をするのも現時点に於て「間違っている」とは申上げられません。「そうですな」とお返事はしてもそれが真理だと申上げているわけでも御座いません。
古事記の中のほんの数十ページです。言霊百神は天の御中主の神から建速須佐之男命まで。人類の秘宝、人類がこれだけはぜったい失ってはいけないことが詰まっております。今後この学問が隠れる事はもうないと思います。
「古事記と言霊」の本に八つの父韻のことはこと細かく書いておりますので、よくお読みくだされば御理解できると思いますが、ただ混同しやすいところがございますのでお話申上げますが、意富斗能地(おほとのぢ)の神、妹大斗乃弁(おほとのべ)の神、於母陀流(おもだる)の神、妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。
図にしますとこうなりますが、それでも何の事かお分りにならないでしょうが。妹阿夜訶志古泥ともうしますのは、昨日ある会場へ行ったら「お久しぶりで御座いました」と声を掛けられて、以前たしかに覚えのある顔だけれど名前を思い出せない、なんかの拍子に思い出した、そうしましたら於母陀流、自分の宇宙全体にその名前が浮かび上がった。
そうしましたら同時に、その人とはどういう時にどういう話をしたかということを、経験した心の真中に結び付く。「あぁ、あの時の人だ」と思い出す。妹阿夜訶志古泥の阿夜とは記憶の暗いところにあるから夜というのでしょうか。
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精神元素「リ」の言霊と古事記。 その1 。
古事記神代の巻冒頭百神によって与えられた神名・ 「妹大斗乃弁(おほとのべ)」)の神。 言霊 リ
・神名の解。
大・大いなる
斗乃・計りの
弁・弁(わき)まえ
・神名全体の意味。
大いなる量(はかり)のわきまえ(弁)
・言霊「リ」の意味。
心の中の精神内容が新しい分野に向かって螺旋状に発展し、広がって行く働き
心の中にひとつの物事の理解から思いが多くの事柄に向かって連想的に発展して行く事
自己を取り巻く選択肢の花弁の中から自分のしゅの保存と伸張に都合のよいものを選択する律動
❻ 妹大斗乃弁の神・父韻リ
大斗乃弁とは、漢字の解釈から見ますと大いなる量(はかり)のわきまえ(弁)と見ることが出来ます。また神名に妹の一字が冠されていますから、意富斗能地(おほとのぢ)とは陰陽、作用・反作用の関係にあることが分かります。
この事から推察しますと、父韻シリは図の如き関係にあることが分かって来ます。五十音図のラ行の音には螺理縷癘炉(よりるれろ)等、心や物質空間を螺旋状に広がって行く様の字が多いことです。
「風が吹くと桶屋が儲かる」の譬えがあります。風が吹くという一事から話が四方八方に広がって行き、最後に桶屋が儲かるということに落ち着くのですが、ここで落ち着かないで、更に諸(もろもろ)が発展して行き、永遠に続くことも可能です。
人の考える理屈が野放図に広がって行く譬えに使われています。これも父韻リの説明には不可欠の理屈の働きと言えましょう。また噂(うわさ)に尾鰭(おひれ)がつく、という言葉があります。一つの噂に他人の好奇心による単なる根も葉もない推察が次々と加えられ、当事者や、または全然関係のない大勢の人々に間違った情報が伝わって行くことがあります。
時にはそれが社会不安を惹き起こしたり、大きな国家間の戦争の原因になることがあります。これ等の現象は人間の心の中の父韻リが原動力となったものであります。
原油価格の高騰が伝えられた数日後、スーパーマーケットの店頭からトイレットペーパーが姿を消してしまったという話をまだ記憶に留めていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。
父韻リの働きを説明するために悪い影響の話ばかりして来ましたが、父韻リには善悪の別は全くありません。人間誰しもが平等に授かっている根本能力の一つであります。発明家といわれる人は、一つの発想、思い付きから次から次へと新しい発明品を発表して行きます。これも父韻リの原動力によるものであります。
この根本力動の韻律によって人類は現在ある如き物質文明を建設して来たのでもあります。
○○○
言霊学は、文法のようにその言語のより小さな単位を連結してより大きな構造を作る際の規則をつくろうとするものではなく、発見された心の五十の素粒子とその運用に関するものです。例えば国文法の「リ」は『 り
(助動)(ら・り・り・る・れ・れ)
完了の助動詞。四段活用の動詞の已然形(上代では命令形)、サ行変格活用の動詞の未然形に接続する。
(1)動作・作用が既に終わって、その結果が存続していることを表す。…た。…ている。「秋の野のみ草刈り葺(ふ)き宿れ〈り〉(原文: 金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之)し宇治のみやこの仮廬(かりいお)し思ほゆ/万葉 7」
(2)動作・作用が引き続いて行われている意を表す。…ている。…てある。
(3)動作・作用が完了したことを表す。…た。…てしまった。』
となっていて、現象とその活用の規則性を探ろうというものです。
言霊学では発見された心の素粒子である言霊という単音の心と言葉の関係とその運用に関するものです。
そこで「リ」は、心の中の精神内容が新しい分野に向かって螺旋状に発展し、広がって行く働き
心の中にひとつの物事の理解から思いが多くの事柄に向かって連想的に発展して行く事
自己を取り巻く選択肢の花弁の中から自分のしゅの保存と伸張に都合のよいものを選択する律動、というように説明されます。
心が相手に結ばれようとする時には、対になった四つの現れになり、
ウ次元の一般的全体的な結ばれ方、オ次元の経験的収納する結ばれ方、ア次元の成果吸引する結ばれ方、そして、内外選択する結ばれ方になり、それらの底流として持続していく心の結ばれ方があります。
ブログを読んでパッとした印象を得、理解をするのに自分の経験が呼び出され、うまく結ばれたり反撥したりして、どうしようかという態度をとるかというと、ウオアエという一連の流れがあって、ここではそのエ次元での妹大斗乃弁(おほとのべ)言霊リです。
言霊シの意富斗能地(おほとのぢ)と対ですので、心の選択が外へ向かう、心の中に拡がる方向にあります。読んでいてフーンそんなものかというような時、そんなフーンが心の中に拡がっていきます。その時は前段の経験収納次元でまだ心が決まっていない為ですが、既に何て言うことない思いつきだけじゃないかというような自分の経験判断と既に結ばれている時には、フーンと自分の心の中にではなく概念という心の外へと持ち出されそれに結ばれます。
(1)にある万葉集7の「宿れり」について。
「秋の野のみ草刈り葺(ふ)き宿れ〈り〉し宇治のみやこの仮廬(かりいお)し思ほゆ/万葉 7」
(歌も古文も文法もからきし知りませんが引用の中にあったもので、仕方なく何とかやろうかなと、思ったが、、、)
文法では(1)に該当しているということです。言霊では単音「リ」の扱いですのでどうなるのでしょうか。活用して変化したものを単独で取り上げるのは奇怪しいのではとも思います。
【通釈】秋の野に生える草を刈り、それで屋根を葺(ふ)いてお泊りになった、宇治の仮のお宿。あの宮どころが偲ばれます。
宿泊の想いでのような解です。
「リ」を単音にすると「宿る+り」になって、「心の中の精神内容が新しい分野に向かって螺旋状に発展し、広がって行く働き、自己を取り巻く選択肢の花弁の中から自分のしゅの保存と伸張に都合のよいものを選択する律動」が加わった宿るになります。
そうすると宿った何ものかがあるわけですが、通釈のように想いでのことでしょう。何のどんな思いなのかが歌の内容となるものでしょう。ここでは旅行の想いでの中を想像します。歌を天皇と関係した者とすると、言霊の秘密をちょっと教えてくれた天皇への思い出ともなっているようです(天皇とは言霊原理を体得しそれによる為政者のこと)。
どのようなことを教えて貰ったかと言うと、
「お前も歌を詠むのなら、歌とはまずア次元の世界のことと知りなさい、秋の(アの気の)、野の(世界の)、そこでは、
み草刈り(素材を集め)、葺き(そこに思いの気を吹き込み)、
宿れ(言霊の気を宿らせるのに)りし(心の中の精神内容を拡げ対象に向かわせること)、
そうすれば、
「宇治(うじ)の宮処(みやこ)の、仮廬(かりいほ)し思(おも)ほゆ」
「宇治の宮処の」は黄泉の国にいって伊耶那岐が見た蛆、つまりこの世の思考法にと取りつかれている人々とその世界のこと、そういった方法でできた歌)は、
「仮廬(かりいほ)し思(おも)ほゆ」は仮に創られただけの歌とは違って素晴らしいものができるよ」、
と、ちょっとだけ教えてもらった素晴らしい想いでを、宿泊の思い出に寄せて読んだもののように思えます。「秋」といえば常に「アの気」になると言うわけではありませんが、天高く、すがすがしい、食欲の、芸術の、秋の気が言霊の体現者と歌の作者との間に入り込んだかもしれません。
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