斯く出でば、天津宮事以ちて、大中臣、天津金木を、本打切り、末打断ちて、千座(ちくら)の置座(おきくら)に置足らはして、天津菅麻(すがそ)を、本刈断ち、末刈切りて、八針に取辟(さ)きて、天津祝詞の太祝詞事を宣れ。
●斯く出でば…
皇祖皇宗のご経綸である第一精神文明からもう一つの文明である物質科学文明を急速に発達させるために、皇祖皇宗は生存競争社会へ変転する必要から、言霊布斗麻邇の学問を急速に世の中から埋没させる仕組みに取り組みました。
その精神原理が忘れられますと勢い「我良し、我勝ち」の自我意識は、強い者が弱い者を押しのけて行く社会、「我良し」の観念が社会の大きな精神的コンプレックスになり、罪穢れとしてどんどん積もってきました。「罪」の語源は「積む」、何を積んだか、人間の経験知です。経験知は物質科学の心構えそのものです。
物質的にはものすごく便利な文化が生み出されましたが、精神的には荒廃し、想像だに出来ない人類の生存が危ぶまれる事態になりました。
以上のようなことを「斯く出でば」と大祓は一言で片付けております。
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●天津宮事以ちて…
「天津」とは世界の政治を執り行う日本の朝廷では、というような意味。‘宮事’の「宮」は建物のことではございません、言霊の建物という意味。言霊五十音図のことです。‘宮事’の「事」は五十音の一音一音を理解した上で、それを運用、活用していく働き(仕事)のことです。活用して行く仕事。
●大中臣…
今の総理大臣のことです、昔は政治の一番の責任者が天津日嗣天皇、今の憲法では天皇は国民総合の象徴、何だかよく分からない位で、政治には直接関係ございませんが、昔は天皇が政治を執り行っておりました。
と同時に今後、新しい世の中が来る時には、天皇が全責任を負う政治になり、禊祓の対象は全国民、全世界の人々、政庁で働くお役人等々です。天皇と国民の間に立って、天皇の仕事を代行する方、それが「大中臣」です。
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●天津金木を、本打切り、末打断ちて…
大祓祝詞において、今迄国学者がもっとも苦労したところ、「天津金木」というのが、どういうことかが分からなかったから。六月と十二月の晦に必ず宮中で大祓祝詞を唱えておりますが、二千年間、「天津金木」とは、次の「天津菅麻」というものが、どういう事なのか、全然分かりませんでした。
これを解釈するに色々手間ひま掛けて、こねくり回しても結局分からないまま、今に至るわけですが、言霊の学問が二千年の闇を突き破って復活しましたので、大祓祝詞の意味がハッキリ分かるようになりました。
「天津金木」とは、字句の説明だけからですと、金や木の自然物を取り扱う心の構造、要は物質科学を発達するため生存競争を促進する人間の心の構造を五十音図で表わしました。
もう少し言いますと、人間には五つの性能があり、それを五母音で表わしますと、‘ウオアエイ’から出て来きます。その中の五官感覚、いわゆる、耳鼻眼舌触を基にした意識から出て来る欲望性能を、他の四つの性能の中心に置いた心の構造を表わした小学校で習う五十音図(アイウエオ)、それを「天津金木」と申します。
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よくよく考えて見ますと、生存競争の心の構造である音図を小学校の時から教えたのですから、とんでもない世の中になることは必至でありましょう。この音図しかないと思い込んでおりましたから、教える先生もこれが欲望の音図だなんてサラサラ知らないで教えているわけです。
天津金木音図は人間の欲望感覚を人間の精神中枢に置いた心の構造を表わした五十音図。縦に‘アイウエオ’、横にア段が‘ア・カサタナハマヤラ・ワ’と並びます。この音図をマスターしますと世界の王様になれます。この音図の内容を戦略、軍略に使い、中国では「孫子の兵法」、百戦戦うも危うからず。
日本ではユダヤから中国を経て流れて来た「六韜三略(りくとうさんりゃく)」、辞書で引きますと「虎の巻」、元はユダヤのカバラの原理、これを「トーラ」と申します。特殊な人たちだけが使うと思うのは大間違い。
源義経が「虎の巻」を盗む演目は歌舞伎にまで出て参ります。義経が中間の身にやつして忍び込む芝居。戦略、軍略の一番の元は‘ア・カサタナハマヤラ・ワ’、縦の‘アイウエオ’を修得しますと戦いでも、大統領選でも、絶対に負けません。また商売においては百発百中の売り込みが出来ます。このことは「古事記と言霊」の父韻の章に説明してありますのでお読み下さい。
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●本打切り、末打断ちて…
音図を見れば、物事は母音の‘ア’から始まって、現象が起こり、実相の変化、‘カサタナハマヤラ’‘が起こり、半母音の’‘ワ’で終わります。母音が物事の始まり、半母音が物事の終わり。天津金木の「本打切り」とは、アイウエオの縦の並びを横の並びから、まず切り離してしまう。
五十音図で見れば「切り離してしまえ」と言えば簡単ですが、これは心の問題ですから、心を切り離すことは出来ませんが、後で説明いたします。「末打断ちて」の‘末’は半母音、これも切り離してしまいます。
●千座の置座に置足らはして…
「千座」は道の倉、道(イの道=命)が置いてある所、‘置座’、つまり道理の内容・構造である五十音図に「我良し」の欲望中心の心の構造(天津金木音図)から生命の調和する心の状態に当てはめて、置き換えてみて。
何故、ハッキリ言わないのか、最後に「天津祝詞の太祝詞事を宣れ」とありますから、ここまで来ますと「千座の置座」って何だと言えば、天津太祝詞音図のことであるということを未だ説明しておりませんので、「千座の置座」と言ったわけです。
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●天津菅麻を、本刈断ち、末刈切りて…
天津菅麻の縦の五母音の並びは‘アオウエイ’です。人間は天国と地獄の間にいる生物、それは儒教の考え方。天国は天(ア)を仰ぐ、地獄は地(イ)、それ以下はない、天国と地獄の間をさすらっているのが人生。
天(ア)は人間にはどうにも出来ない。地上に立って動かない。中の‘オウエ’はどうか、‘ア’の天の理想を求めて、‘イ’の地の現実を見つめて、その間の‘オ’の経験知、‘ウ’の欲望、‘エ’の実践智を働かす事によって文明を創造し、文化が成り立って行く。
‘アオウエイ’は人間が生活を営んでいる、生まれ持った性能、天も地もありますが、未だ、何も文化活動をしていない大自然から授かっている赤ちゃんの心の構造が「天津菅麻音図」です。
赤ちゃんは‘オウエ’の性能は持っていますが、未だ性能を働かせていません。現象子音は何も起こっていないので空欄です。ここで書いた ‘イ’の父韻の並びはどのような並びでも構わないのですが、作用・反作用、陽・陰、の二つが一つの組み合わせになります。
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と同時に「天津菅麻音図」とは生まれた時から誰もが持っている心を ‘イ’(言霊)の次元で観た人間の心の構造(すがすがしい心の衣)、未だ何もやっておりませんが、活動が始まりますと、五十の言霊を応用して何でも出来る可能性が出て来る大本の材料。大自然の創造神、伊耶那岐命の音図と言う事が出来ます。
何故、赤ちゃんの心の音図を禊祓しなくてはならないのか、それも分からないことの一つ。これは重要なポイントですが、これが日本の皇室に伝わって来た大祓というものが、人間の罪穢れを祓うために、どういうことをやるのか、真相が分かる言葉は世界中の人が心の証明をすれば、仰天するほど驚く人類救済の手段の言葉となります。
‘アオウエ’が何も決まっていない空白なのにどうして禊祓してバラバラにするのか、次にそのヒントがございます。
●八針に取辟きて、天津祝詞の太祝詞事を宣れ…
五十音図上で母音(本)と半母音(末)の列を切り離しましたから、間の八列が残ります。それをまた割いてバラバラにしてしまいます。結局全部バラバラにしてしまったということになりますが、縦が‘アイエオウ’、横が‘ア・タカマハラナヤサ・ワ’の天津太祝詞音図の心のやり方に宣りなおしなさい。
天津金木音図の心の構造を人間の心の原点に返ってバラバラにしてしまい、御破算にして、天津太祝詞音図の心の構造にしなさい。どういうことか、考えただけでも身が引き締まってきますが、理屈では私の先生から教わりました、理屈では分かりましたが、でも、心で分からなかった。
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音図上ではやり方を承知しましたが、本を切り離し、末を切り離し、中間も取り割く、どうも合点がいかない。或る時、丑三つ時に叩き起こされまして、心で感動したことを言葉にしてお伝えすることは難しいですが、皆さんにお話してみようと思います。
そもそも大祓祝詞は今から推定三千七百年前に作られました。鵜萱不合王朝第三十八代天津太祝詞子天皇が作ったと竹内文献に書いてございます。
制定した当時はともかく、ズーッと宮中において六月と十二月晦日に、宮中の人たちを集めて、こうなるよ、こうするよ、と宣言を今日迄三千七百年の間、欠かす事なく宣言しておりましたが、日本では二千年間、実行することはありませんでした。
何故かと申しますと、時代が煮詰まっていなかったので大祓はやる必要がない。しかし、今日に至って、いよいよ人類が人を押しのけて進むと大変なことが起こる事態になった。
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船に使われている東北大学冶金工学の本田博士は、製法を完成した時、「特許をとれ」、「孫の代に至るまで大金持ちになれるぞ」と言われましたが、ウンと言わない。「科学の成果は個人の成果ではない、科学は人類のものだ、だから特許をとって金持ちになろうとは思わない。」
日本の産業スパイがアメリカから起訴されましたが、何をスパイしたのか、人間の遺伝子に関する内容、人間の生命に関する事を特許にするヘンテコなことが起こっている。発明した本人にしたら「金のなる木」ですから、簡単に特許権を放棄することは難しいでしょう。
しかしながら、これ以上自我意識を全面的に突き進みますと、人間精神が荒廃してしまいます。知識と申しますのは金平糖、同じレベルでいる内は仲がいい。ちょっとでも頭が出るとものすごい敵味方になって足を引っ張る。
科学を進歩させるには競争原理を優先しますが、人の心も我慢できなくなって、「もうこれ以上やると大変だぞ」と気が付いた時に、初めて大祓が必要になって来る。此処に来るまでとっておいた。大祓祝詞の行っている意味が二千年間此の方、日本人でさえ分からなかったせいもあります。
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今やるぞ
平成天皇が即位された時の儀式や、伊勢神宮の本殿中央の真下の五尺の柱、‘心の御柱’の意味も分からない。伊勢神宮の神主さんも分からない。学界では「あれは男根を祭ったものだ」なんて、そうそうたるメンバーが大真面目に論う。「少しは目を覚ませ」、そういうことが神道に関しては往々にして起こる。そのように世の中が一つの事に取り憑かれて極端に振れますと、変な社会現象が起こって来る。
だからこそ孔子が「中庸が大事」と言った、二三千年間、中庸な世の中になった試しがない、必ずどっちかに振れる。そういう世の中はただ事ではないということで大祓祝詞を「今やるぞ」と宣言したわけです。「やるぞ、やるぞ」と言ってやらなかった。
大嘗祭がどうのこうのと言っている間に、宮中では、時が来たならば、しきたりを神主が型で表わして伝統を保持してきた。しかしながら、皇祖皇宗が三千七百年も前に「こうなるぞ」と知って大祓祝詞を遺しているということは、その洞察力はたいしたものです。
今迄字句で説明したことからと精神的にはどういうことをやるのか、音図のところからもう一度説明をいたします。鵜萱不合王朝第六十九代神足別豊鋤天皇の時にユダヤ王、モーゼ来る、天津金木を教うる。それは金木をそのまま教えたわけではなく、ユダヤ民族に分かり易いようにヘブライ語と数霊に脚色して教えたようです。
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光と創造
霊的に言いますと何かに取っ憑かれた、人間に憑かれますとひどい。今でいうところのは‘ストーカー’、‘カサタナハマヤラ’を総て説明しますと明日になってしまいます。そういうのが天津金木音図の心の構造です。
それを「八針に取辟きて」、天津金木を心の構造とする主体を切り離してしまえ(本打切り)ということは「我良し」の心を消えるようにしてしまう。そんな器用なことが出来るのか、それが出来る。罪穢れというものがあったら、普通なら神主の幣で祓う、あれは仕草、それで祓えるのなら毎日します。
時が来たら、そういう形で表わすものを以て、貴方の頭にあるものを祓いますよ、眼に見えない何を祓うのか、「自我」の観念を消す、何が何でも先勝ちの観念も、自分がやらなくてはならない目的意識も消す。(末打断ちて)間にある段取りを八つにバラバラにして、こんなことをしていたら損するよ、こうやればもっと素晴らしいことが出来るよ。
キーワードは「光」と「創造」。罪穢れを祓うとたら、おまじないのように祓うか、またはキリスト教の懺悔をするか、罪を聞いて改めなさいよと一人一人の心を改めて行く、それも一つの技ではあります。
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それぞれが尊
そうしますと、個々の問題はそれぞれですから、全世界の人々を祓うとなると現実的ではありません。一人一人が積極的に自らを祓うように仕向けて行く、悪い事をしている人に「悪い事を止めろ」と言うのではなくて、悪い事をする人間の何か良いところの特徴を引っ張りだす。
‘世’に人類全部の色があるとして、その絵の具で人類の大キャンバスに文明創造の絵画を描く、総ての人が一役(摂取不捨)になる、それを「創造」と申します。
総て仏様の懐に入ってどんな人も捨てない、どんな悪事も捨てない、皆生かして行く。「悪」は光を当てる事で瞬時に消えます。天津金木の「我良し」の観念を取り除いて修祓するのは分かります。では、持って生まれた心の構造である天津菅麻を祓うとは、どういうことか。
大祓祝詞の意味が明らかになったのは、古事記の神話で表わされた言霊の原理が復活してきたからです。言霊百神のうちの74番目の伊耶那岐大神から100番目の須佐之男命までの27神で説かれておりますのが、古事記の神話における「禊祓」の詳細なやり方です。
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大祓祝詞・禊祓
人間の心が、これっぱかり単位でも動くことを見逃す事なく、これ以上正確な説明がないであろうと言うくらいに説かれた古事記の「禊祓」の行いから観ますと、天津菅麻を前面に出すと「大禍津日」だよ、天津菅麻の原図からすると善悪の判断を曖昧に出来ない。その判断が出来なければ大祓は出来ないとハッキリ書いてあります。
ところが、善悪に限らず、美醜、真偽、損得等の判断を、禊祓の行いの中の75~80番目の神様の名前で明らかにして、「お前の実相はこうだ」ということを決して言わないで、「あなたの今の状態はこうこうだから、自分の罪穢れから自由になって、もっと人間らしい清々しい人生を送ろうとするならば、こうしたらいいんじゃない」と目的に渡す次の6つの神様の名前で表わします。
天津菅麻が次に出て来ます、それが「大禍津日の神」です。「禍」という字が付いているのはそのような理由からです。説明しますと長くなりますから、古事記の74番目の伊耶那岐大神から100番目の須佐之男命までを何回もお読み下さい。それと大祓祝詞を比べてみて下さい。
具体的に申しますと、「あなたは今ここにいます、今迄の事を続けて行けば、生滅を繰り返す因縁のままに盲滅法働かされて人生を送ることになる。ですが、もっと楽しく、もっと素晴らしく、世の中に貢献しながら、これくらいの利益をもたらす事が出来ますが、どうですか?」と言えば、誰だって納得します。
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大祓祝詞・次の人生に渡す言葉
目的に渡すにはどういう言葉で教えれば良いか、その時に調べたことをそのまま言ってしまうのは「大禍」です。そんなことを言ったら返って駄目になるぞ、‘津’は港、渡すの意。日の目を見るところへ渡せるか。実相をそのまま述べる事(八十禍津日)によって改めようとする、それもいけない。
大禍津日の神と八十禍津日の神を否定してどうするのか、次に神直毘、大直毘、伊豆能売の三人の神様の名前が出て来ました。ここの所が日本の大祓の眼目です、一番大切な所。悪しき行いや思いを責める一切することなく、喜んで生き甲斐を感じる次の人生へ渡す、それを「禊祓」と申します。
次の人生に渡す事によって、罪穢れが全部なくなる。自動的に消滅してしまう、その方法は古事記に書かれています27の神様の「禊祓」をよくお読みになって下さい。余裕がありましたらそのことについてもお話したいと思います。
大祓祝詞を解釈するには古事記の言霊の原理の神話を照らし合わして、初めて分かるように出来ております。「創造」は説明いたしました。では「光」って何か。古事記百神の結論は‘三貴子’(みはしらのうずみこ)である天照大神、月読命、須佐之男命の三人の神様が誕生して終わっています。
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大祓祝詞・ミハシラノウズミコ(三貴子)
伊耶那岐命は「吾は子を生み生みて、生みの終に、三柱の貴子を得たり」とお喜びになって、天照大神に御倉棚にある御頸珠を賜い、「高天原(エ:実践智・道徳政治)を知らせ」、月読命には「夜の食国(オ:経験知・学問科学)を知らせ」、須佐之男命には「海原(ウの名の原:欲望・産業経済)を知らせ」と言依さしました。
三人の貴子の内の天照大神だけに言霊の原理を授ける(御頸珠)、他の二人には言霊の原理の活用を許さなかった。言霊を昔の人は一字で「霊(ヒ)」と申しました。霊が動き駆出す、「光」です。
言霊の原理に則って言霊エは道徳、実践智に活動する、その「霊駆り(ヒカリ)」で以て罪穢れを消してしまう。
不幸な子、弱い子ほどお母様は可愛がる、その心で観ると、やんちゃするお子さんを叱りつけても駄目、お子さんが大人しくなる、どんなに政治の大物であっても、心に響く言葉がございます。
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大祓祝詞・人間の心の持ち方、運び方
それがどこから出て来るのか、人間の心の持ち方、運び方によるのです。お子様を泣き止ますのも、ユダヤのキング・オブ・キングスに「分かったかい」と言う言葉と同じです。
今迄お話した文章が、心の中でここまでは理屈でよく分かっておりました。どういうことなのかが心の中で分からなかった。「そうなったら、こうなるよ」と言う、「次に素晴らしい世の中になるよ」と書かれている意味が何だかよく分かりませんでした。
私が創造の中で闇が消えて行く方法が自分でもし出来るとするならば、世の中がどのように転がっていくかが見えて来て、ここに書いてある通りに、少なくとも行けそうだなという感じはしています。
「天津金木を、本打切り、末打断ちて、八針に取り辟きて」とは、実際にどうしたらいいんだということは、なかなかお分かりにならないと思います。どのように申し上げても、お遣りにならない内は、近づくためにもう一度同じことを申し上げます。
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大祓祝詞・言い回しを換える
斯く出でば、天津宮事以ちて、大中臣、天津金木を、本打切り、末打断ちて、千座の置座に置足らはして、天津菅麻を、本刈断ち、末刈切りて、八針に取辟きて、天津祝詞の太祝詞事を宣れ。
天津太祝詞子天皇が制定してから宮中では色んな唱え言をしてきました。最後に奈良時代に柿本人麻呂が今のこの文章に修辞し、言い伝えられている。最終的に美文調に唱え易くするためには、詩的表現が交じることになり、文章が編集されております。それを今私が言いますようにお聞き下さい。
「大中臣、天津金木を、本打切り、末打断ちて、天津菅麻を、本刈断ち、末刈切りて、千座の置座に置足らはして、八針に取辟きて、天津祝詞の太祝詞事を宣れ。」こうなりますと原文に近い。
「八針に取辟きて」と「千座の置座に置足らはして」は天津金木にも天津菅麻にも、両方かかって来ると取って下さると意味が尚、明瞭になります。「千座の置座に置足らはして」は‘千座’は生命の道理、‘置座’倉は構造、置いてある所、「生命の道理の構造に当てはまるように置いてみて」ということです。
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大祓祝詞・自我はない
人間には五つの性能を授かっています、進化の段階で言いますと‘ウオアエイ’、 ‘イ’の実際の働きである八つの父韻が自分の心に意識し自覚し分かって来ます。その時、自覚された自分の生命の構造に照らし合わせ、天津金木と天津菅麻をよく観て下さいませ。
そうしますと「本打切り、末打断ちて」というのがどういうことなのか、ハッキリ自分で操作が出来ます。実のところ、「我」という観念、「俺」という観念、という自我意識はないのです。
斯う言いますと、現代人は「そんな馬鹿なことがあるか」って、人格を高めて、自我を確立しようと言っていることは、どういうことなのか。私的変調の立場なら、それは良いことですが、全体の‘ウオアエイ’の五つの人間に授かった性能がどう動けば、人間の生活を営む事が出来るか。
その観点から見ますと ‘我良し’の観念が、理屈では全然分からないのですが、しっかりと自覚される。どういうメカニズムで自分の心の中に出て来るか、実は我とか俺はもともと「ない」、斯う言いますと、現代人は「そんな馬鹿な」と言います。
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大祓祝詞・虚との格闘
「人格を高めて自我を確立しろ」ということがどういうことになるか、それは知的変調の立場からなら、それがより良い事になりますが、全体の人間本具である‘ウオアエイ’五つの性能から観ますと、‘我良し’の観念が何処から出て来るのか、理屈では分かりませんが、しっかりと自覚される。
「自我」をキリスト教では蛇に誘われて禁断の実を食べたから、アダムとイヴが自我を知ったと。けれど‘我’というものがどういうところから出て来るかは、いかなる宗教書にも説明しておりません。何故なら「ない」からです。
‘我’をよくよく観ますと、ないけど「ある」。神様がないものをどうして「ある」と思わせるのか。それが神の最大の恩恵です、何故なら「我」が自分の心の構造を知る事が出来る。「我」をなくそうとする努力の中に自分の生命の構造が分かって来る。
もともと「ない」のに格闘する、幽霊と喧嘩しているようなもの、それは空気とボクシングしているようなもの。最後はどうなるか、空気は疲れない、空振りする方は疲れます。
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大祓祝詞・孫悟空の頭のわっか
「参った」ということを知るがために、神様は「ある」ように思わしている。いくらやっても‘我’はなくならないと思うと自分自身に「参った」と降参いたします。その時に闇から光へ引き上げられる。
何度も同じことを、手を替え、品を替えて申し上げております。現代人は‘我’は誇りなんです、‘我’をしっかり握っておれば大丈夫だと思い込んでいる。どんなに‘我’が確立している人でも、「この世の中をどうしたらいいんだね?」と聞かれたら、どうにもならない。
‘我’を確立してこれ以上素晴らしい人はいないであろう認められる人格者であっても「天津罪」を祓うことは出来ません。人類の罪は如何ともし難い。人類の罪の現れである‘我’という意識をなくす為には、‘我’という意識が「ない」とできません。
妙なことを申し上げます。アイスクリームをどうしても食べたい、それはアイスクリームを食べない事だ、人間の心の真実です。私は同じ自我意識と闘って五十数年、今から何年か前に仏教に書かれている良い言葉を見つけました。
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大祓祝詞・いくら我をなくそうとしても無駄
「煩悩の大海に入るに非ざれば、一切智の宝を得ることなし。」、一生懸命努力しても‘我’がなくならない。すぐ「俺が」が出て来る、「俺」をなくそうとして、ますます言霊の学問を勉強するに連れ、「我っていいもんだな」と思えるようになりました。
‘我’というものと闘って、太安万侶さんが書いた謎謎がいっぺんに解けました。‘我’の恩恵でもあります。「参った」、「いくら‘我’をなくそうとしても無駄なんだ」と諦めたと同時に‘我’の自我意識が消えている。「ある」と思うから闘う、どうやっても勝てない、そうしますと‘我’はなくなる。
人間が闇からフッと抜け出して光の世の中に飛び出して行くためにのみ「悪」はある。私が小笠原先生に「神様がいるのにどうしてこんな世の中にしたのでしょう、もっと物質科学を性急に発達させなければ、こうはならなかったのでは?」と訊ねました。すると先生は「ひとつ私の方から質問していいですか?」