天の岩屋戸、1
天の岩屋戸を開きてさしこもりましき。
ここに天照大御神--精神構造の最高神は
見かしこみて--見るに耐えなくなり
天の岩屋戸を--
開きてさしこもりましき。--開いて奥に隠れた。
ここに、高天原皆暗く--
葦原中国ことごとに闇し。--日本も世界も暗黒となる。
これによりて常夜往きき。--このために永遠の闇が続いた。
ここに万の神のおとなひ(声)は、--いろいろな神の声が
さ蠅なす満ち、--夏の蠅のように満ち、、
万のわざはひ(妖)ことごとにおこりき。--諸々の災いが起こってきた。
-----------------------------
天照大御神は自主的に隠れた。
音図のア-ワの路が暗闇に導かれる。
言霊子音を創造することなく、思考停止のように終了してしまう。
つまり自主的な思考、意識、感受の停止を行う。
こうなれば精神頭脳内には何も生産されるものはなく、形而下世界にも何も産まれるものがない。
このままでは永遠の静寂と闇の世界であるように思われるが、
いろいろな神の声が夏のハエのように聞こえるという。
-------------------------
意識を自主的に停止しても、外界からは私のそれぞれの感覚に応じてやってくるものがある。
私は不快感覚え癇癪を起こす。
後の話では岩屋戸は閉まっていても、広場の騒ぎが聞こえていた。
何の騒ぎで何の音かは判らないが、分別不明ながら感覚、知覚に訴えるものはある。
例えば、視覚で言えば、目で何も追うものはなくただ目を開いているだけで、何かを見つめて納得する様子を持たない場合、光が目を刺し邪魔をすることがある。
聴覚においても同様なことが起こる。隣の音を理解しないでただうるさいことがある。
ここでは古事記の岩戸開きが何を指しているかが問題となっている。
私は天照大御神として、その意味を知りたいが、まずは今までの習得している知識経験をまず放棄して自分を暗闇の中におく。
何がしかの知識が自分を披露したいと脳裏に登ってくることもある。だがここは何もないこととする。
古事記の続きは
ここをもちて八百万の神、
天の安の河原に
神集い集いて、
高御産巣日の神の子
思金神に思はしめて、
常世の長鳴き鳥を集めて鳴かしめて、
以下、岩屋から引き出すためのいろいろな準備を始めることが述べられる。
。
岩屋戸の外と内では別々の事が起こっているが、私はここに一人しかいないので、全役を一人で引き受けなくてはならないだろう。
まず私は天照大御神としてあった。
そして、、、、、
岩屋戸に隠れた、。
岩--いは--屋--や--戸--と
これは読み替えると、岩戸となって、
五ーー葉--戸→五つの次元にある言葉の別々の扉となる。
五つの精神音図をまとめて一言で岩屋戸と表現暗示したものとなる。
天照大御神が隠れたということは、自らの精神活動をするために、まず自分の精神構造の中を覗きに行ったとなる。
見かしこみ、見るに耐えないと言われるように、積極的な自己洞察が必要になるみたいだ。
現時点での私では未だ了解不能であるが、岩戸を開くというからには天岩戸が原理として天照大御神には現前している。
ここが私ような初心者とは完全に相違するところだ。
この、始めに原理を持っている持っていないが根本的な問題に思えて、私はうまく進めない。
勉強していくうちに知識は増えていくが、そしてそれによって何がしかの、方針なり習慣なりができて、
大体は癖という形で頭が固定していく。
単なる癖のくせに原理面をすることもある。
天照大御神はまず、身を隠したとあるから、自分の知識による癖を放棄せよということか。
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天の岩屋戸、2
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2011/7/27(水) 午前 3:42《14-1》 天の岩屋戸。その他人文科学
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天の岩屋戸、2
ここをもちて八百万の神、
天の安の河原に
神集い集いて、
高御産巣日の神の子
思金神に思はしめて、
常世の長鳴き鳥を集めて鳴かしめて、
以下、岩屋から引き出すためのいろいろな準備を始めることが述べられる。
自分の精神活動を引き出すために、既得の知識習慣に頼らず一旦奥に引き込んだ。
当然理解するものはなく理解をする力の大きさも放り出されている。
それでも人生何十年蓄積され習得されたものがある。わいわいがやがやと外野はうるさいことだろう。外野というのも自分のことだから、つまり、こざかしいこんなことを書き綴ることを意味しているのだろう。
岩戸の前の外野席は(天の安の河原)自分であり、自分の分身とすればよいのか。
ここをもちて八百万の神、天の安の河原に神集い集いて、
高御産巣日の神の子、思金神に思はしめて、常世の長鳴き鳥を集めて鳴かしめて、
ごちゃごちゃよけいなことばかり喋るうるさい自分のあれこれの中でも、ここで指摘されているのは「高御産巣日の神の子、思金神」だ。
高御産巣日の神は言霊学では母音アの領域で主体側を受け持っている。その子、
思金神--思い、究明する、神の音(ね)ということで、
自分から何かを(神の音を得るため)仕掛けることらしい。
-------------------
((通常の思金神は以下のように記されています。
オモイカネ(おもひかね)は、日本神話に登場する神。『古事記』では思金神・常世思金神、『日本書紀』では思兼神、『先代旧事本紀』では思金神・常世思金神・思兼神・八意思兼神・八意思金神と表記する。知恵の神。
八意思兼命は、『古事記』では、高天原(たかまがはら)の最高司令神・高御産巣日神( たかみむすひのかみ)の子・思金神(おもいかねのかみ)として登場します。 名前の「 八意」は、多角的にいろいろな立場から考えるという意味。「兼」は兼務、兼任の兼で、
記紀に高御産巣日神の子とされる。 思兼は、多くの人々の知恵と思慮を兼ねもつほど知謀にたけたとの意味))
---------------------
ここでもう一つの引用文です。
『戸隠神社は上中下社と分かれてお宮があります。
上社の御祭神を手力男命(たぢからをのみこと)と申します。上社より気持ちのよい林の道を下りますと中社に着きます。
中社の立札に祭神名が八意思金命とあるのを見て、膝を叩いたのでした。
手力男命とは古事記「天の岩戸」の章で、岩戸の中に隠れていらっしゃる天照大神を、岩戸の戸を力まかせに開いて、天照大神を岩戸の外に連(つ)れ出す役目の神名です。神話物語としてはこれでよろしいでしょうが、言霊学では如何なることなのか、以前より気になっていました。
それが中社の神名を見て、疑義は氷解したのでした。
その神名、八意思金命(やごころおもいかねのみこと)の八意とは意(こころ)を単に心と書かず、意志の意を用いることによって、八つの意志の働き、即ち八父韻を指しています。
思金の金は神音即ち後天現象音である子音を表わします。
すると神名八意思金命とは八つの父韻の自覚の上から後天現象三十二の子音の理解に進もうとする人、ということになります。
天照大神を岩戸の外に引き出し、この世の中を明るい世界に転換させる手始めの作業とは、八つの父韻の働きを自らの心の中に知り、それによって三十二子音の自覚、認識を完遂させようとすること、と受け取れるではありませんか。
三十二の子音認識は言霊学の奥の院であり、奥義でもあります。
中社のこの祭神名を見なかったら、かくも明瞭に「天の岩戸」を開けることの真の意義を知ることは尚将来のこととなったでありましょう。
(埼玉県秩父市の秩父神社にもこの祭神名、八意思金命を見ることが出来ます。)』
----------------------------
ここでは後者の意味の思金神=八意思金神としています。
ですから、わたし(思金神)が天照大御神の為に何かを仕掛けるという意味になります。
引用文中にははっきりと
『神名八意思金命とは八つの父韻の自覚の上から後天現象三十二の子音の理解に進もうとする人、ということになります。』
と書いてあるので、その意味とその操作法を探ることになる。
思金神に思はしめて、
常世の長鳴き鳥を集めて鳴かしめて、
とあり、まず鳥を鳴かせることです。
鳥は、と--り--十--理--のことで十個の理です。引用中に八つの心でなく意志とある、その八つに二つ(イザナギとイザナミの意志)を足したものです。
わたしのすることは意志を緊張させて何かを鳴かすことと見えます。
わたしは後者の引用を受け入れていますので、父韻を鳴かすということになります。
今のところは実際にどういうことをするのか分かりません。
ついで、
天の安河の河上の天の堅石を取り、
天の金山の鉄を取りて、
鍛人天津麻羅を求ぎて、
イシコリドメノ命におほせて鏡を作らしめ、
タマノオヤノ命におほせて八尺の勾玉の五百津の御すまるの珠を作らしめて、
アメノコヤネノ命、フトダマノ命を召して、
天香久山の真男鹿の肩を全抜きに抜きて、
天香久山の天のははかを取りて、
占合ひまかなはしめて、
天香久山の五百津真賢木を根こじにこじて、
上枝に八尺の勾玉の五百津の御すまるの玉を取り付け、
中枝に八尺の鏡を取りかけ
下枝に白和幣を取り垂でて、
この種々の物は、
布刀玉太御幣と取り持ちて、
アメノコヤネノ命詔戸言ほきまをして、
、、
、
等、多くの準備が必要となる。
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天の岩屋戸、3
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2011/7/27(水) 午前 3:41《14-1》 天の岩屋戸。その他人文科学
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天の岩屋戸、3
天の安河の河上の天の堅石を取り--
何か事のある度にこの集会所のような場所が利用される。
前に八意思金命が知恵を絞って天照大御神を引き出す作戦を練るとありましたが、何故この場所で行われたのか。
思金命は知恵絞り出すのに河の流れを必要としていたからです。
前回の引用中に「思金の金は神音即ち後天現象音である子音を表わします。
すると神名八意思金命とは八つの父韻の自覚の上から後天現象三十二の子音の理解に進もうとする人、ということになります。」とあります。
古事記中の神名の名付け方は、一つの行為が別の段階に行くと別の名前に成る特色があります。ここでの思金は知恵を出すだけで、伝達するには河に流して流通させなければなりません。
意志、思いはあっても言葉等の手段と媒介が必要です。それが河原であり、河の流れです。
長鳴き鳥も鳴きますが、河もさらさらザァーザァーどんぶりピシャンと鳴きます。また、もし鳴かなければ河は流れていません、生きていません、つまり私たちの思考活動は停止し、意識は眠ったままなのです。
長鳴き鳥は思い金命自身を鳴かすことで、安河は他者へも通じるように鳴かすことです。
前者の自身を鳴かすのは父韻で母音を鳴かすことですが、わたしには未だに分かりません。「奥の院、奥義」とあります。
後者の鳴かすはおそらく他者のため、相手のため、客体のために鳴くことです。
ここは剣の製造に関するものとされますが、物事事象を分析分断する分けて知るようになることに関するものでしょう。直接刀の製造の話ではありません。
相手に分からすための理性判断を与える象徴です。不明を絶ち切るものです。
「天の安河の河上の天の堅石を取り、天の金山の鉄を取りて、」
「鍛人天津麻羅を求ぎて、」
「イシコリドメノ命におほせて鏡を作らしめ、」
全部は分かりませんが、「天の金山のまがね」とあるのは、神生みの章にある「金山毘古、金山毘売」の金山と同じで、かな山-神の名の山-かな文字の山、ということで伝達手段である粘土で出来た古代文字群、アイウエオ五十個の、ことです。
また、まがね鉄も、本当の神の音ねで、口に出して一語一語詔して、一音一音の通用価値を検討することのようです。
従ってここは言葉による意思疎通を図るという意味になります。
その方法が述べられている。
古代の鋳造は石を切り出して鋳型にしたようです。
人間の先天構造として決まっている父韻を鋳型として、どの単語を発語していけばよいのかを判断していく。
「鍛人天津麻羅を求ぎて、」
ここの意識の操作法の特徴は片目で判断することのようですが、よく分かりません。
天照大御神は左目から誕生したのでそれにかけてあるのかも。
わざわざここに目で観察する鍛冶職のことが入るには何か理由があるのでしょう。
あるいは天津麻羅 (アマツマラ)のマラを別々の暗示として解していくと。
マは巻く混ぜる、ラは螺旋状に振動するで、言葉を探す上での秘訣か、頭の上手な使用法なのかもしれない。
また、天津麻羅 を、天津、先天的な、マを、真として、
ラを顕す、顕る、顕れるとしているのがあるので、その意を汲むと、火を扱う所業というところから火を霊として、先天的な真の顕れ、に関しているとする。
相手が相手だけにそこら辺の神では不十分というところか。
天照大御神を引き出すには鍛人天津麻羅が必要。?
鍛冶は火を使う仕事。火は霊、言霊。言霊の配列を調整することか。?
鋳型に固定する以前のこと。意識はいったい何をするのか。
天照大御神の操作法に鋳型を取ることか。後に彼女は自分の顔を見ることになる。
でも私のどこにそんな宝が隠れているか。
参照。「天津麻羅 (アマツマラ)
名義は「天上界の、片目の人」。
「天」は「高天の原」をさす。「麻羅」は「目占・まうら」の約。「鍛人・かぬち」が冠せられているように、神名そのものより人名である。 しかし、神格を与えられた存在であった。「まら」の人名をもつものは「鍛冶職」である。鍛冶職は職業柄年中火の色を観察している ので、これを「目で占う」と表現したものであろう。そのとき、片目で見つめるのだが、そのために目が次第に悪くなり、ついに失明に 至る。一種の職業病で、古く鍛冶職には隻眼の人が多かったのである。それを方言で「目がんち」というのは、「鍛人・かぬち」(「金打ち」 が語源)に基づいている。
参照。伊斯許理度売の命 (イシコリドメ)
名義は「石を切って鋳型を作り溶鉄を流し固まらせて鏡を鋳造する老女」。
「許理度売」の「こり」は凝固。「ど」「と」は呪的な行為に付ける接尾語。たとえば「詔りと」の「と」と同じで、「詔る」が 「呪的に宣言する」意となる場合、それに「と」がつくように、「凝る」も呪的な行為と考えられたので「ど」を付けたものであろう。
「め」は女、の意。「老女」と訳したのは、神代紀上に「石凝姥・いしこりどめ」とあって、「姥」は老女を意味するからである。 天照大御神が天の石屋戸隠りをしたので、それを招き出す一つの方法として鏡を作る。その鏡の製作者の名 。「作鏡の連等」の祖先神である。 この神は五伴緒の一つとして天孫邇邇芸命の降臨に随伴して地上に降る。その鏡は天照大御神を招き出し、天孫降臨に随伴して 天照大御神の御魂代となり、伊須受宮(伊勢神宮の内宮)に祭られ、 天孫と思金神とによって崇め祭られることになった。
天の岩屋戸、4
--------------------------------
思金命はどこまでが彼のさしがねとして係わっているのか。八父韻はどこまでがというのと同じ問い。
上記の引用では天照大御神はまだ隠れたままなので、八意思金命の意はまだ実現していない。
たった一言発音するのにこれだけでもまだ足りない。人間の意識構造の中身をよくもこんなにも解明したものだと感心してしまうが、わたしは理解したのではなくそんな口を聞いているというだけ。
古代のミコトが解明した世界の宝の秘密はそう簡単には開けられない。
さて、鏡を作るが、これは天照大御神を欺くために造られている。あるいは自己確認を与えるためか。
いつでも自分が何かをしようとするときには疑念が自分に浮かび上がってくる。そのようなことを言っているのか。
『高御産巣日の神の子、思金神に思はしめて、
常世の長鳴き鳥を集めて鳴かしめて、
天の安河の河上の天の堅石を取り、天の金山の鉄を取りて、
鍛人天津麻羅を求ぎて、イシコリドメノ命におほせて鏡を作らしめ、』
天の堅石は鋳造のための原型となるもの、思惟操作の原理に相当する。その原理に従って実用品となる鏡が造られる。鏡も人の鏡というように、原型的なものを意味している。
問題は私たちには原理のことはさっぱり分からないのにまず原理が必要とされることだ。神々にとっては当然でもわたしにはチンプンカンプン。
思金命の金も金山の金もひらがなの「かな」のことを暗示、呪示している。
ここで造られた鏡は後の八咫鏡と同じ構造を持っていて、アイウエオの使用法が刻印されているという。
------------------------------------------
全然判ってこないので元に戻る。
天照大御神が隠れた原因は、速須佐之男の命の悪さにあった。
しかし、大概の悪行は見過ごされた。必要悪か、当然誰にも起こることされた。
これは淡島や蛭子を産んだ因果に関係しているだろう。
一線を超えたのは機織姫が「ひ(横糸用のこま)に陰上を衝きて死」んでしまったときだ。
機織は物事思考の縦と横の象徴で、古事記は思考意識の操作法の教科書なので、ここでは頭脳内の思惟方法に関すること。
「ひ」は霊で言霊の横糸の動きに関している。
あれほどひどいことをされながら、こと「ヒ」の言霊、横糸、父韻に関してははっきりとした態度にでる。
速須佐之男の命のやったこと。
天照大御神の営田の畦を離ち、
その溝を埋め、
またその大にへきこしめす殿にくそまり散らしき。
その幡屋の頂をうかち、天の斑馬を逆さ剥ぎに剥ぎて、落とし入るる。
天照大神の認め方。
くそなすは、酔いて吐き散らすとこそ、我がなせの命かくしつらめ。
また田の畦を離ち溝うむるは、所をあたらしとこそ、我がなせの命かくしつらめ。
空に田んぼがあるわけでなく、営田は天照大御神ひいては人間の思惟構造を形容したもの。アイウエオの五十音図によって思惟活動が行われる。
畦は田と田とを隔てるもの、自分の領域と田との境、それを破壊して侵犯すること、みさかいを無くすこと。
溝を埋めとは?。畦は土を盛り上げて領解を示しているが、田にある溝とは。溝、みそ、組み素として、精神活動を表象する言語の組み合わせを目茶苦茶にすること。
アイウエオの音図は思惟活動の成果として打ち立てられた偉大な建造物で、音の組み合わせで人間活動が成り立つもの、その組み合わせを自分の都合のいいように変えること。
これらのことを須佐之男はした。
天照大御神はそんなことは日常起こる範囲内のこととした。やりすぎ、行き過ぎ、思いすぎ、間違いとした。
人の家に侵入するやりすぎはあるものとしたが、その幡屋の頂をうかち、天の斑馬を逆さ剥ぎに剥ぎて、落とし入るることは認めなかった。
垣根を超え裏口を壊すことはあっても、天井を壊してはならなかった。ここでの天井は頂とあって山の形をしている。思惟活動を司る幡屋では縦横に思惟を交差させて布を産出しているが、その幡屋全体は丁度ピラミッドの形をしている。
引用
『五十音言霊の原理を活用・運用して政事(まつりごと)の処理に当った。
その活用・運用することを古代では「振る」と言った。その言霊は高千穂の奇振嶽(くしふるだけ)や石上神宮の布留の言本(ふるのこともと)等に遺されている。』
ここにある「振る、ふる」は天照大御神の用いる音図の中央に位置していてピラミッドの頭頂に当る。その頭頂を破壊されたということです。全然違う原理が持ち込まれた。
((当面は見聞き読みかじっただけで書いています。不埒な態度ですがそれでも何かがあると思っています。))
斑馬はなんのことか分かりません。逆さ剥ぎ、逆さまな思惟行為が強制されている。
-------------------------------------------
ほと、陰部は当然子供の出来るところ。父韻と母音が交わって子音が産まれるところ。アイウエオ五十音図では、横の行が横糸に相当する。
陰、ほと、を、「ほ」+「と」に分けてみると、「ほ」は霊、「と」は「止まる」が該当する。
陰部の内と外とを見ていくと、頭脳内での働きによって、縦横の織物、人間の思惟行為そして全活動が起きているのが、頭脳内での精神、霊「ほ」の行為が、ほとを境にして止められ、実態現象になる所と見られる。「ほ」霊の行為が止められ、子供になり、現象、現象子音、現象行為となって誕生するところとなっている。
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天の岩屋戸、5、(天津罪)
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2011/7/27(水) 午前 3:40《14-1》 天の岩屋戸。その他人文科学
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天の岩屋戸、5、(天津罪)
前回、岩戸の4では逆さ剥ぎを(前後その他も)あたかも、人間が行う罪のような感覚でいましたが、もっと根源的なものであることが分かりました。
以下引用します。
『さて、次は天津罪の中の個々の罪について説明して参ります。大祓祝詞には畔
放ち、溝埋め、桶放ち、頻蒔き、串刺し、生剥ぎ、逆剥ぎ、屎戸の八つの罪が説
かれています。
畔(あ)放(はな)ち―
古事記の神話では、天照大神は営田(みつくだ)を耕していらっしゃいます。ま
た神衣(かむみそ)を織っていらっしゃいます。田も衣も縦横に線を引いた形であ
る所から、五十音言霊図表に基づいて言霊を運用し、人類の歴史を創造して行く
事を表徴しています。
天津罪の「畔放ち」とは五十音図表の言霊を仕切っている線、即ち畔(あぜ)を
取り去ることを言います。五十音図の言霊の縦の配列は五つの次元の相違を、横
の配列は八つの父韻による実相変化の律を表しますから、その仕切りである畔を
取り払う事とは文明創造の営みの秩序を破壊することと受け取られます。
溝(みぞ)埋(う)め―
溝とは水を流すため地面を細長く掘ったものを謂います。五十音言霊表の運用
を潤(うる)ほす生命の流れの通り路を埋めて言霊の気の働きを妨害すること、と
思われます。
桶(ひ)放ち―
桶(ひ)とは水を導いて送る長い管、またはせき止めた水の出口に設けた戸で、
開閉して水を出入りさせるもの、の事と辞書にあります。人間の生命の流れは母
音より八つの父韻を通り半母音に向かって流れます。
アよりワ、イよりヰ、エよりヱ、オよりヲ、ウよりウに流れ、それぞれ歴史を
創造します。その流れの緩急が程よく行けば社会は常に平穏無事でありますが、
母音より半母音への流れ路が取り払われ、また緩急の調節が出来なくなると、社
会の進歩は急変または停滞することとなります。これが桶放ちであります。
頻(しき)蒔き―
穀物の種子を播いた上に重ねてまた種子を播き、穀物の生長を害すること、と
辞書にあります。天照大神の営田は音図向かって右から左へア・タカマハラナヤ
サ・ワの順で種子が播かれます。その事で物事は初めより終わりに向かって滞る
事なく遂行されます。
それが例えば、タから始まり、タカマまで来た時、マに表徴される事態が既に
ほとんど完了してるのに、その過程の百パーセントの完了に執着して、マ・マ・
マと何時までもその段階の行為を繰り返し、先に進まないような事態に陥る状態
を指している事でありましょう。
串刺し―
人間の文明創造活動を言霊によって示す言霊五十音図表は縦五列、横十列の言
霊の並びがあります。縦に次元の順序、即ち位置師を、横に実相の移り変わりの
変化のリズム、即ち時置師・処置師の働きを示します。
この縦横の順序や変化の推移を示す言霊の並びを、あたかも団子に串を刺すよ
うに固定してしまい、社会がその時処位に応じて、自由に新しい文化を作って行
く事が出来ないよう規制してしまう事、これを串刺しと言います。
信仰や信条、または社会的哲学、倫理学、経済学等の経験的知識に基づいて制
定された道徳や国家体制、憲法、法律等は往々にしてこの串刺しという天津罪を
犯す事となります。近代に於ける世界の共産体制の崩壊などもこの串刺しによる
国家社会の硬直化がその原因と考えられます。
生剥―
生命活動を表わす五十音図表の中の縦の五母音の中の一つ乃至二つの並びを剥
ぐように抹殺してしまう事。
即ち生命活動として当然具備されている性能を何らかの理由の下に無視してし
まう事。これが生剥です。例えば近代共産体制にあって「宗教は阿片なり」の教
義の下に言霊アに属する信仰性能を否定してしまった等がこれに当ります。人間
の生きた生来の性能活動を社会から抹殺する罪であります。
逆剥―
逆剥は性(さか)剥ぎであります。性(さが)とは現象の実相を決める八父韻の働
きの事です。逆剥とはこの八つの父韻の並びの中から一つ乃至二つのものを無視
・抹殺する罪のことであります。
例えば信仰行為に於いて、タカラハサナヤマと並ぶ父韻の並びの中から、信仰
に於いて最も必要である筈の主体性の確立を表わす言霊タの自覚を抹殺し、教祖
の教えをそのまま暗記させ、教団の利益にのみ奉仕させるよう洗脳する行為等が
それに当りましよう。
最近の宗教団体による詐欺行為などはその典型であります。また近年の教育に
みられる「偏差値」による受験勉強なども逆剥ぎの傾向が十分窺えます。双方共
、信仰または教育の真の目的を成就する手順の中の何らかを無視した事の結果で
あります。
屎戸―
古事記神話に「大嘗(にへ)聞こしめす殿に屎まき散らし」とあります。屎(くそ)
とは組(く)む素(そ)で五十音図表を構成しているそれぞれの言霊のこと。五十音
図の縦横の並びの順序の如何を考えず、バラバラにして播き散らしてしまう罪で
あります。
須佐男命が高天原に於ける天照大神と月読命との三貴子の協調体制から離脱し
、高天原の精神構造を表わす天津太祝詞音図の組織をバラバラにして、自らが求
めようとしている物質世界の法則を探ろうとして、その構成に躍起となった様子
、即ち「須佐男命、依さしたまへる国を知らさずて、八拳須心前に至るまで啼き
いさちき」がこの罪に当ります。
以上、大祓祝詞の天津罪の一つ一つについて説明して来ました。御理解頂けた
でありましょうか。この天津罪について一つ附け加えておきたい事があります。
天津罪といわれるそれぞれの罪の内容は、ここ千年、二千年の歴史の中では、そ
れが悪い事だと思われず、当然の如く行われてきた事なのであります。「大道廃
れて仁義あり」と言われます。
「大道」と呼ばれた言霊布斗麻邇の原理が社会の表側から隠没した後、人間社
会の政治・道徳の判断をするに当り、人間天与の判断能力(言霊エ)を忘れ、そ
の代用品として各国家の法律とか「何をすべし」「何をすべからず」の規則によ
って善悪の判断をせざるを得なくなりました。
そして、その代用品である、第二、第三次的な規則による人間行為の規制の世
の中が長く続く事によって、人々はその規則以外に善悪判断の規準はないものと
思い込んでしまいました。
第二、第三次的規準でありますから、人々は時によってその定められた自らの
法律を社会全体が遵守出来ない事態も起こることとなります。「超法律的措置」
という言葉が使われます。
この時、人々は「何が良い事か、悪い事か」の判断が分からなくなります。こ
の様に現代の人々に何が良く、何が悪いかが分からなくさせる原因となるもの、
それが天津罪という罪なのだ、という事が出来るのです。「人間とはそも何者ぞ
」という根本原理である言霊布斗麻邇の学問が復活して、ここに初めて天津罪の
内容が明らかとなりました。』
-------------------------------------------
とあって、先天(天津)構造内での意識の操作の誤りになっています。
これは故意に誤ることができるものなのでしょうか。八父韻の順序を無視したり、変えたり、抹殺したりする意識行為は意識的にできるのでしょうか。
天照大御神は誤りは誰にもあるとしていながらも、須佐之男が思惟活動の縦糸横糸を乱す事になったとき
断固として、全世界を計りの一方に置きました。この世の永遠の闇か思惟の布のか、その選択を創造しました。
しかし闇の世界を否定もしませんでした。
「これによりて常夜往きき。ここに万の神の声はさ蠅なす満ち、万の禍い悉く起こりき。」
訳本には万の神を邪神としてありますが、別に邪神ではなく、意識操作の通常の誤りの事です。常世の闇を選択する側です。
一方、光を求める八百万の神がいます。
そこで我々がまず頼るのは八意思金命に思はしめることです。
「思はしめ」というのは誰が誰をにでしょうか。
八意思金命は八つの父韻の働きとなっています。
それは先天的にだれもが持ってて、自覚的に操作をする方が大御神です。
彼女は暗い穴蔵から我々を導こうとしているようです。
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古事記の岩屋戸の場面です。
岩屋戸はイハヤトで、イ(五十)、ハ(葉、言葉、言霊五十音)、ヤ(屋、家屋、言霊の家屋、ここでは暗闇ですから寝る、記憶しているところ。)、ト(家から出てくる扉=口で、脳内記憶が口から出る。)
注意。古事記の岩屋戸の原理原則を今回のテーマに適応しているので、その他諸々の適応の一つというだけですので、岩屋戸とはこうだということではない。
言葉の連結に関してはことに次の部分を参考にします。
引用はウズメの段落からです。
『アメノウズメのミコト(天宇受賣命)、あめのイワヤド(天之石屋戸)にうけふせて、ふみトドロコシ、かむがかりして、ムナヂ(胸乳)をかきいでモヒモ(裳緒)をホトにおしたれき。かれタカマノハラゆすり(動)てヤオヨロズのカミともにわらいき。』
ウズメは初代ストリッパーにされていますが、興味本位なことを言えば男神です。元々神代の巻では男神か、女神かなどということは、どうでもいいことで、前にナキサワメというのが出てきますが、ついでに興味本位で言ってしまえばこれも男神です。
男神か女神かなどというのは内容に触れるものではないので、気にしないで下さい。もうやめておきます。要は能動主体側か受動客体側かです。
しかしそこで当然、気になるのが、
『ムナヂ(胸乳)をかきいでモヒモ(裳緒)をホトにおしたれき。』です。
解説してみます。
ウズメ・・欲しい知りたいしたい次元の欲望を実地に移す暗喩象徴で、いわゆる気を引くことの現われ。相手が居ようと居まいとまず躍り出て自己主張する代表。このウズメが足跡を残さなければだれも気付かない。ウの次元(ウ-ス、ス-ウの循環、渦)を代表するもので、今-今にいること。
ムナヂ(胸乳)・・女性の胸ではない。無名地のこと、名の無い地。色柄の刺繍のない無地のような地のこと。言葉となる以前の何も規定されていない先天の生地。
乳房(むなぢ)をかき出し、・・名の無い地、地を出す。まだ名を付けられてなくこうだという規定を受けない全体を示す無地の地をかき集める。ウズメは欲望次元ですから、何何したいという決まったことではなくその前に有る意欲全体をだすこと。その後に細部が出てくる。
モヒモ(裳緒)・・襞襞(ヒダ)スカート(前掛け)を縛るひも。ヒダは言霊五十音図を縦方向の連続したヒダによせた象徴表現で、言霊要素の言霊をつなぐ紐、「八」と同じ象徴。つまり父韻の実在。
ホト・・女陰ですが、子供が産まれるところから、現象子音が出てくるところ、言霊現象が出てくるところは口になります。口は霊止(ほと)=霊(ほ)が留まり、これから出てくるところ。
おし(忍)たれき(垂)・・紐を口に入れて、出番を待っている言霊要素を繋げること。 出てくるのは言葉、言霊ですが、繋がっていない言葉は言葉になってきませんので、紐を飲み込んでつなげ、口から紐を垂らして(舌を出して)連結し合った言葉を出すということです。
ここの段は、口から出てくる繋がった言葉の、その前段階の様子です。
口から言葉が出てくるのは、岩戸から天照す大御神が引っ張りだされる段落になります。
全体では、「言葉になるだろう」先天条件を整えることです。先天条件とはその人の経験知っている全宇宙世界の歴史と自分のことですから、それを全部まずは無地として「かき出し集めて」、モヒモの主体側の意図に沿った条件に合うようにして、発声の準備をする、となります。
ウズメは言葉要素を繋げる紐を飲み込むことがなければ、連結した言葉を発せないのです。
ところが言葉の発声の本体は、岩戸の中に隠れているのです。ウズメが発声するのではありません。ですのでウズメのすることは騒ぎ立てることで、それを本体に知らせることです。後に鏡を見せて「天照らすさんより凄いもの持ってるよ」という根拠です。
このように本体(天照す大御神)に一撃が来ないと、心は動かないということです。ウズメは契機とかキッカケとかです。それを作ったのが紐を飲むことです。紐はヒダヒダスカート(前掛け)の縦ヒダにあわせたもので、言霊学では父韻とのことで、この紐で縛って一連の、一塊の言葉を出す準備ができます。
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では、「た」から「か」へ行ってみましょう。
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