大祓祝詞・闇を光に引き上げる
その時、私はグウの音も出ず、「相当な屁理屈をこいたな」と思いました。ですが、私の一生の宝物の言葉になりました。ただ良い事を分かる為に悪い事があるだけではなくて、良い事を判定する鏡の代用である、闇を光に引き上げるメカニズム、それが大祓です。
宗教書で「こうなりますよ、こうですよ」と概論を説かれておりますが、三千年の間、こういう経路でこうなることを詳細に経緯と結果を古事記と大祓は説いております。もっと詳しく解く事ができましたら良いのですが、ないかもしれません。
人間の心をよくよく自分の心を観るには、古事記の言霊の原理と自分の心を観て、善とは何か、悪とは何か、美しいってどういうことなのか、を見極めていただきたい。
俳句は第三芸術だと言われますが、「古池や蛙飛び込む水の音」、なんてことのない句、ですが、あなたが捻ってみろと言われたら、おいそれとは作れません。材料はたいしたことはないです。古池があって、蛙が飛び込んだら、ポチャンと水の音がした。五七五の句に表わしますと何かを感じます。芭蕉を俳聖と呼びます。言霊の原理から読み解きますと、俳句は何故十七文字なのか、何かを感じる、その「何か」の正体が分かります。
大祓祝詞・時とは何か
天津宮事以ちて、大中臣、天津金木を、本打切り、末打断ちて、千座(ちくら)の置座(おきくら)に置足らはして、天津菅麻(すがそ)を、本刈断ち、末刈切りて、八針に取辟(さ)きて、天津祝詞の太祝詞事を宣れ。
三千数百年前に天津太祝詞子天皇が制定した大祓祝詞の眼目であるここが一番大事です、このことが分かってしまえば、後は補足みたいなものです。今日はここのところを言霊の原理に則ってお話しようと思います。
ここがお分かりになりますと、大祓祝詞は古代からずーっと唱え続けられて来た意味がよーく理解できます。五つ申し上げます、まず、「時」とは何か。時は過去があって、現在があって、そして将来がある、時間を自分以外の事として見れば、そういうことになります。
あの人は何時に起きて、今、顔洗って、飯食ってる、洋服着替えて勤めに出ようとしている、これは「時」を自分以外に準えて見て考えるとそういうことになります。過去、現在、未来。では、主体的に「俺は何をすべきか」を考えているのは‘今ここ’です。紛れもない‘今ここ’です。過去でも将来でもありません。
大祓祝詞・人は今に生きる
‘今ここ’に何千何万年の昔の過去も記憶としてあります、頭の中のありとあらゆる記憶を或る方法でズラーっと並べれば歴史が出て来ます。どういう方法か、どんな歴史か、と申しますと言霊オです。
言霊オの音図は「赤珠音図」と言います、ア段が‘ア・カタマハサナヤラ・ワ’と父韻が並びます。ずーっと長い歴史が‘今ここ’で総てを歴史的に掌握してしまいます。将来を決定する決定的な人間の能力、言霊エのア段は‘ア・タカマハラナヤサ・ワ’と並び、将来が出て参ります。
人間は常に‘今ここ’で生きています、主体的に観ますと。客観的に観ますと‘今ここ’でどう生きているかは分かりません。自分が何をすべきか、自分がどう判断すべきか、自分の行為の主人公で考えてみますと、今、今、今に住んでいます。若者は未来に羽ばたくと申しますが、羽ばたく将来が素晴らしくしようと思っているのは‘今’です。
また、老人は良き時代を懐かしんで過去に生きるとよく申します。私も家内と病気をして心細くなると「楽しかったね」、なんて涙したりします、少しは苦しいのが和みますので。ですが、昔を振り返るのも‘今’です。
大祓祝詞・一瞬々々の創造が現実を動かす
‘今’以外に生きられない、‘今’に生きていないのは幽霊です。‘今ここ’を続日本紀は「中今」と申します。‘今’に過去の総てがあり、将来の総ても‘ここ’にあります。
仕事の話をしていて「事業計画はどうですか?」、その返事次第で、だめか、うまくいくか、どうか、が分かります。言葉の運びが ‘タカマハラナヤサ’と並んでいなければ、映画のフィルムと同じで結末が見えます。‘ここ’が駄目ならどうせ駄目です。
将来が分かれば、経済学者は何故株を買って儲けないのか、‘カタマハサナヤラ’の心の持ち方で過去の歴史が出て来ます、将来も‘カタマハサナヤラ’では当たるはずがない。ただし、自然科学は当たります。
人間は一瞬々々の創造が現実を動かします。創造の言霊エでなければ、将来は出て来ません。「時」というものはそういうものということを心にとどめられて下さい。
大祓祝詞・競争原理
「天津金木を、本打切り、末打断ちて」、「天津金木」とは小学校で学ぶ、ア段が‘ア・カサタナハマヤラ・ワ’と並ぶアイウエオ五十音のことです。五母音の並びの真ん中が‘ウ’、欲望を人間の心の主体に置いた心構えです。
今から三千年前、天照大神が天の岩戸隠れしてしまったと神話にございますように、言霊の学問が隠れてしまいました。必然的に人間は力の強い者が世の中を支配するようになりました。
拠り所とするのはまず金、手に入れるための手練手管(兵法・商法)、それが人生における大切なものになりました。他の三つの能力、‘アエオ’を支配しました。どんなに優れた歌人や音楽家や絵描きさんが出ても、売れなければ、一生卯建が上がらない。
感動する素晴らしい絵は、何方が観ても、「素晴らしい」と思いますが、金額で価値を判断する。いくら金があっても、良い方に使ってくれない限りは、どんな良い事でも広まらない。全部、金が支配する。
大祓祝詞・「金」というものをとことん知る
アメリカは武力と金力の大国ですから、必然的に威張っている。威張らなければ大したものですが、誰だって権力を持ちますとそうなります。そういう世の中を新しい世の中にするには、‘ウ’の性能が他の性能の‘アエオ’を手下にするような時代ではいけませんから、大祓の対象ではない。
ですが、この世の中を金権でない世の中にする方法はありますか?一つだけ方法がある、今の金木思想を ‘ア・カサタナハマヤラ・ワ’と言霊で心底理解します。「金」というものをとことん知ってしまいます。そうしますと道が開けてまいります。
天津金木音図という須佐之男命の思想をまずやり玉にして大祓は挙げます。次の天津菅麻音図は人間がオギャアと生まれた時に授かっている心の内容、それが言霊で表わした音図です。これは創造神、伊耶那岐の神の音図とも呼ばれます。
何故やり玉に挙げるのか、「天津祝詞の太祝詞事を宣れ」と言っているのか。大祓祝詞の実行方法は、古事記の伊耶那岐大神が禊祓する時に明確に出てまいります。伊耶那岐命が黄泉国へ行きまして、外国の物質文化が未完成で自己主張に溢れているのに驚いて高天原へ逃げ帰ります。
大祓祝詞・決して一緒には仕事をしない
ここまでは黄泉国、ここから先は高天原、という境目に「千引き石」を境界にします。追っかけて来た伊耶那美命と相対しまして、「言戸の渡し」の離婚宣言いたします。伊耶那岐命は「今後、私は高天原(精神界)で仕事をします。貴方(伊耶那美命)は黄泉国(物質界)で仕事をします。両方でそれぞれの仕事はいたしますが、決して一緒にはしません」という宣言をいたします。
精神の法則と物質の法則は究極のところでは相似形になります。手の裏表にはなりますが、一緒には絶対にならない。物質的に研究していって、その法則が精神にも当てはまるのではないか、というようなことを言いだす人がたくさんいらっしゃる。ものすごく頭の切れる大学者といわれる方が、そういうことをよくおっしゃいます。
ですが、それは嘘です、物質的な法則と精神的な法則は裏表にはなりますが、一つには絶対になりません。それが古事記の「言戸の渡し」、伊耶那岐の神が伊耶那美の神を自分の懐に入れて、自分の責任(伊耶那岐大神)として、禊祓を行います。
「禊祓」とは黄泉国から生み出される、色んな発明、発見、専売特許、それらをどのように人類の歴史として吸収していくか、間違いない歴史を創造していくか、その方法を伊耶那岐大神が探求します。
大祓祝詞・禊祓
その時に「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」で伊耶那岐大神が禊祓いたします。禊祓とは水をかぶるような行ではなく、人類文明創造の仕事のことをいいます。自分と言う者がいて、外国の黄泉国の所産する文化を自分の体と思って、どのように吸収していけば良いかを検討します。
吸収する前にどういう内容なのかを調べなければなりません。その神々が古事記にあります「道の長乳歯の神」~「飽昨の大人の神」までの五つの神様の技法により、「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」(天津菅麻音図)という所でその実体を調べます。
次に「奥疎の神」~「辺津甲斐弁羅の神」までの六神の作業によって、内容・実相・時処位等々を現状から吸収するとどのように変化するのかを調べます。このことは「古事記と言霊」の本に詳しく書かれております。「現代人もやっていることだな」とお分かりになると思います。
大祓祝詞・此処からから彼岸に渡すには
では、此処からから彼岸に渡すにはどういう方法があるのか、それが「八十禍津日の神」、「大禍津日の神」、「神直日」、「大直日」、「伊豆能売」が続きます。ここの処を簡単に申し上げます。御理解されますと大祓の意味がよく分かってまいります。
アイエオウ天津太祝詞音図を上下対称に反転させる、五母音の列と五半母音の列を取っ払います。(100音-20音)80の現象子音を中心にした神様の名前が「八十禍津日の神」、上の50音図(高山)が言霊を自覚している光(霊駆り)の「高天原」、下の50音図(短山)が言霊を自覚していない闇の「黄泉国」です。
まったく同じ音、姿でも光が差さない方は「地獄」です。光が差しますと影が消えてなくなり「天国」になります。そのことを「八十禍津日の神」として示しています。外国から来た文化をどのように処理したら良いか、どんな学問でも自己主張です、人間の生命に関するDNAまでアメリカでは特許をとろうとしています。
人間の生死に特許を払わないとならないということになります。そうなりますと人間は言いなりにならざるを得ない、そういう矛盾が生まれます。自己主張の世の中はそれ自体が地獄です。
大祓祝詞・どういう手段が必要なのか
黄泉国で生み出された諸文化を人類の文明にどう吸い上げて行けばいいか、を八十禍津日の神」で精査し、言霊を自覚する(高山)と無自覚(短山)の世界とにどうしても分けて考えなければなりません。現実の世界は迷いの世界ですから。
ですが、この内訳が分かっても、高山(たかやま)へ行けるわけでもない。短山(ひきやま)から引き上げるには、実相を示すだけでは駄目、どういう手段が必要なのか。それで出て来ますのがオ次元の「神直日」(かんなおび)、ウ次元の「大直日」(おおなおび)、エ次元の「伊豆能売」(いずのめ)等の神様が短山から高山に渡す。
大祓祝詞・霊葉(ヒバ)
ではこの神様たちで地獄から天国へ本当に渡せるのか、完全に渡せる事を確証し、完成したのが三つの綿津見の神様達です。その確証を得るためには、八つの子音の並びでもって示されます。
それは現象音の子音が、三貴子であるウ段(須佐之男命)は ‘ツクムフルヌユス’、オ段(月読命)は‘トコモホロノヨソ’、エ段(天照大神)は‘テケメヘレネエセ’、と並ぶと、総ての人を地獄から天国へ引き上げる言葉になりますよ、ということがハッキリ確認されます。
短山から高山へ引き上げるために何が必要か、言霊の学問を勉強しろと言えば、やさしいことですが、それが世界に通用するかと言えば、しません。一言でもって地獄から天国に引き上げる方法を光の言葉(霊葉)と申します。
おとぎ話の「桃太郎」は、お爺さんが‘柴刈り’に参ります。この‘柴’は「霊葉」のことです。「桃太郎」は禊祓の消息を子供にも分かるように菅原道真が作りました。言霊の原理から見た、世界の情勢とか将来は「こうなるぞ」という予言を伝えております。「かちかち山」、「舌切り雀」、「猿蟹合戦」、「花咲爺」等も菅原道真が作りました。
大祓祝詞・光があって影がある
「浦島太郎」は万葉集の歌(浦島の歌)にも詠まれておりまして、菅原道真は作っていません。日本は表の島、日出る処、裏の島は今盛んに威張ろうとしている国、中華民国、秦の皇帝から言い付かって日本へ不老長寿の薬をとりにきた除福という使者を「浦島太郎」と名付けた物語。
その光の言葉は言霊の原理から出た言葉、「伊豆能売」という‘エ’である実践智の言葉。この言葉をかけられますと、人は一瞬にして影の世界から光の世界へ引き上げられる。
善と悪として「悪」はないということを小笠原先生からお聞きしました。が、その他に真と偽、得と損、美と醜、も同じ事が言えるということに気が付きました、光があって影があるのか、人間はしっかり眼を見開いて、何の先入観念もなしに物事を観れば実相が分かります。
あるがままの姿が分かります。ところが、現代人は聖書で言うところの禁断の実を食べてしまいました。一つの考え方の概念のキーワードを自分で作って、そのキーワードから考えます。それを月読命と申します。
大祓祝詞・知識は真実を遠ざける
太陽の光が当たっているのに、わざわざ月の光に反射させて物事を観ている。目隠しされて象を触って、象はどういうものか?と聞かれたら、鼻を撫でた方は「長細い」、足に触れた方は「太い」、皮膚を触った方は「ざらざらしている」、一部は真実だけれど全部は真実じゃない。
今の人たちは一部の真実を「こうだ」、「ああだ」と意見を言い合う。さっきも言いましたが金平糖、このことをパンドラの箱と申します。開けると悪魔が出て来ると、三千年間運命づけられておりますから、人間が目を開けてから影ばかりを見ている。
これにまた知識を加えれば、たくさんの知識で以て物事の真実がわかるであろうと思う。知識を取り入れれば取り入れる程、真実から遠ざかる。
今の医学は、部分的な専門医を育成します。胃を専門とするお医者さんの学会が開かれて、胃の賭場口の処のみ、胃から腸に繋がる血管の処のみ、専門分野を細分化して、胃の本体が分からない。皆、影しか観てない。
大祓祝詞・自分の心と照らし合わす
言霊の学問を「これはどういう意味か」と勉強しようとしますと三千年かかります。霊知りと言われるご先祖さまが三千年掛けて発見したのですから。それはくだらないからお止め下さい。書いたものをそのまま、良いとか、悪いとか、関係なく、「こんなものなのか」と思ってお読み下さい。
慣れてきたら、ここに書いてあることが、自分の心と照らし合わせてみて下さい。照らし合わせて分からなければ、質問して下さい。それに答える勉強をさせていただくことになる。私は概念で解きません。「あなたの心はこう思っていらっしゃるのではないですか?」とお答えしますから。
そうしますと、自分の心を照らし合わせて観ますと、古事記を編纂した太安万侶という人は千三百年前の人ですが、人間というものを知り尽くしていたということがお分かりになると思います。
大祓の見地で、どういうことを謳っているのか。どうしたら物騒でこの暗黒の世の中を一本筋の通った大きな歴史の流れの中に、道理の通った人類の歴史を創るのか、人間が生きているのは‘中今’、「nowhere」、心が何処にも住まない。心がカントを崇拝し、カント哲学が好きな人は、必ずカントを土台にして物事を解釈しようとします。
または、自分に自信を持っていらっしゃる方、自分が生きたいように生きて来て、自分を信じる人は、自分の持っている知識に住んでいる。この方は「now here」が分からない。
禅の言葉に、「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」というのがあります。過去は既になく掴むことは出来ない、現在は常に動いているので掴むことは出来ない、未来は未だ来ないのだからこれも掴むことは出来ない。じゃあ、何処に住んでるんだい?
経験知や偉い人の意見を心の脇の方に置いて、自分は生まれたばかりの赤ん坊のような、まっさらな心になります。オギャアと生まれて来た赤ちゃんは知的性能がほとんどゼロですから本体は宇宙。
貴方は何処から産まれました?お母さんのお腹から生まれました、常識的にはそうですが、もっと大きく見ますと、宇宙から宇宙の中にフッと生まれた、ということも出来ます。本当の自分の心は、大きな、大きな宇宙そのもの。
宇宙はものすごく大きいですから、何処にいてもその所が宇宙の中心です。古事記の「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は、天の御中主の神」と申しますのは、「天」は宇宙、その真ん中にいる主人公、総ての人間が御中主に住んでいる。
総ての能力を発揮、発信して、「あっ、彼処に木があるな」、新聞読んで、「小泉さん、がんばっているな」、というように、自分が発信することによって分かります。自分が主人公。
発信している主体側を言霊アと申します。受信する客体側を言霊ワと申します。本体(五母音)の宇宙の中心にいて、主体(アイウエオ)も客体(ワヰウヱヲ)も両方宇宙ですが、剖半して、宇宙の性質を合わせ持ちながら交渉が始まります。それが人と人との付き合いです。
今の世の中は「人を見たら敵と思え」、「泥棒と思え」というような風潮ですが、人と人は宇宙の性質を分け持っていて、主体の私が喋る時は相手が客体、主体の相手が喋る時は私が客体、その時に私(母音)と相手(半母音)との間に意志の何かが飛び交う。
その飛び交い方に八つあります。これは意志(イ段)であって言葉になる前のことです。これを昔の日本人は八父韻(チイキミシリヒニ)と申しました。母音と半母音を飛び交いますと32(アオウエ×8)の現象が起こる。現象の最小単位です。
宇宙に属している言葉の単位ですから、「霊(ヒ)」、それが動くと光(霊駆り)になります。光の言葉(霊葉)で話し合えば、争い事はない、「ようよう」で済んでしまう。光のない言葉で喋りますと、百人いれば百通り、千人いれば千通りの説が出て来て混乱します。
ですから、中今の‘今’を見る、今此処の宇宙の眼で見ますと、今此処をハッキリ捉えることが出来る。自分は宇宙の中心にあって、50の目の光で以て、世の中を知り、対応している。それには宇宙に住まなければ分からない、時は、過去~現在~未来へと動いていない。今、今、今にいる。
自分の今にある記憶の材料は人間の尾っぽ。無門関の公案に、窓に格子がはまっている、そこを水牛が通り過ぎていくと、あ、水牛が外を通ったなと、判る、牛の体は通り過ぎちゃう、尾っぽだけが見える、というのがあります。
「夕べ、あいつは何故俺を殴ったんだ」、「俺は何もしていないのに何で引っ叩かれたんだ」、昨日はもう過ぎ去った事であるのに気が収まらない。「今度会ったらどうしてやろうか」、尾っぽ(記憶)は生きていますから、生きている法則を求めれば、経験知の過去(言霊オ)の八父韻の順序は‘トコモホロノヨソ’と働きます。
この順序で過去を遡れば正しい歴史が把握出来ます。どっかが抜け落ちますと分からなくなります。八父韻を分かってしまいますと。人類の過去の歴史がスーッと明らかになる。一人の人間が複数の人間を殺してしまって、どうなってしまっているのか。
暗黒だ、地獄だ、そのような闇を含めながら、この世の中はうまくいっているなと観想できる、どうしてこんなことが言えるのかは、この筋道を一つとして理解出来たらの話です。
では、未来の実践智(言霊エ)はどうか、これからどうするかの理想の法則(テケメヘレネエセ)に当てはめて、世の中をこうすればうまくいく。うまくいかないだろうと思われても。
実践智の法則に当てはめれば、必ずそうなる。日本人の先祖である皇祖皇宗のご経綸によって「こういう順序で人類文明を創造するぞ」と計画を立て、その通りに動いている。今迄の歴史と将来の見通しによれば「うまくいっている」となります。
これからの第三文明の時代を、この業を背負った人間がどうしても新しい文明を創らなければならない、この懸案を抱えながら、人間は神のような崇高な行いをするかと思えば、獣にも劣るような悪い行いもする生物の業を背負っていることを踏まえ、良い方の業を生かして変換することが出来るならば素晴らしい世の中を創る事ができる。
人間の三千年間の苦労を土台にして、次の三千年間は光の人間社会を創ることが出来るようになります。過去に起こったものについて、
言霊ウ(欲望・産業/経済)は天津金木音図の
‘カサタナハマヤラ’、
言霊オ(経験知・学問/科学)は赤珠音図の
‘カタマハサナヤラ’、
言霊ア(感情・宗教/芸術)は宝音図の
‘タカラハサナヤマ’、
等々を把握したら、白紙に返す、八つの列をバラしてご破算にする。(八針に取辟きて)天津太祝詞の音図に宣り換えよ。
ご破算にいたしましたら、言霊エ(実践智・道徳/政治)は天津太祝詞の‘ア・タカマハラナヤサ・ワ’、この心構えと申しますのは、総てのことを他人事として考えず人類のことを自分の事としてそれをどうしたら良いか。伊耶那岐命は離婚した伊耶那美命の行動も自分の責任である「大御心」。
昔のスメラミコトはそうやって政治を行っておりました。そういう世の中にするにはどうしたらいいのか、今の世の中がこのまま続きますと誰だって大変だということは分かっています。では、そう言う世の中が来るにはどうするのか。
歴史の今後のことはどう考えても今の世の中は「続かない」というのは嘘の言い方、そう言いますと明るく感じますから「続かない」というのは真実、でも、自分に関係ない。自分が一枚噛んだら「続かせない」というのが本当です。それは絶対に動いてはいけない、動きますと言霊の学問は分かりません、動くと遊びになります。
家に居て動かずに「のほほんと」していれば良いです。動きませんと色んな考えが起こって来ます。起こって来たことを「どういうことか」、そうすれば分かってきます。道を他に求めますと分かりません。
道は全部自分の中にあります、オギャアと生まれて来て死ぬ時まで人間の法則から反した事を一つもやらないのは誰か、それは自分ですから。間違ったことをしても、それは法則内、間違いだと分かる。全部先生は自分の中にいる。
鵜萱不合王朝第六十九代神足別豊鋤天皇が、モーゼにこれから三千年間は「お前とお前の子孫に任せるぞ」、「汝モーゼ、汝一人より他に神なしと知れ」と勅命した、モーゼを自分に置き換えますと震えが来る。潜在意識の中に叩き込まれる。偉い霊知りの命令ですから。
三千年経っても、その子孫はその通りに動いている。もうすぐ、その末裔が日本に姿を現します。人間が偉いのではなくて「汝モーゼ、汝一人より他に神なしと知れ」、その授けた法則(カバラ)がすごいのです。
今のユダヤのラビは言霊の原理を知りません、カバラに似ていると思っています。この世の中は漫然と出来上がったわけではありません。操り人形の如くに操られている。生きている人間の心、自分の奥をよーく観察しますと、天津罪、‘ア・カサタナハマヤラ・ワ’だな、見極めますと、そこからスーッと浮かび上がる。自分の罪や業から逃れる事は決して出来ない。
イヤだ、と嫌っても尚の事、苛まれる。ですが、業を知ってしまうと落ち着く。スリが老練な刑事に見張られていると知ったら、一つも手を出せなくなる。自分の癖、それはどういうことかを知れば出ない。人間の罪もそうです。
私の友人はアルコール依存症で命も危なかった、入院してもすぐ出て来てしまう。友人の奥さんから頼まれて、会いに自宅へ伺った。そうしましたら、部屋中に「絶対に飲まない」、「もう俺は飲まない」って書いて張り出している、「俺は死ぬまで飲む」と書けよって私は言いました。
友人は亡くなりましたが、築地の本願寺でお葬式をしました。その時に奥さんが私に「当人がああ言って下さったので、とても気が楽になったことは確かです、ありがとうございました」、人間は本当に知りますと因縁から脱却する、その因縁があっても平気でおられる。
怒りっぽい、怒りっぽいから怒るのを止めようとすると尚、怒る。今の言葉で「切れた」、切れる心配があるから尚さら切れる。自分は「怒りっぽい」ということを心から分かりますと、怒らなくなるんじゃなくて、怒っていい時だけ怒って、怒ってはいけない時だけ怒るようになる。
人間は内情を全部掴んでしまいますと、そのゴタゴタの因縁は瞬間に消えてしまう。心の問題ですから。どんな因縁を持った人間も心の縛りを取ってしまいますと、総てが自由になって、やってもいいようにやるようになる、それが影と光との違い。
経綸もそのようにして、闇を光にして歴史を創造していく。内情を掴みながら、光の言葉に引き込んで行って、理想の世界をつくりあげて行く。ご自分のご家庭にいて何か起こった時に自分の心をよくよく反省して、ほんの少しでも光の言葉を出すことが出来た時、一瞬にして局面が変わります。
大祓もそのようにやっていく、昔のスメラミコトは起こってしまったことを祓ったわけではない、起こるであろうことを察知して、予めに消していく。無為の為、何にもしないでやってしまう。やっていても何にもしてないように思われる。
中国の王様の話に「鼓腹撃壌」があります、世の中の太平を謳歌して酒を飲み喰らい、腹鼓を打って「あぁ、楽な世の中だ」、国民は王の存在を知らず、王の名を知らず、関心を持たれなくなった総理大臣が日本に現れたら、その総理大臣は歴史に残ります。
何もしない、けれど、最も何かをした総理大臣。政治ではそういうことになります、何にもしないこと、動かないこと、これが言霊の学問に入門する第一条件。人間が今ここで動かずして動かす。肉体を持ちますと壁を持ちます。ですが、心は瞬時に壁がなくなります。
その心の中で‘ウオアエイ’の‘エ’と‘イ’の次元で以て操作しますと、今の世の中を創った何処かの国の隠れたKing of kingsと言われた方が物質科学文明を創造し、言霊の原理で以て理想の社会を創ることが出来る。
神がかりになった出口直さんという方は、「アイウエオ四十八文字で世を治めるぞ」と予言しております。この間、五代目のお孫さんから電話をいただいて本の注文をして下さいました。出口光さんという方です。
大祓の眼目は心の奥の奥の問題を解きませんと、本当の理解は出来ませんので、難しいでしょうが、本なり会報なりで、よくお読みになって、分からないところはご質問下さい。ご質問すれば必ずお分かりになるはずでございます。
斯く宣らば、天津神は、天の磐門(いはと)を押し披(ひら)きて、天の八重雲を、巖(いづ)の千別きに千別きて聞し召さむ。国津神は、高山の末、短(ひき)山の末に上りまして、高山のいほり、短山のいほりを撥(か)き分けて聞しめさむ。
今は短山(ひきやま)と読みますが、昔は短山(みじかやま)と読む祝詞の本もございます。
斯く聞しめしてば、皇御孫(すめみま)命の朝廷(みかど)を始めて、天下(あめのした)四方の国には罪と云ふ罪は在らじと、科戸(しなど)の風の、天の八重雲を吹き放つ事の如く、朝(あした)のみ霧夕(ゆうべ)のみ霧を、朝風夕風の吹掃ふ事の如く、大津辺(つべ)に居る大船を、舳(へ)解き放ち、艫(とも)解き放ちて、大海原(おほわだのはら)に押し放つ事の如く、彼方(おちかた)の繁木が本を、焼鎌の敏鎌(とかま)もて、打拂ふ事の如く、遺(のこ)る罪はあらじと、祓ひ給ひ清め給ふ事を、
「天津祝詞の太祝詞事を宣れ」ということが、実際のことを言って、個人々々の罪を判別して「お前はこう懺悔しろ」、「お前はここを改めよ」と罪を判別して裁判をすることでは全くなくて、新しい政治の本に、今迄の溜まりに溜まった罪穢れをよく観察しながら、しかし、それを咎めるのでも、責めるのでもなく、それ等を総て生かしながら歴史創造の材料として拾い上げて行く。
新しい歴史を創造していく光の言葉に換えて行く。その操作によって、新しい歴史を創造することによって、悪いことも、良いことも、総て100%生かしながら、歴史を創っていく、それに巻き込むことによって、人々の罪穢れがたちどころに消えてしまうようにやっていく。それがスメラミコトの政治のやり方です。「このようにせよ」と言うのが大祓祝詞の眼目です。
そういうことが宣言されたならば(斯く宣らば)、以前に天津罪と国津罪ということを申し上げました。天津罪と申しますのは一人一人の罪ではなくて、人類が言霊の原理を隠されたことによって、人間が自ずから授かっている正統な言葉の法則を破る、無視してしまうことを言います。
天津罪に対応して天津神は復活してきた言霊の原理を勉強し、それを自覚して応用することにより、日本乃至世界の政治を執り行うとする人。
天津太祝詞音図で以て歴史を創造するという宣言が、既に世界に述べられたならば、ごちゃごちゃした喧しい世の中を乗り越して、明るい世の中になってしまったならば、その政治のやり方は次のようになりますよ、と言う事をずーっと後ろまで述べているのです。
素晴らしい、胸がドキドキするようなことを書いてあると同時に、謎で書いてあるので読んだだけでは何の事かサッパリ分かりません。言霊の原理を知った上で政治に応用すに応用して実際に執り行う朝廷に携わる人、それが天津神。
天津神は、天の磐門(いはと)を押し披(ひら)きて、天の八重雲を、巖(いづ)の千別きに千別きて聞し召さむ。
天の磐門(五十葉戸)、天照大神が天の磐門に入ってしまって、世の中が真っ暗になってしまった‘磐戸’、読んだ字の如く五十音で結界されて五十音がその中にある、それを押し開くのですから、五十音の学問を世の中に公開して、それを人に分かるようにすること。(天の磐門を押し披きて)
「天の八重雲」は国民に訴えるまでの経過、次から次にその原理に則って新しい時代に沿った法令を出す、雲がまるで天空に湧き上がるように出て参ります。
言葉に含まれた権威、間違いの無い真実「御稜津(みいず)」の道理を、概念的知識の上に分けて行く、投入して行く(巖の千別きに千別きて)、概念的文化が第三文明の光の文化に吸収されて行く、それが総て生かされて行く。以上のような働きをして、スメラミコトの宣言に答えて行きます。(聞し召さむ)
国津神は、高山の末、短(ひき)山の末に上りまして、高山のいほり、短山のいほりを撥(か)き分けて聞しめさむ。
大祓祝詞を柿本人麻呂があまりにも詩的に気取って表現いたしましたから、難解ですが、
天津太祝詞五十音図(高山)を上下に反転(短山)しますと逆の五十音図になります。それで百音図、人間の心の構造を表現することが出来ます。上の五十音図は高山、下の五十音図は短山、五母音の‘アイエオウ’はひっくり返って‘ウオエイア’、の対称に他の半母音も子音も同じ、発音も同じ、ということは同じ実相(音)ではありますが、様相は天国(高山=光の世界)と地獄(地獄=闇の世界)の違いがあります。
仏教の六道輪廻を例にとって説明いたします。仏を自覚する進化の過程を‘ウオアエイ’の五段階で表わし、最後に仏陀として成仏する。短山は仏を知らない世界、‘ウ’は普通の人間、‘オ’は修羅、‘ア’は畜生、‘エ’は餓鬼、‘イ’は地獄、高山は仏を自覚した世界、‘ウ’は衆生、‘オ’は声聞、‘ア’は縁覚、‘エ’は菩薩、‘イ’は仏陀。
衆生は仏教を知ってて何も知らない人、「救われたい」と思っても何もしない人。声聞は「救われたい」と思って、仏教の本を読んだり、和尚さんの話を聞いたりして勉強を始めた人。縁覚はこうすれば、こうなる、所謂、‘縁’を全部知ってしまって、自分の存在が今ここに自分が生きていることは、こういう縁があって私が生きている、ということを悟った人。‘縁’はまた‘因縁’です。
どんなに‘因縁’を振り払おうとしても、振り払われない。「袖触れ合うも他生の縁」と申します。「イヤだ!」と嫌えば、その人とは口を聞かずに済むでしょうが、嫌えば、嫌うほど、もっと嫌いな人に縁が出来る、強くなってしまう。殴られたら、それ以上に殴り返します。
やれば押される物理的現象。因縁が来ればその通りに動く、こちらからも、あちらからも来られて、どうしようもなくなってしまい、「俺は何の為に生きているんだ」ということになります。
ぶん殴られたら、「さぞかし痛いだろうな、お手が痛うございます、一つで足らなければ、こちらもどうぞ」、そんなこと言う人はどうかしているかもしれませんが、もし言ったならば、又殴る人は稀な人で、言われたら気持ち悪い、そこで殴られる縁が切れて、新しい考え方で縁が生まれる可能性が出て来る。
だけど、可能性が出て来ただけであって、いつまでも縁が消えるわけではない。打たれるだけの縁があるのだから、打たれた、その縁でもってお役目を果たしてくれたのだから、「ありがとうございました。右の頬を打たれば左の頬もどうぞ」ということになりますが、その人との縁は切れます。
ぶん殴られる縁を私は持っているとは思っていなかったけれど、ぶん殴られる因縁があったんだと、感じられる因縁を総て自分の心に照らし合わせて、分かってしまった人。それを‘縁覚’と申します。
お坊さんの位で申しますと「阿闍梨」。天台宗の比叡山で‘千日回峰’という修行、千日の間、比叡山の険しい山道を一日掛けて夜は提灯付けて30~50km歩く。ケガをしない人はいない、にもかかわらずケガをしない人がいる。
最後のクライマックスの満願の九日間は飲まず、食わず、眠らず、横にならず、お経をお経を唱え続ける、それでも生きていれば満願成就。生きた仏になると知る、何故ならそのような荒行を人間が出来るわけがない。たとえやり遂げたら百億円やると言われても、大概の人はやりません、その前に死んでしまいます。
人間なら絶対出来ないことが出来たということは、自分ならざる仏というものの加護があったから、仏の懐の中に自分が生されていることを命がけで知った。総ての因縁を認めた上で、この因縁があったが故に出来ない事が出来た、ということは因縁を自分の頭の中で完全に消化してしまって‘縁覚’になる。
昔、京都に朝廷があった時は、千日回峰を満願成就したお坊さんは草鞋を履いたまま天皇陛下にお目通りがかない、大阿闍梨という称号を賜った。
この間、たまたまTVを観ておりましたら、満願成就した大阿闍梨が、「何を悟りましたか?」のインタビューに「さあ…」と答えていた。「何だか分からんのです。」それで私は驚いた。何しろ満願成就したということは人間業ではございません。
アメリカに渡ってイチローが三割何分の打率でオールスターに出たとは言っても、天才ではあっても命がけじゃない。
「さぁ…」の答えに、思わずかわいそうになって、TVを消してしまいましたが、昔は「あなたが満願成就したということは、此処、こういうわけですよ」と言って下さる先輩がうじゃうじゃおりました。今はそういう先輩がいない、誰も教えてあげない。ただ「素晴らしい」と絶賛するだけ、本人は少しも素晴らしいと感じない。
人間は自分のやったことは一体何だったのだろう、人間と申しますのはやったことを言葉にしませんとやった気にならない。TVを買って来て設置するだけでは映らない。こうやれば映るよと教えないと。
悟った人を‘ア’、自由でない人を救おうとするのは菩薩である‘エ’です。自分一人が悟るより、他人を悟らせる方が難しい。皆それぞれの因縁が違って来ます。自分の因縁だけなら阿闍梨になれますが、他人を救うことは他人の因縁まで背負うことになります。
六道を‘ア’から説明します。心は自由で清々しい、仏の懐に抱かれているのですから何ごとがあっても驚かない。何ごとが起ころうと手を合わせ、「ありがたい」と思える。‘ア’の闇は「畜生」です。
獣は手を合わしません、人前で小便、大便をする、ワンワンと吠えてはいけない所でワンワン吠える。自由です、「縁覚」と「畜生」は同じ‘ア’ですが、好きな事をするのですから変わりはないですが、自覚する、しないでは、天地の差があります。
言霊の学問を自覚する世界を「高天原」と申します。自覚しなければ同じ行為であっても「高山」に対してなります。‘オ’の光の世界は「声聞」、お経を読んだり、お坊さんの話を聞くことによって、自分が悟りの世界に入ろうとして勉強する。又は人と話し合って、助け合いながら、相互に励まし合って、救いの道を進んで行く。
‘オ’の闇の世界は「修羅」、お互いに切磋琢磨、新しい事を発見すれば科学は進歩します。政治でも「改革、改革」と言いながら、何をどうすると言わないですから。芥川龍之介の小説に、蹴落として這い上がろうとしていたら、実は一番下にぶらさがっていた、相互に足の引っ張り合い、けなし合って議論する。
以上のように「高山」は励まし合う光の世界、「短山」はけなし合う概念的争いの世界、この違いが出て来ます。