伊耶那美の神は火の夜芸速男(やぎはやお)の神(言霊ン)という火の神を生んだので御陰(みほと)が火傷(やけど)し、病気となり、終になくなられた、という事です。これを言霊学の教科書という精神上の事から物語るとどういう事になるでしょうか。伊耶那岐・美二神の共同作業で三十二の子音言霊が生まれ、それを神代表音文字に表わしました。ここで伊耶那美の神の仕事は一応終ったことになります。そこで美の神は高天原という精神界のドラマの役をやり終えて一先ず幕の影へ姿を隠してしまう事になった、という訳であります。
「神避(かむさ)る」と言いますと、現代では単に「死ぬ」と言う事に受け取ります。古神道言霊学では決して「死」を説きません。「霊魂不滅」などと言って人の生命は永遠だ、と説く宗教もありますが、言霊学は霊魂などという極めて曖昧な意味で不死を説くわけではありません。この事は他の機会に譲りまして、では伊耶那美の神が神避ったという事は実際にどういう事であるのか、について一言申し上げます。
三十二子音の創生と神代表音文字の作製によって伊耶那美の神の分担の仕事は終りました。五十音言霊で構成された高天原精神界から退場することとなります。そして伊耶那美の神は本来の自身の責任領域である客観世界(予母都国(よもつくに))の主宰神となり、物事を自分の外(そと)に見る客観的な物質科学文明の創造の世界へ帰って行ったのであります。この時より後は、五十音言霊の整理と活用の方法の検討の仕事は伊耶那岐の神のみによって行なわれることとなります。
かれ伊耶那美の命は、火(ほ)の神を生みたまひしに因りて、遂に神避(かむさ)りたまひき。
こうして伊耶那美の神は火の神を生みましたことで、遂におなくなりになりました、ということであります。但し、伊耶那美の神がなくなられたということは、現代人が考えていますように、人が死んで、身体がなくなり、あの世に魂だけとなって行ってしまった、ということではありません。古神道言霊学は人間の生命を心の側から解明した究極の真理であります。この真理から美神がなくなられた、ということを解釈しますと、次のように言うことが出来ましょう。伊耶那美の神は死んで精神界の純真無垢な言霊のみによって構成されている高天原の世界から離れて、物事をすべて客観的、対象的に見る黄泉国(よもつくに)に去って行った、ということなのであります。
美の神が神避(かむさ)った、ということに関して、私達が注目しなければならぬことがもう一つ御座います。伊耶那岐・伊耶那美の二神は古事記神話の主役として共に力を合わせて子音の創生に当って来ました。そして生れ出るべきすべての子を生み終えて、もうこれ以上生むものがなくなり、伊耶那美の神は神話の舞台である主観世界の高天原から去って、客観世界である黄泉国(よもつくに)へ去りました。高天原には主役として伊耶那岐の命唯一神が残ったことになります。
さて、主観世界の高天原から伊耶那美の神が客観世界の黄泉国(よもつくに)へ去って行った、とお話しますと、概念的な主観世界とか客観世界とかの用語が続き、私達の頭脳がその煩雑さについて行けなくなり、思考に迷いを生じることがあります。そこで少々説明を加えることにしましょう。
人が暗い夜道を歩いているとします。遥か前方にピカッと何か光りました。その人は「光ったな」と思いました。暫くしてその人は「光ったのは青い光だったか、緑の光だったかな」と思いました。「さあ、どっちだったろう」と自分に問います。この時、主と客の世界の区別がはっきりします。ピカッと光ったその光は間違いなく自分から見て外界の光でした。客観世界の光を見たのです。次にしばらくして、「あの光の色は青だったか、緑だったか。」を考える時、その光は既に外の世界からは消えてしまっていますから、数分前に見たピカッと光ったその時のことを思い出さねばなりません。これは間違いなく記憶という主観内の世界のものです。主客の世界の区別はこれではっきりします。「そんなことなら、人は誰だって主観・客観世界の区別は特別の意識もなく見極めて、日常を暮らしているよ」と簡単にお思いになるでしょう。全くその通り、人は雑作もなくその区別を何の意識もなく使い分けて暮らしています。
けれど、日常の人間の心の営みを超えて、これを学問的に考える時、主観世界と客観世界との間には、その観察方法に於ても、その思考の法則に於ても、決して相容れない区別があるのです。特に物事の先天と後天双方にわたる関係を調べる、この講座の言霊学とか、物質科学の中の原子物理学等の場合、その思考方法と法則には厳密な相違があるということをお知り頂きたいと思います。主観世界と客観世界との相違について説明をさせて頂いて、それを前提として伊耶那美の神の「神避り」の言霊学勉学に於ける意義についてお話を申上げようと思います。日本民族の、また世界人類の秘宝であるアイウエオ五十音言霊布斗麻邇の唯一の教科書である古事記(日本書紀)は現代の私達にその究極の真理と共に、その真理に到達する勉強法をも教えているのであります。
伊耶那岐・伊耶那美の二神は共同で三十二の子音言霊を生み、ここに先天・後天の四十九の言霊が整いました。そしてそれ等の言霊一つ一つを粘土板に書いて刻み、素焼きの神名文字板としました。火の夜芸速男の神・言霊ンであります。これで言霊五十音すべてが出揃ったことになります。そしてこの五十番目の神である火の神を生みましたので伊耶那美の神は病気となり遂に神避って高天原から黄泉国に去って行ってしまいました。(後に伊耶那美の神は客観世界の責任者黄泉津大神となります。)
伊耶那美の神は去り、後に残されたのは伊耶那岐の神と三十二の子音(と言霊ン・神代文字)だけとなります。美の神は「御蔭灸(みほとや)かえ」、子種が尽きたのですから、役目を果たして高天原を去りました。けれど伊耶那岐の神にはまだやらねばならぬ仕事が山ほど残っています。言霊五十音の整理・運用・活用の仕事です。これ等の仕事を伊耶那岐の神は自分一人でやることとなります。相棒である伊耶那美の神は神避っていなくなってしまったのですから。
さて、この状況にある伊耶那岐の命と、私達言霊学を学ぶ者の心境とを引き比べてみましょう。私達は言霊学と出合い、興味を持ち、その講義を聴くこととなります。講義は「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は、天の御中主の神。(あめつちのはじめのとき、たかまがはらになりませるかみのみなは、あめのみなかぬしのかみ)……」と人間頭脳の心の先天構造から始まります。そしてその先天構造を構成する五つの母音、五つの半母音、母音と半母音との懸け橋となる八つの父韻、母音・半母音のそれぞれを統轄する言霊イ・ヰ(伊耶那岐・伊耶那美)のそれぞれの内容と働きを概念的にではありますが知識として身につけます。講義は更に進み、先天の活動による三十二の子音の創造の話となり、先天十七、後天三十二の言霊四十九が出揃い、最後にこれら全言霊を粘土板に刻んで素焼きにして神名(神代文字)を作る作業となり(言霊ン)、人間の心の構成要素のすべて、五十個の言霊が勢揃いしたことになります。
このように書いて来ますと、伊耶那美の神が神避った後の伊耶那岐の神の立場と、言霊学を学ぶ人が言霊五十音の全部を教えられた時の立場とは、当然の事ながらよく似ていることに気付きます。この時、神話の中の伊耶那岐の神は、誰にも頼ることなく、自分一人で五十音言霊の整理・活用・運用の仕事に進んで行きます。何の注意事項をそこに残すことなく、いとも当然の如く金山毘古・金山比売・波邇夜須毘古……と五十音言霊の整理の仕事に分け入っています。何故それが出来るか、といえば、伊耶那岐と伊耶那美の婚い(呼び合い)の時、「女人先だち言へるはふさはず」と言うように、伊耶那岐の命は初めから「男」という名で表現される話の「主体性」ということ、即ち主観と客観との区別をはっきりと認識しているからであります。
翻(ひるがえ)って私達勉学者の状況はどうでしょうか。言霊五十音の心の構造の話を聞き、母音・半母音、父韻、親音、三十二子音の創造の経緯を知って、心は多分「珍しい学問だ、心をこのように分析する学問は初めて聞いた。興味がある。今後共勉学を続けることにしよう。……」といった処でしょうか。この今後勉学を続けようとする時、忘れてはならない一事があるのです。
平易にお話するために科学の勉強を例に引きましょう。物質科学に興味を持ったとしましょう。初めは先生からその学問の内容についてのお話があります。その概要を理解したら、それ等の話を証明する実験に参加して、この科学の分野では物事をどのように考えて行くのか、実験に使う材料の酸素、窒素、炭素……はどんな物質か。実験に使用される器材はどんな扱い方をするのか、等々を知ることによって、自分が初めて聞いた講義が真実だということを確認することが大切です。この初歩の確認を疎(おろそ)かにすると、その後の高級な理論や実験には付いて行けず、頭は混乱してしまうでしょう。
この科学の基礎実験を言霊学の勉学に持ち込んでみましょう。言霊学に興味を持ち、心の先天構造の十七言霊(母音、半母音、父韻等)三十二の子音言霊の話を聞き、本で読みました。更に勉強を進めようとする時、基礎の実験が必要です。言霊学は心と言葉の学問ですから、実験ではなく、実証が必要となります。心の実証とはどういうものなのでしょうか。
言霊学の実証は、器材、器具を使った実験ではありません。また自分以外の他人の心を拝借するわけにもいきません。飽くまで自分自身の心の中の体験です。こう申上げると大層なことだとお考えになる方もいらっしゃるかも知れません。そこでまた例を引きましょう。五十年程前に読んだストレス学説の元祖、カナダのハンス・セリエ博士の話です。「世の中は猛烈な速さで動いている。その中に住む人間は当然影響を受ける。種々の心のストレスを持つことは避けられない。私はストレスに対処する最も適した言葉を捜して来て、東洋特にこの日本で見つけた。英語のthank youは神から、または人から何かを頂いたお礼としての言葉である。けれど日本語の“有難い”の言葉は、本来お礼の意味ではない。今、此処に生きている事がこの上なく有り難い、即ち“有り得ないことが起こっている”という表現です。無条件の有難さです。私はこの言葉に接して、ストレスの医の最高の言葉は日本語のこれだと確信したのです。」
このセリエ博士の言葉を言霊学の勉学の基礎自証の問題に引いて来ましょう。自己反省の作業の中で、一瞬であっても「今、此処に生きる事の無上の有難さ」を知ることの出来た人は幸福です。この人は他からでなく、まごうことなく自分自身の心の中に“有難い”という無上の感情を放射して、自分という傷つき易い人間、そして他人を傷つけ易い人間である自分を、いつも感謝の愛と慈悲で包み、護ってくれている偉大なものが存在していることを知ったのですから。そして言霊学で謂うところの、心の中に立っている天之御柱の中の言霊ウとオの次元の上に感情の世界である言霊アが柱の一部として厳然と立っていることを自証出来た事となります。そしてそれはまた見ることも、聞くことも、触れることも出来ない心の先天構造の内容の一部をはっきりと直観することが出来たことにもなります。この自証の直観は、その人自身の判断力によって古事記神話の更なる真理に向って奥深く入って行く事を可能とするでありましょう。
長いこと言霊学の初期自証の仕事について筆を割きましたが、ここから古事記の文章を先に進めます。文章を少し長く書くこととなりますが、そのすべては伊耶那岐の命が自ら独りで、自分の心の中で五十音言霊の整理・運用・活用の方法を追求し、解明して行く文章であります。