天の久比奢母智(くひざもち)の神、国の久比奢母智の神
言霊ホ、ヘ
久比奢母智とは久しく(久)その精神内容(比・霊)を豊かに(奢)持ち続ける(母智)の意。
天の久比奢母智は霊を、国の久比奢母は体を受け持ちます。
先天意志の内容であるイメージが音声と結ばれ、発声されますと、その言葉の内容は何処までも豊かに持続され、発展して行きます。
言葉というものは発声されたらそれで終りという訳ではありません。
言霊ホは穂(ほ)・火(ほ)・秀(ほ)・百(ほ)・帆(ほ)・吠(ほえる)・外(ほか)・惚(ほける)・炎(ほのお)・仄(ほのか)等に、
言霊ヘは戸(へ)・辺(へ)・舳(へ)・凹(へこむ)・減(へる)・蛇(へび)・経(へる)・縁(へり)等に用いられます。
以上沫那芸の神より国の久比奢母の神までの八神、クムスルソセホヘの八言霊が属す宇宙区分を
佐渡の島と呼びます。
この区分の八言霊の現象によって先天の意図のイメージが音声と結ばれ言葉となり、口腔より空中へ飛び出して行きます。
佐渡の島とは心を佐けて言葉として渡すという意です。
この八言霊の作用により未鳴が真名となり、更に発声されて神名となって空中に飛び出します。
古神道言霊学の佐渡の島の「心を言に乗せて渡す」という事が佛教でも使われ、八苦の娑婆の此岸から極楽の彼岸に渡すことを度(ど)と言い、また得度(とくど)なる言葉もあります。
佛の教えでは、人は生れながら佛の子であり、救われた存在なのであるが、救われているという自覚を持ちません。
それが佛の教えを実行して救われてある事を自覚出来ます。けれどその自覚だけでは不充分であり、その救われの心を言葉に表わし、または詩にまとめて初めて自覚は完成する、と説きます。言葉によって渡す事となります。その詩を頌(しょう)または偈(げ)と呼びます。
古事記の文章が子音創生の第三番目の島である大倭豊秋津島と呼ばれる宇宙区分に移ります。
天の久比奢母智の神・言霊ホ、国の久比奢母智の神・言霊ヘ
久比奢母智とは久しく(久)その内容(比・霊)を豊かに(奢)持ち続ける(母智)の意であります。
イメージと言葉が結び付いた表現の内容は何処までも豊かに持続・発展して行きます。文化の発展とは言葉の発展であります。
言霊ホに漢字を当てますと、穂(ほ)、火(ほ)、秀(ほ)、星(ほし)、帆(ほ)、頬(ほほ)、干(ほす)、……等があります。
言霊ヘに漢字を当てますと、辺(へ)、屁(へ)、経(へ)る、減(へ)る、舳(へ)、凹(へこみ)、……等があります。
佐渡(さど)の島
以上の沫那芸の神(言霊ク)より国の久比奢母智の神(言霊ヘ)までの八神(八言霊)が宇宙に占める位置とその内容を佐渡の島といいます。
佐渡とは佐(たす)けて渡(わた)すの意です。
何を助けて渡すのか、と申しますと、先天の意図を一つのイメージにまとめたものに、その姿に見合った言葉(言霊を結んで実相を示す言葉)を結び、それによってそのイメージがそのまま正確に他の人に伝わるようにすることです。
クムスルソセホヘの八言霊の働きによって、一つのイメージがその持つ霊と体の内容が正確に何処、何時までもそのまま伝わって行く体裁がととのい、口腔より発音され、口腔より空中に飛び出して行くこととなります。
仏教で一般の人が仏道のお坊さんになることを得度と言います。
度(ど)とは救(すく)う、または地獄から極楽(此世[このよ]から彼世[あのよ])へ渡すということです。仏教では人は本来生まれた時から既に救われている者と説きます。
けれどその自覚がありません。自覚のない状態から仏教の定める方法によって修行し、その自覚を実現した時、その単なる自覚にとどまることなく、その心内の自覚を詩、文章またはその他の動作、絵、彫刻によって表現出来た時、初めて「救われた」ということになります。
自覚のイメージ内容に言葉を結んだ時、自覚は成就することとなります。この様にして表現された詩を仏教で偈(げ)または頌(しょう)と呼びます。
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