筒・つつ・とは
私たちの使用できる意味のある単音は五十音図の形でまとめられています。発音だけに限ってしまえば、千でも二千でも追加されますが、単なる意味のない音波に過ぎません。
音図の横段は各十音ですが、両側は母音行で中間に八音づつあります。
この八音は元をただせば冒頭の父韻八音からきて子音となったものです。
筒とはここではウオエ各段の各八音の三つの塊をいいます。
各段八つしかありませんが、それで全てを現わします。
例えば、今とは何か、ならば、ここでいうエウオ次元の各八つの繋がった筒状を使用します。
今とは何かのウオエ次元の三態。
オ次元の筒。過去から持ち来らせた今まであった-あるの過去の今ある世界。
ウ次元の筒。直接的な今ある-あるの今ある世界。
エ次元の筒。これから有らしめられる今ある-あるだろうの今ある世界。
今といいましても、過去から来た今か、今ある今か、今から今あるだろう今かでその様相が違います。
その違いができる働きを五十音図で見ると、それぞれの順位を持つ働きの列があります。
オ次元の筒。オ・カタマハサナヤラ・ヲ、の順になり、
ウ次元の筒。ウ・カサタナハマヤラ・ウ、の順になり、
エ次元の筒。エ・タカマハラナヤサ・ヱ、の順になる。(ア段で表示)
筒の読み方の1。身禊以前の読み方。(オ次元の例)
オ次元の筒。オの次元は過去から持ち来らせた知識記憶概念を扱いますので、始めのオは仕入れた知識、ひょんな思い付き、飛び出した記憶等がわたしに取りつく形をとり、自覚的な性質を持ちません。
・カ・・しかし、せっかく自分にやってきたものですから、そのものはわたしに掻き寄せ明らかな所有物とされます。
・タ・・手中にしたものは自分の手の届く範囲の記憶知識概念で飾られ、自分は知っている限りのもので修飾守備されます。
・マ・・こうして自分に収めて、自分に着いた果実のように扱います。
・ハ・・そこで元やってきた概念ではなく、自分の果実を説明する言葉を見出します。
・サ・・他者であっても他からやってきても、自分なりの説明の言葉を与えてしまいそれを納得してしまいます。
・ナ・・納得して自分には正しいと心に決まれば、用意された言葉で名を与え、名を表出する理由名目を得ます。
・ヤ・・そして準備された行動から実際の表出、主張等の創出へと移ります。
・ラ・・最後にラで螺旋状に次の事態へと発展することが期待され能動受動の準備がされます。
・ヲ・・ところがここでは自覚された結論として得たものではないので、結論が完結していなく、不安定で自分の知っている限りの知識概念の種となって次の疑問の始まりとなって拡大してしまいます。
オの筒はこのような順になります。これは一瞬のうちに意識内で起こっているものです。
ウ次元の筒。ウ・カサタナハマヤラ・ウ、の順になり、欲望次元での意識内で起きます。順位が異なります。
エ次元の筒。エ・タカマハラナヤサ・ヱ、の順になる。選択次元での意識内で起きます。やはり順位が異なります。
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筒の読み方の2。イザナギの大神の方法。(オ次元の例をア段で表示)
身禊は「御身(おほみま)の祓へせむ」という自覚の上に成り立ちます。 一方、知識概念を得ることに自覚はありません。これを勉強しよう、何々の知識を得たいというのは、知識を得ることとは別の次元です。思い付きや記憶がやってくることに自覚は無く、過去が今にかぶさることでできた知識は、いわば拾って見つけたものです。
ですので身禊という自覚した行為でのオ次元は上記とは異なり、出だしから違ってきます。
また、身禊用の筒の流れはその順位が変わります。ア段で表記しますとその流れは、タカマハラナヤサ、になります。
まず、身禊用の順位に沿って、上記の全体を一旦ばらしてそのまま入れ換えます。文章が続かなくなり、読みが奇怪しくなりますが、後でそそぎ直します。
【本打ち切り、末打ち断ちて、千座の置座に置き足らはして、天津すがそを、本刈り断ち、末刈り切りて、八針に取り裂きて、天津祝詞の大祝詞事を宣れ】
身禊用に順位を変えただけの形。
オ次元の筒。オの次元は過去から持ち来らせた知識記憶概念を扱いますので、始めのオは仕入れた知識、ひょんな思い付き、飛び出した記憶等がわたしに取りつく形をとり、自覚的な性質を持ちません。
・タ・・手中にしたものは自分の手の届く範囲の記憶知識概念で飾られ、自分は知っている限りのもので修飾守備されます。
・カ・・しかし、せっかく自分にやってきたものですから、それらのものはわたしに掻き寄せられ明らかな所有物とされます。
・マ・・こうして自分に収めて、自分に着いた実のように扱います。
・ハ・・そこで、元からやってきた概念ではなく、自分の実を説明する言葉を見出します。
・ラ・・最後にラで螺旋状に次の事態へと発展することが期待され能動受動の準備がされます。
・ナ・・納得して自分には正しいと心に決まれば、用意された言葉で名を与え、名を表出する理由名目を得ます。
・ヤ・・そして準備された行動から実際の表出、主張等の創出へと移ります。
・サ・・他者であっても他からやってきても、自分なりの説明の言葉を与えてしまいそれを納得してしまいます。
・ヲ・・ところがここでは自覚された結論として得たものではないので、結論が完結していなく、不安定で自分の知っている限りの知識概念の種となって次の疑問の始まりとなって拡大してしまいます。
身禊用のオの筒は身禊用に順位を変えてこのような順になります。
文章が通じませんから、自覚した内容を加えて一度ばらしたものをつなぎ合わせます。
身禊されたオ次元の筒。(ア段で表示)
・オ・・始めのオは仕入れた知識、ひょんな思い付き、飛び出した記憶等がわたしに取りつく形をとり、そのようなものとして自らの出所(時処位)・実相を自覚しています。
・タ・・手中にしたものは自分の手の届く範囲の記憶知識概念と得られた限りの対象であることを自分は知っています。
・カ・・ですので、自他共に自分の元にやってきたものですから、それらのものはわたしに掻き寄せられた明らかな所有物であり、他者の位置づけがはっきりしています。
・マ・・こうして自他ともに納まる場所に収めて、それぞれに成った実のように、鏡を写す自分と写る自分が統合されているように扱います。
・ハ・・そこで、元からやってきた概念ではなく、自他ともに納得する自分の実を説明する言葉、新しく創造される事柄も言霊規範に基づいて決められていくことを見出します。
・ラ・・それをもってラで螺旋状に自己の内容が他者の内容となって、次の事態へと発展することが期待され能動受動の準備がされます。
・ナ・・双方が納得してそれぞれに正しいと心に決まれば、用意された言葉で名を与え、名を表出する理由名目を得ます。
・ヤ・・そして準備された自己の行動から、実際の他者としての表出、主張等の創出へと移ります。
・サ・・他者であっても他からやってきても、自分なりの説明の言葉と他者の居場所を与えて、相互に納得して自他との結論に相互の反故の無いことが確認されいきます。
・ヲ・・こうしてここで、相互に自覚された結論として得たものなので、結論が完結して、安定で自分の知っている限りの知識概念の花となって、両者の結果を事実として受け取ります。
ウ次元の筒。ウ・カサタナハマヤラ・ウ、は、アタカマハラナヤサワの順になり、欲望次元での意識内で起きます。
エ次元の筒。エ・タカマハラナヤサ・ヱ、は、アタカマハラナヤサワの順になる。選択次元での意識内で起きます。
身禊された運用意識(筒)の順位は全て、アタカマハラナヤサワ、となります。
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底筒(そこつつ)の男(を)の命。「身禊」23。
次に底筒(そこつつ)の男(を)の命。
衝立つ船戸の神の原理によれば禊祓は如何なる外国文化も摂取する事が可能であると分りました。とするならば、その初め、言霊エから始まり、言霊ヱまでにどんな現象が実際に起るのか、が検討され、明らかに現象子音の八つの言霊によって示される事が分ります。それはエ・テケメヘレネエセ・ヱの八つの子音の連続です。八つの子音は筒の如く繋がっていて、チャンネルの様であります。そこで下筒の男の命と呼ばれます。
何故下筒の神と呼ばずに下筒の男の命と言うのか、について説明しましょう。神と言えば、働き又は原則という事となります。禊祓の場合、エとヱとの間に如何なる現象が起きるか、が八つの子音言霊の連続によって示されるという事は、生きた人間が禊祓をする時、その人間の心の内観によって心に焼きつく如くに知る事が出来る事です。そこで男の命(人)と呼ばれる訳であります。内観ではあっても、それは子音であり、厳然たる事実なのです。その事は禅宗「無門関」が空の悟りを「唖子の夢を得るが如く、只(た)だ自知することを許す」と表現するのと同様であります。
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綿津見では実の中の綿をつまみあげると連続が出てきて、エから・ヱへ渡ることができました。
底筒(そこつつ)の男(を)の命では綿の実の一つ一つから繊維の連続を引き出すことです。エから・ヱまでは八つの現象となっている・テケメヘレネエセ・があってその一つ一つの実を取り上げることになります。
チ→テ、ここでの始まりは、伊耶那美が千人殺すこと、伊耶那岐が千五百人産むことを衝き立てました(チ)。テになると、意志目標として立てたものに手を差し出して選択が完了します。ついでそれが欲望となり実現したいものとして立てられ(ツ)自分の前に立ちはだかって(ト)戸となります。(ツ)(ト)はこの後の中津中筒上津上筒の段階です。ここでは完了した選択が現象となって自分を縛る体制を取ったことになります。
キ→ケ、両者の意図、主体側客体側の目標等に則ってまず、主体側の実相を明らかにして、伊耶那岐の方から見るなら千五百人(キ)、ケになると、選択されたテの実体が集約さ選択されたものが明瞭になる直前の状態になる(ケ)。
ミ→メ、ついで客体(主体)側の主張の実相を明らかにし、伊耶那美の言う千人。メになると、選択は完了し集約され、手を付ける始めの部分が芽の形ではっきりしてきます(メ)。
ヒ→ヘ、双方を満足させる言葉を探し、両者の統合を目指す。ヘになると、はっきりした芽になっているものを主客双方に明示し、芽の内容を示せる言葉の輪郭、それによって相手と接触する外見、縁(へり)が創られます。
リ→レ、双方の主張が折り合いそれぞれの主張が目一杯繰り広げられ、レになると、縁によるコンタクトはそこから内容に至るまで十分な主張が繰り広げらていきます。ここでは自他、主客間との間に霧のかかった不明瞭な理解による誤解を取り除き切り開くことになります。
ニ→ネ、それぞれの行動の眼目が成立し。ネになると、主張は自他を説得し納得するものとなりました。これで両者の表現(音ね)は完了し後は実行あるのみです。
イ→エ、エになると、実行が行われ、当所の意図が得られる(エ)こととなります。
シ→セ、それぞれの目指す目標が達成される。セになると、行為の実がなり、刈り入れの為の更なるエネルギーの蓄積が促され、実を背負い、堰をつくって(セ)収穫しつつ蓄積していきます。
目前の物を見てこれはリンゴだと判断するそのほんの数秒分の一のことを、古事記とそれを伝えてきた大和の人達は数千年前に解決し尽くしていたわけです。知的に数千年遅れた現代人はしてはなかなか手の出せるものではない。一瞬の出来事を書くというのは大変なことだと分かった次第です。
まだ終わったわけではないし、理解出来ているわけでもない。
要点の一つは垣間見たようだ。それは、古事記百神のどの神もそれぞれ百神を循環し、循環しているどの神達さえその循環の中にあるということ、おそらくそのように理解出来ます。
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