さて、心の先天構造を構成する十七の先天言霊が出揃い、その最後に現れました伊耶那岐・伊耶那美の二神(言霊イ・ヰ)が「いざ」と立上り、此処に後天現象の最小単位である言霊子音の創生が始まります。古事記は実際に子音を生む記述の前に、子音を生む時の状況、生れ出る子音の場所、位置等を予め設定する事から始めています。それがどういう事か、説明して参ります。
ここに天津神諸の命以ちて、
これを文章通りに解釈しますと「先天十七神の命令によって、……」となります。これでは古事記神話が言霊学の教科書である、という意味は出て来ません。ではどうすればよいか。「神様が命令する」のではなく、「神様自身が活動する」と変えてみると言霊学の文章が成立します。「さてここで先天で十七神が活動を開始しまして……」となります。
伊耶那岐の命伊耶那美の命に詔りたまひて、
先天十七神即ち先天構造を構成する十七個の言霊が活動を開始しますと、伊耶那岐・伊耶那美の二神、言霊イ・ヰは次の様な事を実行することとなります。
「この漂へる国を修理め固め成せ」と、
この漂へる国とは、先天構造の十七の言霊は出揃ったが、その十七言霊が実際にどんな構造の先天であるのか、またその先天が活動することによって如何なる子音が生れるのか、その子音がどの様な構造を構成するのか、またその子音によって実際にどんな世の中が生れて来るのか、…等々がまだ何も分ってはいない、という様に事態はまだ全く流動的状態であるという事であります。「修理め固め成せ」を漢字だけ取り出しますと、「修理固成」となります。どういう事かと申しますと、「修理」とは不完全なものを整え繕う事、「固成」とは流動的で秩序が定まっていないものに秩序をつけ、流動的なものに確乎とした形を与えることであります。実際にはどういう事をすることになるかと申しますと、宇宙大自然の中にあって、およそ人間の営みに関係するもの一切を創造し、それに名前をつけることによって生活の秩序を整え、人類としての文化を発展させて行く事であります。
前にもお話しましたが、創造というと物を造り、道路や橋やビルを建設したり、芸術作品を創作したりする事と思われています。これ等も創造である事に間違いありませんが、精神内の創造とはそれ等の外に今までの経験を生かし、それに新しいアイデアを加えて物事を創造すると共に、その創り出されたものに言葉の道理に則って新しい名前を附けること、これも大きな創造です。言葉というもの自体から言うなら、この様に新しいものに附けられる名前の発展、これが創造の本質と言うことが出来ます。
天の沼矛を賜ひて、言依さしたまひき。
この文章をそのままにとりますと「伊耶那岐・美の二神に天の沼矛を授けて、実行するよう依頼しました」となります。けれどそれでは言霊学の教科書としては通用しません。この文章もまた人間の心の内部に関する叙述なのです。そのつもりで説明を進めます。
沼矛の矛とは両刃の剱に長い柄をつけたもの、と辞書にあります。しかし矛という武器は言霊学と関係がないものです。では矛という言葉を使うのは何故か。文章の前後を慎重に検討しますと、言葉の学問に対して矛とは何を表徴しているのか、それは人間の発声器官である舌の事でありましょう。人の舌の形は矛に似ています。人は舌を上手に使って言葉を話します。けれど舌だけで言葉を話すわけではありません。それは心が動くからです。心が活動して、更に舌が動く事によって、霊と音声が一緒になり、言霊子音を生みます。この現象子音である言霊によって漂へる国を修理固成し、人類の文明創造が行われる事となって行きます。
かれ二柱の神、天の浮橋に立たして、
母音と半母音、私とあなた、主体と客体だけでは現象は起りません。母音と半母音の間に言霊イ・ヰの働きである八つの父韻チイキミシリヒニの天の浮橋が懸かり、私と貴方が結ばれますと、現象子音が生れます。「二柱の神、天の浮橋に立たして」とは言霊イとヰが主体と客体とを結ぶ天の浮橋の両端に立って、の意であります。天の浮橋の「天の」とは「先天」の意。
その沼矛を指し下して画きたまひ、塩こをろこをろに画き鳴して、引き上げたまひし時に、
沼矛(ぬぼこ)の沼(ぬ)は貫(ぬ)で縦横の横の意です。チイキミシリヒニの八父韻を表わします。八父韻を発音してみて下さい。舌の巧妙な使い方が必要な事がお分かりになると思います。次に塩が出て来ます。塩と言いますと、二つの意味があります。一つは四穂(しほ)で五母音の中の言霊イを除いた他の四言霊(ほ)の事であり、二つには機(しほ)または潮時(しほどき)の事で、これは時の変化の相を示す八つの父韻の事であります。ここに「塩こをろこをろに画き鳴して」とある塩は四つの母音エアオウの事でありましょう。
ここで図を御覧下さい。対立する私と貴方、母音(イエアオウ)と半母音(ヰヱワヲウ)が両側に縦に並び、双方を結ぶ天の浮橋が横に懸かります。言霊イとヰ、伊耶那岐の神と伊耶那美の神は天の浮橋の両端に立ちます。そして沼矛を指し下して、四つの母音を画(か)き即ち撹き廻してみると、どんな事が起るでありましょうか。舌を使って八つの父韻チイキミシリヒニで四つの母音エアオウを撹いてみると、父韻と母音の結合が起ります。キとエでケ(K+E=KE)、チとアでタ(T+A=TA)……の如く現象の子音が生れ出て来ます。舌で母音を撹き廻して、引き上げますと、現象子音8×4=32の子音の音が鳴ります。
その矛の末より垂り落つる塩の累積りて成れる島は、
父韻チイキミシリヒニを操って四つの母音エアオウを撹き廻して引き上げて来ます。すると父韻に付着した母音がしたたり落ちて積もります。そしてそれぞれの島を造ります。島(しま)とは「締(し)まり」の意。若し「カ」という音が島となるという事は、およそ人間の営みに関係する事柄の中で「カ」と名付けるべきすべての物事を統率して、心の宇宙の他の物事から区別します。ばくち打ちの言葉に「島」があります。それぞれの組の勢力範囲といった言葉です。単音の一音一音が、それぞれの音独特の内容を持ち、他の音とは混同出来ない島を占有している事であります。
これ淤能碁呂島なり。
己(おの)れの心の締まりの意であります。八父韻でもって四つの母音を撹き廻し、三十二の現象子音を生みました。意識で捉えることの出来る眼前の現象界宇宙をこれ等三十二の子音はそれぞれ特有の内容の島を分け持ち、混同したり、重複したりすることがありません。それ等現象子音の単音はそれぞれ独特の光を輝かし、集まって素晴らしい光の交響楽を奏でています。
古事記は以上の如く、心の先天構造十七言霊を活用して、初めて人間が自分自身の心を言霊を以て表現し得る道理を発見した事、即ち「己れの心の締まり」である現象子音を生む事が出来た時の状況をこの様に述べているのです。人類が歴史上初めて人間の生命法則に則った掛替えのない真実の言葉を発見した喜びを日本書紀では次のように表現しています。「二神(伊耶那岐・伊耶那美)天霧の中に立たして曰はく、吾れ国を得んとのたまひて、乃ち天瓊矛を以て指し垂して探りしかは馭盧島を得たまひき。則ち矛を抜きあげて喜びて曰はく、善きかな国のありけること。」
如何なる国や民族の言語であっても、その言語を以て人間の営みを初めて表現することが出来た時には、同じように喜ぶのではないか。何も日本語だけに限ったものではない、と思われるかも知れません。そう思われるのも尤もな事でありますが、古代日本語の時には特にその意義は大きいと言わなければなりません。何故なら、現代社会を見ても分りますように、この世に存在する一切のものを締めくくり、限定、分類して表現する時、その規準として思考的な論理的な概念を用います。概念による思考は物事の実相を表現する場合、その実相を薄ぼんやりとした月の光の下で見る如く、真実の姿を見ること、表現することが出来ません。この点に於て古代日本語の如く、概念を一切使わず、そのものの実相ズバリの現象子音言霊の単音を以てする方法は他の世界の言語に類例を見ない優秀なものであります。物事の実相がそのまま表現されるからであります。この事は、その言語を使用する日本人の喜びであると同時に、世界人類の宝とも言うべきものなのであります。