○ 吉備(きび)の児島(こじま)
吉備(きび)の児島(こじま)、1
五十音言霊の全部が出揃い、次にその五十音言霊の整理・活用法の検討が始まります。
以上金山毘古の神より和久産巣日の神までの六神が精神宇宙内に占める区分を吉備の児島と呼びます。
「吉(よ)く備(そな)わった小さい締(しま)り」の意です。
児島と児の字が附きますのは、弥都波能売(みつはのめ)という上にア、下にイ、その間にオウエの三音が入った事の確認を基準として五十音言霊を整理し、枠で結びました。
吉(よ)く備(そな)わっている事は確認されましたが、その様に並んだ事の内容についてはまだ何も分っていません。
極めて初歩的な整理である事の意を「児」という字によって表わしたのであります。
古神道言霊学はこの初歩的ではありますが、最初にまとめられた言霊五十音図を天津菅曽(あまつすがそ)(音図)と呼びます。
菅曽を菅麻(すがそ)と書くこともあります。
菅麻とは「すがすがしい心の衣」の意で、人間が生まれながらに授かっている大自然そのままの心の構造の意であります。
これから以後の言霊五十音の整理・活用法の検討はこの音図によって行なわれる事となります。
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この子を生みたまひしによりて、御陰炙(みほどや)かえて病(や)み臥(こや)せり。
1-たぐりに生(な)りませる神の名は金山毘古(かなやまびこ)の神。
2-次に金山毘売(びめ)の神。
3-次に屎(くそ)に成りませる神の名は波邇夜須毘古(はにやすひこ)の神。
4-次に波邇夜須毘売(ひめ)の神。
5-次に尿(ゆまり)に成りませる神の名は弥都波能売(みつはのめ)の神。
6-次に和久産巣日(わきむすび)の神。
この神の子は豊宇気毘売(とようけひめ)の神といふ。
かれ伊耶那美の神は、火の神を生みたまひしに由りて、遂に神避(かむさ)りたまひき。
以上引用のみ。
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古事記はここまでに前半五十の材料となるアイウエオ言霊神、そしてここからまた五十の神を操作法の言霊神としている。
材料、古事記は言霊の教科書ですから材料とはアイウエオ五十個の言霊のことで御中主神から火(ほ)の迦具土(かぐつち)の神までちょうど五十神あって、アイウエオ五十音の言霊にそれぞれ対応した神たちのこと。
操作法、金山毘古から禊ぎの章の終わりまでにやはりちょうど五十神でこれが意識の操作法にあたる。
合わせて百神となりこの上下二段の五十と五十の形をとって鏡餅(百の道-もち)として、人のいつく道の鏡(言霊とその操作法五十音図)としている。
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1-たぐりに生(な)りませる神の名は金山毘古(かなやまびこ)の神。
2-次に金山毘売(びめ)の神。
金山のかなは文字のかなのことで、かな=神名の意、また神音=かね=鐘で神の音、言葉を知らす寺の鐘、神社の鈴の音のことです。
では操作法最初に何故金山毘古の神がいるのでしょうか。
前提として五十個の言葉が集まっているからです。この五十個の神名の集まり(山)をどうするかというテーマになっていく。
古事記の上巻は最初から最後まで音図のことしか語っていません。すべての神の名は音図からとられ神とは音図のいずれかの役割を持たせられたものです。
それほどまでに重要な秘宝であるけれど、われわれ凡人には何のことだか分からない。
この吉備の児島
の章も音図がどのように出来ていくかを語っています。
最終的には全世界を統率するスメラミコトの音図を造っていく。古事記の筆者は当然知っていることを暗示語、呪示で語っていくが、われわれは何もしないハンデを持っている。
そこで古事記の言葉の指示先をどこかに求めることになるが、そのほとんどは現実にあるもの当てはまるものを探していく。
ここでも全く同じことだが、ここでの現実とは頭脳内のこと、意識、思惟、思考法等形而上の現実を扱っている。
誰かが金山毘古(かなやまびこ)の神を鉱山の男神の意味として現実化すれば、ここでは何故そういう解釈なっていくのかその思考過程、その意識の出来方を問題にする。
自分の意識は何故金山を鉱山とするか、その由来と自分の意識の操作法を問題としていく。客観世界と主観世界を統一する姿を探していく。
そういう場合には古事記は思考とは何かの原論となり、天地の初発の時で何故人はこの世を意識するのかという場合には意識原論となる。
言葉の始まりと取れば、言語発生論になり、日本語の発生、使用法、創造法、現象論等々となっていく。
これらのことが世界の秘宝として、日本国の成り立ちの秘密、日本語の秘密として皇室の賢所に秘蔵されているという。天皇か皇室の誰かがそのことを知っているかどうか分からないが、古事記言霊フトマニを使用したスメラミコトの機能を果たしていないことは確かなことだ。
話が大げさになったが古事記との内容とはそういったものらしい。
関心のある方は古事記の内容を解明した方がいらっしゃるので、その方のHPを訪ねるのがいいと思います。
一言メッセージ欄にアドレスがあります。
わたしの青臭いブログも何とか読めそうというかたは、ひきつづきどうぞ。
吉備(きび)の児島(こじま)、2。
引用文以上にすぐれたものは存在しないのでそのまま掲載します。
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この子とは火の夜芸速男の神のことです。またの名である火の?魁覆��筺鉾皛鼎凌澄Σ个硫犇馘擇凌世眛瑛佑貌�法峅弌廚了悊�蹐気譴討い泙后0北軻疊�量燭鷲弖�北軻甦瑤量燭蛤Гい靴道綾銃鵑了匆擦鮴犬漾△修譴鮨逝緤源忞文昔逎鵝砲防修錣靴董�膩弩渊戎澄Ω渊集昔遒�垢戮峠仟靴い泙靴拭�海谿幣紊慮昔遒詫④蠧世泙擦鵝0北軻疊�量燭呂發�劼�犬瓩覆�覆蠅泙靴拭�海了�鮑埜紊鵬个凌世鮴犬鵑世里念北軻疊�量燭僚�△�仆�覆笋韻鼻砲鬚靴読袖い砲覆辰討靴泙辰拭△班集修靴泙靴拭B整陀閒薫賣�涙�遒任△蠅泙后8渊讐燦昔遒�仟靴い泙靴燭里如△海譴茲蠅修貪俍昔遒寮依�Τ萢僂慮‘い�呂泙蠅泙后£
1-2--、 たぐりに生りませる神の名は金山毘古の神。次に金山毘売の神。
たぐりとは嘔吐(おほど)の事でありますが、ここでは「手繰(たぐ)り」の意の謎です。金山毘古の金は神名の意です。言霊一つ一つを粘土板に刻んで素焼きにした甕を手で手繰(たぐ)り寄せますと神代文字の山(神山)が出来ます。
精神的なもの、物質的なものすべてを整理する為には先ずすべてのものを手許に寄せ集めることから始めなければなりません。
金山毘古は音を、金山毘売は文字を受け持ちます。
【註】金山毘古の神に始まる古事記神話の言霊の整理・活用法の検討は実に総計五十の手順を一つ残らず明らかにして行きます。その間、どんな小さい手順も疎(おろそ)かにしたり、省略する事はありません。その手順はキッチリ五十にまとまります。その手順の一つ一つを読者御自身の心中に丁寧に準(なぞら)って検討されることを希望いたします。
3-4-- 屎に成りませる神の名は波邇夜須毘古の神。次に波邇夜須毘売の神。
屎は組素(くそ)の意を示す謎です。言霊五十音を粘土板に刻んだものを埴土(波邇)と言います。
その五十個を集めて一つ一つを点検して行きますと、どの音も文字も正確で間違いがなく、安定している事が分った、という事であります。
この場合も毘古は音を毘売は文字を受け持ちます。
【註】大祓祝詞(おおはらいのりと)や古事記の「天の岩戸」の章には「くそへ」「糞(くそ)まり」という言葉が出て来ますが、これ等も此処に示される「組素」と同様の意味であります。
5-- 尿に成りませる神の名は弥都波能売の神。
尿とは「いうまり」即ち「五埋(いう)まり」という謎です。五十の埴土を集めて、その一つ一つを点検して間違いがないのが分ったら、次に何をするか、というと先ず五つの母音を並べてみることでしょう。「五(い)埋まり」です。
その順序はといえば、アは天位に、イは地位に落ちつき、その天地の間にオウエの三音が入ります。オウエの三つの葉(言葉)の目が入りました。弥都波能売(みつはのめ)とはこれを示す謎です。日本書紀では罔象目と書いております。罔(みつ)は網(あみ)の事で、五母音を縦に並べてみますと罔(あみ)の象(かたち)の目のようになっているのが分ります。五十の埴土(はに)を並べて整理しようとして、先ず五つの母音を基準となるよう並べたのであります。
6-- 和久産巣日の神。
和久産巣日とは枠結(わくむす)びの謎。五十の埴土(はに)を集め、一つ一つ点検し、次に五つの母音を並べてみると網の目になっていることが分りました。
その網目に他の四十五個の埴土が符号するように並べて整理してみると、五十音全部が一つの枠の中に納まるようにきちんと並ぶことが分って来ました。一見五十音が整理されたようには見えますが、まだこの段階ではこの整理がどんな内容に整理されて来たのかは分っていません。「和久」とは「湧く」ともとれるように、この段階での整理には全体として何か混沌さがある事を示しているということが出来ます。
7-- この神の子は豊宇気毘売の神といふ。
豊宇気毘売の神の豊とは十四(とよ)の意で心の先天構造十七言霊の中のアオウエイ・ワ・チイキミシリヒニの十四言霊のことで、豊とは先天構造を指します。
宇気(うけ)とは盃(うけ)で入れ物のことです。豊宇気毘売全部で心の先天構造から成る入物(いれもの)を秘めているの意となります。
「この神の子」と言う言葉が古事記に出て来る時は「この神の内容、働き、活用法、活用から現われる結論」等を意味します。豊宇気毘売とは豊受姫とも書き、伊勢神宮の外宮の主宰神であります。「心の先天構造で出来ている入れ物を秘めている神」では意味が明らかではありませんが、この神が伊勢外宮の神である、となりますと、内容が明らかとなります。
和久産巣日の神の内容が「五十音言霊を整理し、それを活用するに当り、先ず「五埋(いうま)り」によって母音アオウエイの順序に従って五十音を並べて枠の中に囲んで整理した働き」が分りました。しかしその整理は五十音図として初歩的に並べたものであって、どうしてその様に並んだのかの内容はまだ不明という事でありました。しかし「この神の子(活用法)である豊宇気毘売の神」が伊勢内宮の天照大神と並んで外宮の神として祭られている事実を考えますと、次の様な事が明らかになって来ます。
金山毘古の神に始まる五十音言霊の整理・活用を検討する作業が進み、最終結論として三貴子(みはしらのうづみこ)が生まれます。その中の一神、天照大神は言霊学の最高神であり、言霊五十音の理想の配列構造を持った人類文明創造の鏡であり、その鏡を祀る宮が伊勢の内宮であります。その内宮の鏡の原理に基づいて外宮の豊宇気毘売の神は世界の心物の生産のすべてを人類の歴史を創造するための材料として所を得しめる役目の神であるという事になります。和久産巣日の神とは言霊五十音の初歩的な整理ではありますが、その活用の役目である豊宇気毘売の神が、言霊整理活用の総結論である天照大神を鏡として戴く事によって世界中の文化一切に歴史創造という枠を結ばせる事となる消息を御理解頂けるものと思います。
以上引用のみ
吉備(きび)の児島(こじま)、3。
1-2--、 たぐりに生りませる神の名は金山毘古の神。次に金山毘売の神。
たぐりとは嘔吐(おほど)の事でありますが、ここでは「手繰(たぐ)り」の意の謎です。金山毘古の金は神名の意です。言霊一つ一つを粘土板に刻んで素焼きにした甕を手で手繰(たぐ)り寄せますと神代文字の山(神山)が出来ます。
精神的なもの、物質的なものすべてを整理する為には先ずすべてのものを手許に寄せ集めることから始めなければなりません。
金山毘古は音を、金山毘売は文字を受け持ちます。
ことの始めは、材料をたぐりよせること、手さぐりで集めること、たぐり上げること等から始まる。
たぐりは嘔吐のことで、食したものが形無く混じり合ってどろどろになっている状態を指す。
鉱山での解けた容鉄のイメージでもある。
これから成すべきことの材料はあるが、区別のつかない形、内容等を判別できない単なる集合体ということです。
言霊が五十個あるがその利用法が分からない状態、研究材料資材は整っているがどのように手をつけていいか、多数の蝶々を収集はしたけど収集の山になっているだけ、基金箱にお金は入っているがコインも紙幣もゴミも他国の通過も全部一緒くたの状態、活動をするにあたってこういった状態をさすのではないかとおもう。
金山毘古の神とは何かを考えているわたしの頭を例にとれば、本を読んで知っていることをかき集め、多少演繹なり帰納なりした経験知識のプラスアルファをこうやってブログに書き込むことだろうか。
古事記の書かれ方からすれば、一つ残らず材料がそろった状態となっている。
それをわたしの頭の中に変換すれば、現在までの使用可能な知識ということか。
また古事記によれば、金山毘古は音を、金山毘売は文字を受け持ちますということで、材料の二面性というか二重性がある。
記入された文字文章群はあるが、頭脳活動の内容と、その表記の二面性か。
いずれにしてもそういったものを、たぐりよせることになる。
たぐりよせるとは主体の活動に関係のあるものを選択取捨することも含まれているようだ。
材料の一個一個の差異と差別は既に明瞭であることが、前段五十個の言霊で示されている。
ここですぐに問題となるのは、われわれ凡人には明瞭化された一つ一つの材料を自覚していることは少ないことだ。さらにこれから目指す方向は何も見えていない。希望と意志はあっても材料の扱いは知らない状態にある。
そんな泣き言は言わないで続けよう。
思惟行為にとっての金山毘古は音を、金山毘売は文字の、金山を二つに分ける意味は何だろう。音は活動主体で、文字は受動客体の感じがする。
ある材料に関してそれの扱い方の意志、目標に従って、変化するものだろうか。蝶々の収集を地域別とか、進化順とか、大きさとか、形、美しさとかの主観に従うことか。
募金箱の中身をその設置した意図によって分類するものだろうか。
では主観とか、意志とか主体の活動とかはどこからくるのか。先天の十七言霊か。
3-4-- 屎に成りませる神の名は波邇夜須毘古の神。
次に波邇夜須毘売の神。
屎は組素(くそ)の意を示す謎です。
言霊五十音を粘土板に刻んだものを埴土(波邇)と言います。
その五十個を集めて一つ一つを点検して行きますと、どの音も文字も正確で間違いがなく、安定している事が分った、という事であります。
この場合も毘古は音を毘売は文字を受け持ちます。
吉備(きび)の児島(こじま)、4。
3-4-- 屎に成りませる神の名は波邇夜須毘古の神。
次に波邇夜須毘売の神。
屎は組素(くそ)の意を示す謎です。
言霊五十音を粘土板に刻んだものを埴土(波邇)と言います。
その五十個を集めて一つ一つを点検して行きますと、どの音も文字も正確で間違いがなく、安定している事が分った、という事であります。
この場合も毘古は音を毘売は文字を受け持ちます。
屎戸―
古事記神話に「大嘗(にへ)聞こしめす殿に屎まき散らし」とあります。屎(くそ)
とは組(く)む素(そ)で五十音図表を構成しているそれぞれの言霊のこと。五十音
図の縦横の並びの順序の如何を考えず、バラバラにして播き散らしてしまう罪で
あります。
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屎は柔らかくぐにゃっとしていて、それが丁度粘土のようなところからの連想です。
型に押し込みはめ込めば型の通りに自由自在になる。
波邇は埴輪の埴で粘土のこと。形あって形無く、意図や用途によって形が決められていく。
夜須は安らか安心安定するで、指定された場所に落ち着くこと。粘り、練るから。
材料は集まっていますが、精神的にしろ物質的にしろその整理法が確立されていません。まだ雑多なままです。
自分の精神上では集合した材料のそれぞれの違いや差異は認識されています。
しかし、あるべき姿、落ち着く先、定位置等、材料の量、質、時、場所、空間、次元、意図目的、欲望、比較、鑑賞、選択等々、材料自身の性質も、その認識の仕方も一定したものではありません。
そういったこちこちのがちがちでお互いの関連が見られないものを、粘土に水を加えて柔らかくしていく譬喩にしました。それはちょうど古代文字が粘土を焼いて板状にしていたものを、新しい秩序の基に配置配列させるために柔らかくしたという譬喩です。
そうするとある一定の企画の基に相関するものが見えてきます。
ここでは組み込まれる材料(く)の一つ一つの要素(そ)を意図目的に沿って形を整え直して、安定した状態で使用可能にすることです。
たぐりは口からでる言葉の暗示で、浮遊する飛び交う言葉、一方糞は下から出て地に着いて安定する暗示となっている。こうして安定的に使用できる一つ一つの言葉、材料が揃ってきた。
ここでも波邇夜須毘古の神と波邇夜須毘売の神の二神を挙げています。音と文字を示すが、二神にしなければならないほど重要なことでしょうか。
古事記では一対の神とする場合とそうでない場合とではどのような違いがあるのか。
材料は通常はそこら辺に転がっています。深く地下を堀り大規模な装置が必要としても、その結果を伝える言葉なんという事はない手元にあるものです。言葉をもって話すか、文字をもって伝えるか、誰にもある五感をもってします。
認識する頭脳の機能があるので、ものがそこに無くても考える事もできます。言葉にしようもないほど遠い何億光年の世界も語る事ができれば、目前の見えない塵についても語ることができる。
材料があるとはどういうことか。なんでもない頭の働きはなぜ可能なのか。目前にある物やいる人を見るときと見ないときがある。同じ物でもその説明は見る人によって十人十色となっていく。
たぐりに成るもの、くそに成るもの、そして尿(ゆまり)に成りませるとあって、毘古と毘売、売と日となっている。一対の神か、一つの神か。
吉備(きび)の児島(こじま)5。
5-- 尿に成りませる神の名は弥都波能売の神。
尿とは「いうまり」即ち「五埋(いう)まり」という謎です。
五十の埴土を集めて、その一つ一つを点検して間違いがないのが分ったら、次に何をするか、というと先ず五つの母音を並べてみることでしょう。
「五(い)埋まり」です。
その順序はといえば、アは天位に、イは地位に落ちつき、その天地の間にオウエの三音が入ります。
オウエの三つの葉(言葉)の目が入りました。
弥都波能売(みつはのめ)とはこれを示す謎です。
日本書紀では罔象目と書いております。罔(みつ)は網(あみ)の事で、五母音を縦に並べてみますと罔(あみ)の象(かたち)の目のようになっているのが分ります。
五十の埴土(はに)を並べて整理しようとして、先ず五つの母音を基準となるよう並べたのであります。
尿--「おしっこ」「しと」「ばり」「いばり」「ゆばり」「ゆまり」。
ゆばり 【▽尿】〔補説〕 「ゆまり」の音変化。〈和名抄〉「ゆまり(湯放)」の転。小便。いばり。[和名抄]
ゆ‐ばり【▽尿】。ゆばり‐ぶくろ【▽尿袋】膀胱(ぼうこう)のこと。〈和名抄。ゆばり-つぼ 【尿壺】膀胱(ぼうこう)。名義抄
ゆまりをいうまり=五埋(いう)まり、と読み替えています。勉強したてなので理解がきつい。
五つの母音とア-オ-ウ-エ-イの順序、これはどこからきたのだろうか。
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吉備の児島 の領域に属する神たちは、ギミの命の両者によって産まれたのではなく、ミの命の吐瀉ぶつによる。それをギの命が集め材料にした。ギの命の主体的な行為は集めたり整理し検討することにあって、材料は客体を司るミの命からえられた。
これはいわば他人のしたことを寄せ集めたことになる。自己の頭脳内の思惟行為だけだという場合にもその思惟行為は既存の文字言葉を受け取って駆使されていく。
収集整理検討をして行くことがどうして母音と繋がるのだろう。
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『この果てし無く広い、エネルギーが充満し、しかも現象としてはそれ自身を顕さない心の宇宙に名を付けるのに、日本人の祖先は五十音の中の母音を当てたのでした。』
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収集整理を母音と繋げることではない。そもそも集めることが母音行の一段階を形成してしまっている。もし母音と繋げるようなことがあるなら、当然その心があり、その心の位置がある。、金儲けのためとか、知識の満足のためとか、他人との比較のためとか、そういった規定されている心が生じてしまっている。
古事記はそういった心の動きの原理を解説しているのだから、生じてしまった意図を分類整理するわけじゃない。
例えばこうして古事記と言霊を理解しようといろいろと駄文をものにして、それなりに知識が形成され習得された記憶等を使用しているが、それらのわたしの行為自体が、新たな知識を得たいという段階にいてそこから全てのわたしの行為が始まっている。
わたしは単に都合よく習得したいだけの心持ちでしかない。
またもやここで断絶。中止。
ぜろの発見へ。
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